第二章 7話
いつもの夢だ。
そう、思った。この禍々しい空気は、いつもの夢独特のものだ。
だが。
律花は水面を眺めていた。
風が吹くたび、ゆらゆらと波紋を広げる水面。風が凪いだ時にだけ、そこに映る顔は、相変わらず馴染めない、自分に似ているけれど自分ではない人の顔。
ふいに、水面の、自分の顔の背後に人影が映る。
律花は驚愕した。それは、まさしく自分の顔だ。
驚いて振り返ると、口元に不気味な笑みを浮かべて、制服を着た自分の顔をした誰かは言う。
「あなたの使命は……」
水面から、どんどん水が溢れて来る。
ひたり、と足に水が当たる。
背筋がゾッとした。
嫌だ。
水は怖い。
嫌だ……。
目が覚めて、視界が霞むのに驚いた。起き上がろうとするも、全身が痛い。
ぼんやりとした輪郭だけしか掴めないが、周囲を見渡す。
そこは、もう戦場ではない。どうやら室内のようだ。それも、下男の部屋ではない。
暖かくて、快適で、布団も柔らかい。
しばらくそうして辺りを探っていると、襖が開いて、誰かが入ってきたのが気配と衣擦れの音で分かった。律花がそちらに顔を向けると、畳を踏む足音と共に、明るい声が降ってくる。
「ああ、律。やっと目が覚めたんだね。調子はどう?」
「彰、さん?」
出した声はからからに掠れていた。
彰は律花の布団の脇に座ると、湯呑みを差し出す。
「白湯だよ」
律花は痛む体の半身を起こし、手探りでそれを受け取り、口をつける。喉が渇いていた感覚はなかったのだが、一旦口をつけてしまうと、急に渇きが蘇ったようで、一気に飲み干してしまった。
湯呑みを彰に渡すと、律花はやや当惑したように尋ねる。
「ここは?」
律花の言葉に彰は苦笑するように言った。
「ここは、屋敷の中だよ。律のおかげで戦に勝てたから、朝熙様が良い部屋に移してくださったんだ」
「戦に、勝てた?」
律花の言葉に朝熙はただ、笑って頷くだけだった。
彰はどうやって勝ったかまでは、言う必要がないことだと判断した。それをしてしまえば、律花は傷つくだろう。それよりも今は安静にして体を休めた方が良い。
「それにしても、律、相当くたびれていたんだね。まる1日眠り続けるなんて」
彰は話題を変えるためにそう言う。
「え?」
そんなに?と案の定、律花は乗ってきた。
「目のほうは、大丈夫かい?」
そう尋ねると、律花は首をふる。
「霞んでよく見えないです。輪郭くらいはわかるんですけど。……でも、戦場にいた時よりマシになってる気がします」
そうか、と言って彰は首をかしげる。
「もうしばらくしたら、薬師が来てくれる、と柏が言っていたよ。多分、一時的なものだろうから、薬師に見てもらえば治るとは思うけれど。一応、コレも渡しておくよ」
言って律花の手に何かを握らせる。碗に何かが入っている。
「これは?」
「目に効く薬草を煎じたものだよ。それを眼に垂らせば良いらしい。少し、沁みるという話だが」
「ありがとうございます」
律花が言うと、彰は笑んで頷く。
「さあ、それを注したらもう少し眠ると良い。今は回復だけを一心に考えることだよ」
律花は彰の言葉に促されるように頷いた。
それからずっと、火照った様な体でまどろみの中にいた。
幾度か眼が覚めて、言われるままに不味い薬湯を飲んで、また眠って。
何か、たくさん考えるべき事はあったと思うが、心と体の疲労が限界を超えていて、それをすることも出来なかった。
何度も、悪夢を見てうなされた。
それは、例の禍々しい夢ではなくて、もっと直接的な物。
戦場で律花が見たものだった。
昔、風邪を引いたとき、怖い夢を見てうなされると、決まって起きた時、母親が側にいて、眼を開けると優しく頭を撫でてくれた。
律花はうなされて微かに目が覚めて、眼を開けるとき、いつも母親の手を期待するのだが、そこには誰もいなく、また、落胆して悪夢の中に落ちていくのだった。
律花の体が回復したのは実に、一度目覚めてから5日後のことだった。
目が覚めると、知らない初老の男が鬚を撫でながら笑っていた。
「ようやく目覚めなすったか」
キョトンとする律花に老人は柔和な顔で笑う。
「目の具合はどうかね?」
言われてみて、自分の目が霞んでいた事を思い出した。今は、もうなんともない。
「見えます」
律花の言葉に老人は満足そうに頷く。
「そりゃぁ良かった。体の方も回復したようじゃし、もうわしは用済みじゃな」
「あの、どちら様ですか?」
当惑したような律花の言葉に老人は破顔する。
「そうかそうか、わしはすっかり知り合いになった気でいたが、そなたは眠っていたからな。わしは薬師じゃよ。朝熙様から依頼されてあんたの介抱をしていたんじゃ。……あんた、巫女なんだとな。とてもそうは見えんが」
その台詞で、律花は戦場で自分が口走ってしまった事を思い出す。
―――どうしよう。もうアレで、私は巫女ってことになっちゃってるのかな?
少し後悔はしたが、でも、あの場合はああ言うしかなかったとも思う。
そんな律花の心中などまるで気づかずに、老人は身支度を整えて「では、達者でな」と言って、席を立ってしまった。
老人がいなくなって少し呆然としていたら、襖が開いて彰が入って来た。
「どうだい?気分は」
相変わらずの明朗な声。律花は小さく笑みを作って頷く。
「すっかり良くなりました。ありがとうございました」
その言葉に、彰は笑う。
「俺は礼をされるような事はしてないよ。律が活躍したから、朝熙様はこうして丁重にしてくれる。これは、律が自分で切り開いたものだ」
そうして、律花の脇に着物とお湯の入った桶と、手ぬぐいを置く。
「身支度が整ったら、早々で悪いけれどジンに餌をやりに行ってくれないか?誰が与えても、警戒してか食べてくれないんだ」
彰に渡された肉を持って、律花はジンの元へと急ぐ。
ジンは戦の日から、かれこれ8日程、何も食べていないと言う。
「律の手から以外食べないなんて、律、すっかりジンの母親だね」
彰は笑って律花に肉の包みを手渡した。
その台詞には、律花は首をかしげるしかないのだけれど。ジンは全く自分に懐く様子はなかったからだ。それでも、少しは心を許してもらえたということだろうか。
案内された中庭では、木につながれたジンが律花の姿を認めると、恨めしげに唸った。
以前見た時よりも、大分痩せ細ってしまっている。
「お待たせ」
言って包みを差し出すと、偉そうな態度でガツガツと食べ出した。




