三章 兎と亀
三章 兎と亀
東京見学のついでにやって来た、という口実でも受け付けの老婆は馬頭一行を通してくれた。商売敵が敵情視察にやってきた、という事実はもはや隠しようもないので、馬頭達もそれなりの装備を整えていく。
ダイモンのオフィスが入っているフロアに降り立つ前、だだっ広いエレベーターの中で馬頭は自前のガバメントの装弾数を確かめた。装填済みの分も含めて、きっちり10発収まっている。隣では江ノ島がレミントンのグリップにマガジンを仕込んでいた。その顔つきはどことなく楽しそうである。物部はというと、愛用のスタンガンを空中に派手に放電させて遊んでいた。威力を確かめているようにも見える。相手の首筋か心臓に当てれば、下手な銃火器よりも致死性は高いだろう。
「よし、てめぇら、気合入れてけよ。いくぞ!」
そんな馬頭達が拍子抜けするほど、応接室の先には何も待ち受けてはいなかった。代わりに陽気なゴリラ面が三人を待っていた。
「いやーっ、馬頭さん達、よう来なさった。どうぞゆっくりしてって下さい!」
大門と海老原の二人は再び快く馬頭達を出迎えてくれたのである。
「ほら、有意、こちらが馬頭さんと物部さんに、江ノ島さん。ご挨拶なさい」
「はーい、海老原有意です。初めまして、です」
ダイモンのオフィスには大門と秘書の海老原以外にも来客があった。海老原有意と紹介されたその少女は秘書の海老原有価の妹なのだという。
「ーあぁ、初めまして、馬頭一徹だ。よろしく」
馬頭の隣で物部と江ノ島が、まだ高校生ぐらいにしか見えない有意に向かって順番に自己紹介をしている。平日の昼間に来訪している次第なので、何か事情があるのだろう。
三人はそれぞれにそう判断して、有意がオフィスに居る事情について深く詮索はしなかった。
「大門さん、悪いが今日は前みたいにへべれけに酔っ払う訳にはいかない。あんたらが、ウチの顧客を片っ端から手籠めにしてるのかどうか、確かめに来たんだ。あんたらだって、俺たちがこうしてやって来た理由位、見当付いてたはずだろ」
自己紹介は大事である。例え、何回したって減るものではない。精々が、くどくなる位である。馬頭は席に着くなり、大門にいきなり確信を迫った。有意が居るからといって遠慮するつもりもなかった。正面から机を挟んで向こう側にいる大門を見据えてみる。
「それじゃあ、奥の社長室で、二人きりでどうです?」
大門の真意はいまいちよく読めなかった。一瞬、馬頭と大門の視線が交錯する。正直、あまり正面からはかち合いたくない相手だった。畳の上で、丸腰だと、さしもの馬頭もぶちのめす自信が無かった。
「ここには有意ちゃんもいたはるし、何も、お嬢さん方に、商売の生臭い話を聞いてもらう事もないでしょう。—どうです、奥で内緒話でも?」
大門の目つきが一瞬、鋭くなった気がした。すぐに元のへべれけ親父の顔が戻る。
「あぁ、私の方としても、願ったり叶ったりだ。それじゃあ、京の字も、先生も、ここでゆっくりして下さい。すぐに戻る」
馬頭はそれだけ言い残すと、大門に導かれて応接室の奥の社長室へと消えていった。オフィスの応接室には物部と江ノ島、それから海老原姉妹が残された。
残された二人は、お互いに大変な気まずさを覚えた。仕方がないので、何とか共通の話題を見つけようと物部達が四苦八苦していた頃、社長室に通された馬頭は、大門に勧められるがままソファに腰掛けた。
「それで?何が聞きたいって? ウチがあんた等の顧客をガメてる言うんでっか? そりゃ、あんまり穏やか物言いやないなー。そりゃ。まぁ、私が知ってる事で良けりゃあ何なりとお答えしますけどもね」
大門は自前のソファに、どっこいしょと言いながら座り込みながら言った。ついでに小指で耳をほじってみせる。しらばっくれるつもりなのだろうか。
室内は大門の趣味であろう派手な色彩の内装で統一されていた。事務机が窓際に置かれ、その前に背丈の小さなテーブル、それを挟むように二人掛けのソファが二組置かれている。トラの剥製であろうか、そのマットがテーブルセットの下に広がり、来訪者に妙な圧迫感を与えていた。壁際の暖炉の上には額縁が乱雑に積まれており、そのほとんどが、大門が現職の警官だった頃に受けた表彰状のようだった。
「あの表彰状、全部、あんたのかい?」
まるで気分は探偵である。今、馬頭は、トレンチコートに手を突っ込んだまま、襟を峙て、カーペットの上を歩きながら、部屋の中の一つ一つを注視していた。従来、落ち着きの無い性格なので、椅子に座りっぱなしというのは性に合わない。
「ん? あぁ、あれでも減った方ですよ。表彰状というより、同僚と一緒に撮った写真とかの方が多いねぇ」
壁際にはもう一つ、社長室には場違いなホワイトボードがキャスター付きで置かれていた。ボードには字がびっしりと書き込まれ、所々に写真が磁石で張り付けられている。中には馬頭が見知った顔もあった。それぞれに矢印が引かれ、どうやら詳細な相関図になっているようだった。
「職業病って奴だな、アレがないと、どうにも落ち着かねえんだ」
ホワイトボードを物珍しげに眺めていた馬頭に向かって大門はそんな事を言う。ゲラゲラと笑う大門に対して馬頭は向き直った。これ以上、間を取っても、埒は明かない。大門のような男は、自分からは多分、商売の秘密を話さないだろう。のらりくらりと、躱されるに決まっている。だったらせめて、訪ねてきた自分の方から口を開かせるのが筋というものだろうと馬頭は判断する。
搦め手や腹芸は元来、好きでは無かった。というより、そう言うのが好きな連中を、拳一つでメタメタにして来たから自分の今が有る。そんなはた迷惑な自負心が、馬頭一徹のパーソナルデータ、そのアイデンティティに根ざしているのである。
馬頭はまどろっこしいので、いつも通り、そんな、自分の内なる声に従う事にした。馬頭はここに来た目的、これまで抱えていた疑問を、直球で大門にぶつける事にしたのだ。
「大門さん、俺があんたに訊きたい事は三つだけだ。一つ、どんな独自の配送ルート、あるいは営業所を持っているのか。二つ、あの料金設定でどうやって利益を出しているのか。三つ、本当に、ウチの、ととてけの顧客を引き抜いているのか、そして、もし引き抜いているなら、あんた等、ダイモンが提供しているサービスの何処にそんな魅力があるかって話だ」
馬頭の質問に大門はすぐには答えなかった。その代わり、大門は馬頭に葉巻を吸っても良いか、と訊いて寄越した。
「ここはあんたの部屋だ。好きにしてくれ」
馬頭が即答すると、大門は自分が座っている事務机の引き出しをゆっくりと開けた。馬頭は一応、その一連の動作を眼で追った。左手は腰に回したままだ。流石に現役時代さながらとはいかないまでも、ニューナンブ相手に負けはしないだろう。グロッグだったら話は別だが。
大門が身を起こした時、その手に握られていたのは、果たして葉巻とライターだった。大門はそれを口に含み、片側を歯で乱暴に噛みちぎる。それからゆっくりと切り口をライターで炙ってから口元に持って行く。旨そうな吸い方だった。
「あんたもどうだい?馬頭さん、ハバナ産だぜ?」
馬頭は大門の申し出を丁重に断った。大門はたっぷり一本分楽しんだ後、吸い殻を事務机の上に置いてある趣味の悪い、亀の造形を象った鈍器のような灰皿に投げ入れる。
その間、馬頭も大門も、誰も声を上げる者は居なかった。社長室の壁に飾られている振り時計のカチカチという音と、隣の応接間から漏れてくる楽しげな話し声だけが社長室のカーペットに消えていく。
最初に口を開いたのは大門だった。それは最初の質問に対する回答ではなく、馬頭に対しての、新たな質問だった。
「ーなぁ、馬頭さん。あんた、どんな目的があって、今の商売始めたんだい?」
大門の問いかけの意味を馬頭はすぐには理解出来なかった。この男が何故、この状況でそんな事を言うのか。馬頭が真意を測れずにいると、大門の方から補足があった。
「いや、だから、そんな難しく考えてくれなくて良いんよ。なんで目の前にある荷物を運ぶんだ、とか。そうじゃなかったら、誰のためにそのダンボールを抱えて走るんだ、とか。そんな奴。 ーあぁ、上手く言えんわねぇ、何て言ったら良いんやろ、こんな時。」
大門は額を指でなぞりながら頭を抱えて見せる。上手い表現が見つからず、困っているようにも見えた。一見して、眠たそうでもある。一瞬、ゴリラ顔が、たるんで見えた気がした。
だが、不思議と、馬頭には大門が言いたいのが何なのか、朧げながら分かるような気がした。頭でというより、もっと心臓に近い所で、である。
どうして、目の前にある荷物を運ぶのか。誰のために、オンボロジープを走らせるのか。馬頭自身、この配送業という職種に就いてから、時たま、考える事だった。
ふいに、あのヤク中女の顔が頭に浮かぶ。どうしてだろう。多分、社長室のホワイトボードの写真の一枚に薬師寺鏡子の顔があったからというだけではあるまい。
俺は例えば、彼女に何かしてやっただろうか。そんな疑問が馬頭の心につっかえとして引っかかっていた。
考えてみればおかしな話だ。一介の配達員でしかない自分が、只の届け主に対してどうしてそこまで心配をする必要があるのだろうか。むしろ、無遠慮な干渉はかえって迷惑になるかもしれない。それは重々分かっているのに、胸に残るわだかまりは消えない。
彼女の落ちぶれてゆく姿や日ごとに悲惨になっていく姿が浮かんでは消える。別段、下心やそういった感情では無い。まぁ、無いと言えば嘘だが、前の彼女と酷い別れ方をして以来、面倒臭くなっていた。これはもっと別の何かである。
薬師寺だけでは無い。配送をする内に知ったモンスターコンシュマー達の窮状。彼らに対する憐みの気持ちがこの胸のわだかまりの正体なのか。それとも彼らをそこまで追い詰めた社会に対する義憤や怒りが正体なのか。
いや、違う。多分、そんな高尚なものではない。
物部と初めて会った時、彼女がマンションの地べたに座り込んで怒鳴りあげた叫び声が馬頭の耳に蘇る。
元大学教授の邸宅で、一人寂しく荷造りをしていた老人の姿も馬頭はよく覚えていた。
あの二人にどうして俺は手を差し伸べたのだろう。しなくても良いお節介を焼き、収益も伴わない賃貸業を始めた。そうしなければならない理由が俺にはあったからだ。
馬頭は徐々に記憶を紐解いていく。すると、ふいに目の前を一羽のウサギが横切った。ウサギはもちろん馬頭の幻覚である。ととてけの一応は看板キャラクターという事になるそれは一瞬の内に立ち消えてしまった。馬頭にはそれがどうして出てきたのかわかった。おかげで胸のつっかえの正体が分かったような気がした。—贖罪、罪滅ぼし。恐らくそんな所だ。
「・・・理由ならある。多分、この仕事を始めた理由だ。少し、長くなるかもしれないけれど、良いか?」
馬頭はそういっておもむろに口を開き、自分がととてけ運送を立ち上げるに至った経緯をポツポツと話し始めた。
「別に話自体は大した事じゃない。昔の、自衛隊時代の同僚でツルんでいた奴がいて、そいつがいつか自分の会社を持って、自分でトラック転がしてみたいって言ってたのを、そのまま頂戴しただけさ。理由って言えば、それが理由だ」
「へぇ、そいつは今、何を?」
大門はたるんだ頬を手の平でごしごしと摩ってから馬頭に続きを促す。馬頭は一瞬、苦笑してみせた後、続けざまに口を開く。
「死んだよ。訓練中の事故だ。少なくとも記録ではそうなってる」
馬頭は特に面白くもなさそうに淡々とそう答えた。
耳にヘリのローター音が木霊す。横殴りに殴りつける突風の風切り音。全て幻覚だ。オフィスビルの部屋の中で聞こえるはずもない。それは馬頭にもわかっていた。
馬頭は中学を卒業した後、自衛官になった。正しくは工業高校中退である。難癖を付けてきた上級生を一人ずつ半殺しの目に遭わせていくと、仕舞にはそれがばれて放校された。退学処分を受けた日、その足で地本の看板を叩いた。
高校を辞めたのはむしろ正解だった思う。通う価値の無い工業高校で良かった。下手な私立にでも入れられていたなら、飼い殺しにされて、ブ千切れていたかもしれない。その場合なら今頃、精神病院でも脱獄し、プリズンブレイクして玄田辺りと社会転覆を本気で企てていたはずである。
馬頭は自衛官の命を受けて以来、親とは会っていない。訓練期間中も一切見舞いにも来なかった。それは別にどうでもよかった。
問題は自分の生来の、生臭癖なり協調性のなさが終ぞ抜けなかったという事だ。行く先々の部隊内でトラブルを起こし、次に問題を起こせば、いよいよ追い出されかねないとなった頃に出会ったのが稲葉だった。
前歯の出っ張った、それでいて妙に愛嬌のある男だった。その容貌は何処となく原っぱでひょっこり立ち呆けて、こっちを見ている野兎を彷彿とさせた。おかげで、最初話しかけてきた時は面喰ったものだ。
稲葉は誰にでも気さくに話しが出来、偏屈な馬頭相手でも色眼鏡で見るような真似はしなかった。その気さくな同僚のおかげで、馬頭は何とか編成替えになった舞台で居場所を確保する事が出来たのである。それからは何かと馬が合い、随分と青写真が不鮮明な、自分達の将来について語り合ったりする事もあった。
「俺ぁーねー、自分でトラックを持って転がすのが夢なんよ。そのために自衛隊にも入ったんさ。ほら、昔の東映とかでよくあったじゃねーかー。何、知らない?一徹、そりゃ、お前の勉強不足だ。人生の半分は損してる」
名古屋出身とかで独特の訛りが酷かった。今も昔も、中部は自動車大国である。小さい頃から8車線だか10車線を行き交う働く車を見続けていた少年は、未だに夢を捨てられずにいた。
その同僚がレンジャー部隊に行くと聞いた。馬頭はもう28歳になっていた。流石に、全世界同時革命なんて夢のまた夢だろうと思い始めていた。丁度その頃、2020年辺りからバルチサン対策やゲリラ対策だとかで、各部隊から強制的に中央即応部隊への招集が掛かるようになっていた。むろんそれは防衛庁の建前で、今どき自衛官の中でも好き好んで志願する奴はいないというだけの話だった。このままでは栄えある空挺部隊の存続が危ぶまれる、という訳で報奨金付きの志願者を上層部は募っていた。稲葉はそれに飛びついた訳である。
「もう少しで独立資金が貯まりそうなんよ。ここらで一発稼いどかねえと、何時前みたいに一斉解雇が来るかわかんねぇしな」
世では公務員の一斉解雇の騒ぎが広がっていた。幸い、自衛官は元々隊員数が年々著しく下降傾向にあったのでその仕訳を免れていた。だが、それが自分達の首が安泰を意味する訳では無い事は、自分達が一番良く理解していた。
結局、馬頭もレンジャー部隊に志願した。何でもそつなくこなすが、人の良い稲葉が心配だったという事もある。二人揃って合格した。その晩は大いに飲んで騒いだのを覚えている。
稲葉は商業者のカタログを馬頭の鼻先に押し付けてきた。幾つかにマーカーで囲いがしてある。借りるテナントの目処もすでに立っているらしい。
運送業なんて、そんなに良いもんか?きついだけじゃないのか、そう嘯く馬頭に対し、稲葉は夢を語って見せた。地元で燻ってる友人や後輩を集めて、商売を広げていく。関わった人すべてが笑顔になるそんな物流を実現するんだ、と奴は言った。
仕舞には、どうだ馬頭、お前も一緒にやらないか、俺の右腕になってくれや、と来た。その時は酔っ払いの戯言だろうと聞き流したが、その真意は今でも分からない。
ただ、馬頭には、その夢を臆面も無く語る同僚がやけに輝いて見えたのを覚えている。
それからしばらくして稲葉は死んだ。訓練中の事故だった。
訓練教官がふざけた奴だった。何を血迷ったのか、暴風注意報が出ている最中に降下訓練をやると言い出した。横殴りの風がヘリの機体に叩きつけられる。ヘリの操縦手ですら機体を地面に叩き蹴られないようにするのに精一杯だという状況で訓練は敢行された。
通常、横合いから風が吹いているような状況で降下訓練は行われない。風速40mを超えた時点で、落下傘のパラシュートは風に煽られ、その意味を失うからだ。浮力を稼げなくなったパラシュートは只の布きれであり、ダイバーは真っ逆さまに地面へと叩きつけられる。アイツの時もちょうどそんな感じだった。
先に、部隊の常連さん方が降りて行った。ちょうど機体がエアスポットに入ったとかで、瞬間的に風が吹いてない時を見計らっての落下傘だ。
「それでも途中で煽られて、古参の連中ですら着地に失敗して、足の骨が折れてる奴もいた位だから、やっぱりあれは真面な訓練なんかじゃなかったんだろう。新米に無理やり飛ばせてどうなるか位、想像ついたはずだ。最後に、俺と稲葉だけが残った」
タラップに立つと、目の前の空間に空気以外何もないのだと肌で実感できた。風はまた強くなっていた。
無理だ、と稲葉は“上官”に具申した。馬頭もそう思った。真面な奴ならそう思うだろう。だが、馬頭たちの後ろに立っていた訓練教官の思考回路はどうやら違ったらしい。何をとち狂ったのか、そいつは俺の真横に居た稲葉を空中に突き落した。
「ガタガタ言うな、だとかそんな国防ためにも糞の役にも根性論を垂れ流していたのを覚えているよ。ともあれ、俺はあっという暇すらなかった」
目の前で、初めて親友と呼べたかもしれない男が錐もみしながら落ちていった。インカム越しに、地面に叩きつけられる音が聞こえた。最後に、くっ、という歯を食いしばる音がした。
「なんとか体勢を立て直そうと頑張ったんだろうな。必死で粘ってやがる様子が中継されてんだよ。メインのパラシュートを何とか切断して、予備を広げた時にはもう遅かった。まぁ、叫び声を聞かなくて良かったのだけは、俺にとっちゃあ幸いだったね。全く、大した男だよ」
馬頭が向こうを見遣ると、大門は口元で指を組んだまま、何も言わずに虚空を見つめていた。続きを促しているように見えたので、そのまま続ける事にする。馬頭は話を続ける。
恐らく、そんな暇も無かったのだろう。それとも、妙な所で意地っ張りな奴の事だから、声を押し殺したのかもしれない。ともあれ、馬頭の頭のバッテリーはその時点で完全に短絡していた。
「ー後は簡単な話さ。1、俺を同じく突き落そうしやがる上官殿の顔面に、まず振り向き様に肘鉄を叩きこむ。2、それからそいつの安全帯をヘリのハンガーから外して、胸倉を掴み上げてタラップに立たせた。何て言ったかは、頭に血が上って覚えちゃいない。ふざけんなてめぇ、だとか、今からお前を同じ目に遭わせてやるよ、だとか、多分そんな感じだ。3、ともあれ、俺はそいつを抱えたままヘリの外に飛び出した」
その訓練教官は言わずもがなパラシュートを付けていなかった。馬頭は阿鼻叫喚の叫び声を挙げながら落ちていく相手を、ギリギリまで近くで見ていた。
後で思い返せば、その時の馬頭の頭からは死の恐怖の感覚が抜け落ちていた。
別に自分も死んだって構いやしない。その前にやる事が有る。
あの時、もし、落下中に偶々、死神が偶然肩に止まって、インタビューをして来たら、そんな風に答えたように思う。
「必死で俺に追いすがろうとするんだよな、そいつ。俺は教官殿のぷっくり出っ張った腹を空中で蹴り飛ばした。 ーそりゃ愉快だったぜ、何せ日頃の訓練での恨みもあるしよ。俺がようやくパラシュートを開いた時、そいつは地面に叩きつけられた。ヒキガエルが潰れるみたいな音がしたよ、グチャってな。ざまあみろってんだ」
馬頭も空中を滑空した後に、それなりの速度で地面に叩きつけられた。背中からだった。思わず、目の前に火花が散って、視界が白ける。だが、その時はそんな事はどうでもよかった。
馬頭は稲葉の姿を探した。痛む背中を無理やり起こし、落下地点まで這う這うの体で辿り着いて、その顔を拝んだ。
目と口が開いている。穴という穴中から液体が噴き出していた。正直、見れたものではなかった。馬頭は、急に馬鹿馬鹿しくなって、よっこらせ、と稲葉の亡骸と思しきモノの傍で、大の字になって寝転がった。それから、軽く、伸びをしてみる。
特に、号泣したい気持ちも、縋りつきたい気持ちも湧いてこない。代わりと言っては何だが、体の奥底から、妙な空虚感が湧いて出て来た。もはや、何もかもどうでも良かった。胸ポケットに入っているマルボロを取り出すと、その一本に火を着ける。それから吹きすさぶ空を仰ぎ見る。
ーおいおい、稲葉、お前、死んだのか。あれだけ会社やりたい、やりたいって言ってたくせによ。
そんな感想しか出てこなかった。
「まぁ、あの時、アイツが突き落された瞬間、俺は何も出来なかった。手の一つも差し出さなかった。すぐに飛び出しても良かったのに、インカムにかじり付いた。そんな俺がこれ見よがしに悲しんで見せたって、まぁ嘘っぱちだわな」
馬頭はそういって自嘲してみせる。大門はずっと指を組んだまま馬頭の話に耳を傾けていた。途中で話の腰を折る事はしなかった。
“事故”が起きてから一週間後、馬頭は自衛官を辞めた。一応は依願退職という形だった。基地側がこれ以上、事を荒立てたくないのは見え見えだった。
雀の涙ほどの退職金を片手に駐屯所を去る時、馬頭を見送る者は誰もいなかった。いよいよ基地のゲートを潜ろうとした時、近くに止まっていた一台のジープが目に入った。
旧式の73式トラック、スクラップにされる予定で駐屯所の片隅に放置されていた。
不意に、いつか自分の店を持って、トラックを転がしたい。死んだ友人のそんな言葉が脳裏に浮かび上がった。
ーあいつの分の退職金代わりだ。
馬頭はそのオンボロジープに積み込めるだけの物資を積み込んだ。親友のお気に入りだったカタログもダッシュボードに詰め込む。備品点検中だったらしく、キーは刺さったままだった。セルを回すと、エンジンがくぐもった音を起てて動き出した。駐屯所のゲートを、ジープで半ば無理やり押し通るようにして逃げた。
ーどうだ、これで成仏してくれや。
馬頭はジープのアクセルを限界まで踏み込みながらそう思った。後ろの後部座席には親友のヘルメットが転がっている。
満艦飾のデコトラとまではいかねぇが、これも立派なトラックだろうよ。
馬頭はそのままジープで東名高速を西にひた走った。遺品を稲葉の実家に届けるためだ。
「ととてけって名前は、元々、そいつが考案した名前なんだ。とと、が兎で、てけ、が全速力で逃げ出す時の擬音なんだとよ。訓練中に、塹壕で迫撃砲が暴発して、死ぬかと思った時に、神から天啓を受けたそうだ。まったく、ふざけた野郎だったよ」
馬頭は形見の品々を実家に送り届けた後、早朝の名古屋港に望んだ。まだ朝露も晴れないというのに、辺りは商業車、トラックやフォークリフトが行き交っている。入港してくる船の、木霊のような汽笛。薄霧のヴェールに包まれた大気の中に浮かび上がる案内灯の光。今から今日一日が始まるという期待感、東京や千葉にはない活気がそこにはあった。
そうか、アイツが見ていたのはこんな景色だったのかー。
馬頭は遺骨を実家に送り届けてもまだ足りなかった。駐屯所を出た時には既に日が傾いていたので、稲葉の実家に着いたのは明け方の夜中だった。夜中に叩き起こされた実家の連中は、最初は怪訝な表情をしていたが最後にはヘルメットを受け取り、馬頭に礼を言った。
「それでもまだ気が収まらなかったから、こうして商売を始めたって訳だ。俺がこの仕事を始めたきっかけってのはそんなもんだ。そんな高尚な思想や立派な考えなんてない。特に、あのブラックリストの連中を救済してやろうなんて思ってた訳でも無かった。最初は、ただの復讐だ。アイツが死んだどうこうは関係ない。俺が、腹が立った。俺が世の中に対して腹が立った。俺が勝手に懺悔したかった。俺が勝手に罪滅ぼしをしたかった。だから、この仕事を始めたんだ」
馬頭はそこまで一息に喋った。もはや大門の様子を窺う事も余り無かった。身振り手振りを交えて、熱弁を振るったような気がする。語尾に力が入っていたはずだ。馬頭は、思わず、自分が手を握り締めている事に気付いた。
「ーいや、馬頭さん。ありがとう。貴重な話を聞かせて貰った」
大門は至極真面目な表情を馬頭に向けてきた。その顔は、さっきまでのへべれけ親父のそれではない。
「いや、いいんだ。つまらない話で恐縮だが、もしかしたら、あんたからの質問への答えになっていないからのかも知れないがー」
「いや、そんなことはあらへん。凄いなと思たよ」
馬頭が自嘲しようとするのを大門が遮った。心無しか、鼻声にも聞こえる。
「アホな事言いなはんな、ほんまに。俺がその隊員さんの親御さんやったら、泣いて手ぇ伏さして貰うで? それこそ、一生、足向けて寝られへんは、ほんまに。何考えてんのあんた、立派な事したんやから、胸、張り。胸を」
そういった大門のその表情は至極真剣である。心無しか目元が赤い。何となく気まずくなって、馬頭は懐からマルボロを取り出した。ボックスを軽く振って、プカプカと吹かしてみる。
白煙が、ゆらゆらと天井へと昇っていった。馬頭と大門はしばらくお互いに何も喋らなかった。振り時計の振幅と、応接室から漏れ聞こえるてくる喋り声だけが部屋に響いている。
馬頭が一本分吸い終わってから、大門がようやく口を開いた。
「ー馬頭さん。そういえば、あんたの質問にまだ答えてなかったな。ほら、部屋に入ってきて初めに言った、ウチの商売の秘密を知りたいどうこうって奴。」
そういえばそんな事もあったな、と馬頭は思った。というより、ここに来た本来の目的はそれである。感情的になって喋っている内に、すっかり失念してしまっていた。頭に血が上ると前後不覚になるのは馬頭の性癖だった。自衛官を退官した位から、余計に酷くなっている。
馬頭が何て言って良いのか分からず、あぁ、だとか、気にしないでくれ、とか気の無い返事を返して、それから、後悔した。よく考えれば、隣に物部と江ノ島が居るのである。このままでは何をしに来たのか判らない。まさか、ゴリラの神父に告解をしにきた訳ではあるまいし。
「いや、あんただけに喋らしたとあっちゃあ、男が廃る。いや、あんたほんまにヤバい。噂以上の人やね。ほんまに。東京にもこんな人居たはったんやね。凄いわ。 ・・・あかん、泣きそうや。 ーちょっと待ってくれ」
そんな事を言ったきり、大門はしばらく事務机の上で云々唸っていた。何処から取り出したのか、ハンカチで鼻をかんだかと思えば、おもむろに顔を上げみせる。
「・・・やっぱり、直接見て貰った方が早いな。そっちの方がええわ。馬頭さん、悪いけど、この後、時間あるかい?」
「ーあぁ、いや。時間なら、腐るほどあるけど」
馬頭はやっぱり気の無い返事をしてしまう。一気に喋った後に一服を付けたので、ニコチンの回りが思った以上に早い。いい加減、江ノ島の言う通り、禁煙した方が良いのかもしれない。
「よし。じゃあ、車を出すから、付いてきたって。お連れのお二人さんにも見て貰った方が早そうや!」
大門がそういって事務机から勢いよく立ち上がった。そのまま応接室に繋がる出口に向かって悠然と歩いていく。大門に急かされるように馬頭もソファから立ち上がった。
ようやく、確信に辿り着けそうだ、と馬頭は思った。先程の質問は、言わば、馬頭を試す試金石みたいなモノだったのかもしれない。思いのほか、馬頭の話に大門は感動を覚えているように覚えた。何はともあれ、自分はめでたく、あのゴリラの御眼鏡に適ったのだろう。
部屋を出ていく時に、馬頭はちらりと大門の表情を窺った。真剣みを帯びていた顔つき。先ほど玄関で出迎えをしてくれた時とは印象が違って見える。大門がその気になっているのは確かなようだった。
物部は流石にうんざりしていた。海老原姉妹にではない、隣で延々と社会インフラについて講釈を垂れている、この爺さんについてである。そのお題目はと言うと、“社会サービスを維持する事の大切さ”と“そのサービスを享受する資格について”である。最高に面白くはあったが、事の重大さを理解するにつれ、この国が抱えている構造上の欠陥が浮き彫りになるので、あまり聞きたくはないのだ。はっきり言って、“怪談”の領域である。良く当たる分、恐ろしかった。
「つまり、共同体の参画者たる、意識、そのコミットメント自体が、そもそも欠けている訳だ。個人的には、そんな連中には、民法はいざ知れず、刑法、まして、憲法が保障する所の基本的人権の保障なんて気兼ねしてやる必要なんて無いんだと思う。彼等自身、それを守るつもりが無いんだから。」
さっきから延々と社会インフラについて語っている。曰く、この国にはセーフティ・ネットなんてモノが消滅して久しいのだと言う。その点については、物部自身、共感する所があった。なにせ、目の前で親友が飛び降りているのである。ただ、全く無い、というのはどうだろう、と物部は考える事がたまにあった。主に、パソコンをパチパチやっていたり、事務所の今でソファーの横になってテレビを見ている時だ。YOUTUBEにアップロードされている動画を見て笑ったり、感心してみたり、或いは、ネット麻雀をして、ボロ負けした時、果たして、何で私はこんな事をしているのかと、ふと我に返ったりする時だ。
“セーフティ・ネットは確かに存在する。ヴァーチャル上に!”
いつだったか、楓がそんな文面のメールを綴って寄越したのを覚えている。忘れようも無い、飛び降り事件の後、遅ればせながら届いたメールの文面がそれだった。やたら文字化けが酷く、文章も日本語としても怪しかったが、辛うじてそこだけは読めた。それだけこの日本社会に疲れていたのだろう。なぜか、妙に引っかかるものがあった。
「ーねぇ、先生? 吉本新喜劇って知ってる?」
馬頭達が応接室の奥の社長室に消えてしばらくした頃である。姉である有価の方がお茶を入れてくれるという事で、閑話休題した所を見計らって、物部は横で珍しく熱弁を振るう社会学者先生に質問をしてみた。吉本新喜劇、楓のデジタル遺書に記されていた、謎の文言の一つである。
「えっ? いや、詳しくは知らないねぇ。名前だけは聞いた事が有るんだけど。 —関西圏のテレビ番組なら、そうだね。探偵ナイトスクープと、そこまで言って委員会位しかー」
「ーそう」
江ノ島は虚を突かれたのか、少し、たじろいでいる。うーん、と物部は思案を始めた。
“例えば、吉本新喜劇は、教会である。そしてそれは、何処にでも存在するので、それは自分で、発見するべきだ”
物部は古びた携帯を開いて、件のメールを開いてもう一度スクロールしてみた。何となく、意味が通りそうではある。 ーだが、果たして、そんなに良いものであろうか。そして、そこまで、大げさに持ち上げて良いものだろうか。その辺りがこの暗号の謎だった。
「ジャスミン・ティーです。どうぞ。緊張が解れます」
「あっ、どうも」
目の前に、如何にも高そうな青磁のティーカップが置かれた。物部は給仕をしてくれた有価にお礼を言ってから、軽く息を吐き、それから、今となっては骨董品の携帯電話をジャージの左ポケットに突っ込んだ。
すると、軽い既視感を覚える。目の前の光景が、ととてけ事務所のそれとダブって見えた。いつもだったら、この後、事務所でカップ麺を啜っているはずなのに。今、私の目の前に有るのは、青磁のティーカップ。経済格差、ここに極まれり、である。
辺りを見回してみると、有意が隣で目を輝かせながら江ノ島の話に聞き入っている。カーペットの上に膝を突き、上半身はテーブルに身体ごと預けて身を乗り出している。同性の私から見ても大層美しい美少女なので、教授も、まさか悪い気はしないだろう。彼女は江の島の講義を熱心に聴いていた。
疑問に思った事がある時は気の利いた質問をしたりするので、江ノ島もすっかり気を良くし、現役時代さながらに熱弁を振るという次第である。
「うーん」
「すみません、ウチの妹がすっかりお世話になってしまって」
見ると傍らにその美人姉妹の片割れが立っていた。物部の空いたカップに茶を注いでくれている。
「あぁ、すみません。わざわざ、いや、こちらこそウチの耄碌、じゃない。教授先生の相手をしてもらっちゃって。まぁ、見ての通り、若い子相手で舞い上がっちゃってるみたいなんで、勘弁してやって下さい」
一瞬、耄碌爺と言いかけた時にピクリとしたのが分かった、地獄耳め。
“光ノ扉ヲ開けて”
文面の最後の一行、これが一番の謎だった。調べてみれば、今は無きゲーム会社のソフトがヒットしたが、まさか違うだろう。そもそも、そのゲーム会社は20年も前に潰れている。ハードウェアに至っては、もはやアンティークである。さしもの物部も、型番落ちの家庭用ゲーム機に大枚を叩く気にはなれなかった。時代はPS5全盛、グーグルグラスで気軽にVRにダイブするのがトレンドだった。かくいう物部も、絶賛、だだハマり中である。ゴーストが抜かれる、ともっぱらの評判であるが、まさか、そんな事はないだろう。
「それにしても遅いですね。大門さん達。何かあったんでしょうかね?」
がさごそ、と上着のジャージの右ポケットを弄って、止めた。チュパチャップスはネタ切れである。そもそも、目の前のジャスミン・ティーに合うかどうかは怪しかった。いい加減、推理するのも疲れたので、物部は海老原姉に話題を振って気分転換をする事にした。こうすれば少しは気が紛れるだろう。
江ノ島の話に聞き耳を立て続けても良かったが、物部にとっては大学時代の糞つまらない授業風景を思い出す時もあるので苦手だった。まぁ、江ノ島のそれはあくまで講義であるが、自分の母校のそれは精々が授業である。学生も生徒を通り越して、もはやあれは園児だった。もう二度と関わりたくないというのが本音である。
「さぁ、私にはあの人の考えている事なんて及びも付きませんから」
有意は髪を片方耳の後ろに掻き上げながら言った。若干俯いたように見えた顔には絶えず微笑が湛えられている。物部には到底真似できない芸当。だが、その微笑に若干影が差した気がした。
物部は母校への愚痴を頭の隅に追いやり、大門啓蔵と海老原有意の関係について考えを巡らせ始める。考え始めれば、キリがない。それこそ下世話な話であれば幾らでも思いついた。
物部はテーブルの向かいでしきりに相槌を打っている妹の方を見る。この子のこのオフィスでの立ち位置も気になった。
姉譲りの端正な顔立ち。瓜のような顔に輪郭のはっきりしたアーモンド型の二重がはめ込まれている。見事に顔のパーツが左右対称で、嫌味がなかった。同性で、おまけにルックスや身だしなみには疎い物部からしても、思わずはっとする何かがあった。
「ー妹の事、どう思います。物部さん?」
思わず顔を声のした方に向ける。海老原有価がテーブルの上に置かれた全員分のカップに継ぎ足し終わる所だった。
有価は顔こそこちらに向けていないが、意識をこちらに向けているのは分かる。物部は言葉に詰まった。それでも何か返さなければいけない。視線を宙に彷徨わせて、何とか適切な表現を探す。
「ー良い子、ですよね。やっぱり、今だって、年寄りの道楽にわざわざ付き合ってあげてるし。熱心なのに、嫌味が無い。今どき、珍しいですよね、根が素直なんじゃないのかな。おまけにお姉さんに似て、美人と来たもんだ。いやー良くできた妹さんをお持ちで—」
物部がそこまで言うと、顔を上げた有価と目が合った。彼女の、能面のような微笑と対峙させられる。物部の言葉に対して、彼女は軽く微笑んでみせた。それだけで何も言わない。
物部はどうしてか、この秘書が苦手だった。話し合いでも殴り合いでも、何でも良いから終わらせて、とにかく早く出てきてくれ、と物部が思った時、社長室のドアが開いた。
馬頭は大門の後に続いて社長室を出た。応接室では江ノ島がなにやら熱弁を振るっている。隣で物部が少し疲れた表情でソファにもたれ掛かっている。
「馬頭さん、遅い。私疲れた。何処に行くって?」
大門は先に車の手配をするために海老原有価と出て行ったらしい。
「あぁ、そうか。お疲れさん。こっちはもっと疲れたよ。てなわけで出発だ。江ノ島さんも」
愚図る物部と江ノ島を急き立てながら、馬頭は大門の後を追った。
受付で老婆に少し待っているように言われた後、しばらくして車の手配が済んだから下に来てくれと連絡が来た。馬頭達がエレベーターに乗り込もうとすると、海老原有意が一緒にくっついて入ってきた。
「私も一緒に付いて行っても良いですか?」
「構わんよ。もちろんだ。なぁ、一徹君!」
馬頭が何かを言う前に江ノ島が即答する。馬頭は思わず物部の方を見た。物部は我関せずと明後日の方を向いて肩を竦めている。江ノ島は喜色満面の笑みを浮かべている。江ノ島が先程までの講義の続きをしようとするので、流石に物部も懐に忍ばせたスタンガンを江ノ島の心臓がある位置に後ろから押し当てた。
「ー先生、わかってるよね? これ以上は」
物部もまさかととてけ事務所の人間に向ける羽目になるとは思ってもみなかった。一概に、江ノ島だけに責任がある訳でもあるまい。魔性の女、というのは案外、彼女のような子の事を言うのかもしれない。そう言えば、楓もあんな感じだった。雰囲気が何となく似ているのだ。世の中、美人に生まれれば良いという訳では無いようだ。
「あぁ、わかった。分かった。わかってるよ」
冷や汗を垂らした江ノ島は思わず生唾を飲み込む。エレベーターは一階に向かって静かに下り始めた。
「あの、やっぱり私、付いて来たら迷惑でした?」
顎に指をやりながら首を傾げる。そんなぶりっ子ぶった仕草も有意がやると不思議と嫌味にならない。それどころか何とかして助けにならねば、という気持ちに相手にさせる強制力がその潤んだ眼にはあった。
「いや、そんな。迷惑なんて、そんな訳ないじゃないの。ねぇ先生?」
「ーん? あぁ、もちろんだ」
朗らかに笑う物部の隣で、引きつった笑みを浮かべる江ノ島の姿があった。どうやら先程の物部の脅しが効いているようだ。そんな三人を見て、馬頭は自分が大門に喋っている間に、すっかり物部達が打ち解けたのだと思った。
オフィスビルの正面玄関を出ると、ロータリーに乗用車が二台止まっていた。マツダのアテンザとスバルのレガシィだった。隣で大門と海老原有価が一人の丸坊主の男に何かを伝えている。どうやら運転手のようだ。この前、事務所にやってきた審査員とこれまた似たような風体の男だった。馬頭達に気付くと、深々と頭を下げてくる。後頭部に刻まれた深い切り傷がありありと見えた。
大門は丸坊主の男が運転するアテンザに乗って付いてきてくれと馬頭達に言った。自身は有価と一緒にレガシィに乗り込む。
有価は自分の妹の姿を馬頭達の中に見つけたが、特に何も言って寄越さなかった。
馬頭は言われるがままアテンザの助手席に乗り込んだ。一瞬、オフィスビルの地下駐車場に止めたジープで追いかける、と言おうとしたが、止めた。時間が掛かってまどろっこしい上に、後部シートに二人はきつ過ぎる。
丸坊主の運転手は物部達が乗り込んだのを確認してから車を発進させた。移動中、誰も口を利こうとはしなかった。何とも言えない緊張感が車内には漂っていた。だが、馬頭自身、もうそれほど警戒もしていなかった。
ダイモンの側に危害を加える意思があれば、もうとっくにやっているはずである。物部にせよ、江ノ島にせよ、その事はもう分かっていた、ただ、これから先、何が待ち受けているのか。まずは面白さの期待半分、残りは恐いもの見たさの恐怖である。
「着きました。旦那さん方」
丸坊主の運転手はそう言いながらアテンザのサイドブレーキを入れた。
移動時間はそれほど掛かっていない。精々、馬頭の体感で20分ほどである。手元のダイバーウォッチを見る。ほとんど大差ない。
そこは山手線内の閑静な住宅街の一角だった。新宿より東京にかなり寄った事になる。
「ようこそ。これがウチの営業センターの一つです」
気付くと傍らに大門達が立っていた。馬頭達は目を見合わせた。彼らの言っている意味が良く分からなかったからである。
大門達が指し示した場所、今馬頭達の目の前に聳え立っている建物は、何処からどう見ても警察署そのものにしか見えなかった。
「とりあえず、何に入ってやって下さい。茶でも入れますさかい」
大門に促されるまま、馬頭達はその営業センターに足を踏み入れた。建物は看板やロゴこそ外されているものの、鉄格子のはまった窓や訓練場、おまけに留置所らしきフロアまで残されていた。おかげで、なんだか気分が落ち着かない。これではやくざに囲まれた方がまだましだと馬頭は思った。
大門は見せたいものがあるというので、馬頭達は建物の奥に向かった。元は会議室であったのか、そこは割と大きめのホールで、何人かが働いていた。中には馬頭の見知った顔ぶれも混じっている。
「ーあいつら」
馬頭が受け持っていたモンスターコンシュマーの面々だった。ここ数か月の間に、ととてけ事務所に配達の依頼が来なくなった顧客達。その何人かが和気藹々と作業している。ホールは警察署の裏手の駐車スペースと繋がっており、荷物の運搬が出来るようになっていた。
「つまり、これはどういう事だ?一から説明してくれ、大門さん」
馬頭は大門に訳を質した。するとゴリラ顔の男は得意そうに顔を綻ばせ、自分達の商売の秘密を話し始めた。
2025年現在、その任を廃棄された警察署、交番の数は想像以上に多い。この営業センターは、そんな閉鎖になった警察署を改装した代物だと大門は言った。
そして、その営業センターで働いている面々の一部は、あのブラックリストに載る様なモンスターコンシュマーの何人かであるという。
どうしてこんな事をやろうと思ったのか。大門はその理由を語る前に、今の商売を始めるに至った過程を話させてくれと言った。
そもそも現在、日本の治安維持制度というものはぼろぼろに崩壊してしまっている。公務員の給与の支払いがストップし、一ドルは240円で推移し、外国の資本が押し寄せてきた結果だ。
国民の総人口は一億程度、だがそれでも警察官10万人では到底対処出来る状態では無かった。やがて、その存在すら維持できない交番や警察署が多発したのである。
その多くが競売に掛けられたり、廃墟同然に捨て置かれたりする始末だった。警察を辞職したばかりだった大門はそんな土地に目を付け、それらを二束三文で買い漁って配送センターに仕立て上げた。現役時代のツテもその時には総動員した。
元々、治安維持の事を考えて立地されているので、警察署や交番は荷物を運ぶ上では都合が良かった。
大門は、刑事時代に交流があった、そして今は職に溢れた部下や同僚、さらには自分が担当した事件の被害者や、果ては自分が面倒を見た犯罪者まで呼び寄せた。彼らを引き連れて興したのが今の会社、大門スタッフサービスだった。
そんな彼らの最も得意とする営業スタイルは“差し押さえ”である。
「差し押さえ、だって?」
隣で大門の話を聞いていた物部が思わず気色ばんだ。だが、馬頭にはその単語に大して違和感を覚えなかった。ここに来て馬頭にもダイモンの商売のカラクリが理解出来つつあった。
警察官というのも元々、あこぎな商売である。大門達はそんな過去の職歴をフルに生かし、手に入れた大手運送会社の顧客名簿の中から身ぐるみを剥がされても仕方のないような連中をリストアップしていった。そして、その悪党共をターゲットにした、世間一般に言えば、押し込み強盗に当たる営業を次々と掛けていったのである。
DVを行っているチンピラがいればそのアパートに踏み込んで行ってその頭をかち割り、従業員をタダ働きされて稼いだ金で愛人にブランド品を贈るような会社経営者がいればその首を電源コードで制圧し、ドラックをばら撒いていた不法滞在の外国人グループが潜伏するマンションには火を放った。
その時に出た副産物、差し押さえの物品、貴金属等々が、大門の会社の主な収入源をなっていた訳である。
「それってまんま押し込み強盗じゃねぇか!」
それまで黙って話を聞いていた物部も思わず突っ込みを入れた。口調も日頃、馬頭達に使うそれに戻っている。
「いやー、物部さん。そんな風に言ってもらっちゃあ困りまっさぁ。〝御用改め〟って、ウチではそう呼んでます。・・・鬼平犯科帳、知ってます? 好きなんですよ、私!」
大門はそう言って、バツの悪そうに首を竦めてた。何が面白いのかゲラゲラと笑っている。恐らく、ゴリラにも、笑いの壷というものはあるのだろう。物部が食いついても、当の本人はおどけて見せるだけで、笑って誤摩化していた。その顔は真っ赤である。もしかすれば、何の計画性も無く、秘密を暴露してしまった事を、今更になって焦っているのかもしれない。
「大門さん、それは分かった。何も、俺たちはあんたの、何だ、あー、その御用改めについて、あれこれ口を挟むつもりはない。ただ、そのカラクリが知りたいだけだ」
物部が呆れた顔をこちらに向けてくる。だが、そんな彼女のジャージの右ポケットには違法改造されたスタンガンが入ってあるし、それは馬頭が腰の後ろで挟んでいるガバメントだって同じ事だ。何も他人様の事をとやかく言えた義理ではないのである。
「“自力救済の禁止”なんて、お笑い草だね。馬頭さん?」
ぷっ、と隣で有価が吹き出すのが分かった。思わず、手で口を隠してみせたが、まぁ、可笑しくて笑っている事は間違いない。大門はいよいよ手を叩いて笑い出した。過呼吸で、苦しげに柱にもたれ掛かり出す始末である。恐らく、笑い上戸なのだろう、これだから、関西人は分からない。
まぁ、適当な職員を捕まえて、物流システムに感心を示している江ノ島も、一種の武器や兵器に類するモノは携帯してはいる。あまつさえ、馬頭に至っては、押し込み強盗の手口を聞いてからというもの、馬頭の中での大門啓蔵という男の株は、割と上昇しているのだから、彼等の事を一方的にとやかく言う資格はないのかもしれなかった。
大門の事を、押し出しだけではなく、頭の切れる奴だ、馬頭は思った。補給部隊に、こういう知り合いを一人捕まえておくだけで、自らが率いている部隊の生存率は大きく変わってくるのである。
「大門さん、分かった。それは別に良い、元から、アンタ等の勝手だ」
それでも、はっきりさせておかなければならない事は、有る。即ち、敵意があるかどうかの“明確”な確認である。言霊だって、十分、兵器足り得る。その銃創は、案外、実弾のそれより強烈だったりするものだ。ペンが剣より強かったりするのと、一緒かもしれない。
「だが、ウチの顧客がなんであんたの所で働いているのかって説明がまだだ。後は、ーまぁ、俺だってこの商売に足を突っ込む事になった訳を話したんだ。良かったらそれを聞かせてやってくれやしねぇかい。後半は俺の勝手なお願いさ。もし良かったらで結構だ」
後は、どうせ、ここまで来たのだから、これだけは聞いておかなければ帰れそうにないという好奇心である。馬頭はそう思って大門に訊ねた。すると、さっきまで豪快に笑っていたのが徐々に鳴りを潜め、途端に大門は思いつめた表情になっていった。それから、いや、構わない、全部聞いてくれ、と勿体振って、大門は自身がこの商売を始めようと思ったきっかけを語り始めた。
大門は元々、自分の仕事に疑問を持っていた。
40歳を超えて、刑事になってから何をしてきたか、時々振り返る事があった。
交通違反の切符を切って、どちらが被害者か分からない傷害事件を立件し、低所得者の食い逃げにショルダータックルを噛まして捕まえるのに何の意味があったのか。
刑事になってからも、他人様のためになったと胸を張って言える事は何もなかった気がする。捜査一課に配属されてからもそうだ。そもそも、事件が上がってくる時点で、被害者の多くが死んでいるのだからどうしようもない。苦労して犯人を捕まえても、碌でもない奴に限って、やり手の弁護士と山のような保釈金でバイバイサヨナラだ。大門は腹が立つ、というよりも、遺族や被害者に対して申し訳なかった。
大門がそんな徒労を感じていた頃、あの一斉解雇が起こった。幹部以外の給与の支払いが一時凍結され、しばらくして警察内でも解雇者のリストが発表された。リストには大門の名前は無かったが、もう限界だった。リストには馬頭の見知った名前がずらりと並んでいた。
長年相棒を努めてくれた同僚の名前があった。前年、過労が原因で職務中に倒れた。その時点で警察官の人員はすでに足りなかった。たった三か月の療養でリストの仲間入りである。
他にも大門が面倒を見てやった若手の部下や苦楽を分かち合った同僚が次々と首を切られてゆく。有能で職務に忠実で、なにより正義感を持ち合わせた奴から辞めさせられていった。現場で体を張って、巷にあふれている、本物の悪党を締め上げてきたようなタフな漢達である。根性が腐った犯人に限って、決まって後ろ盾がいる。大体はその辺りが雇った弁護士様が喚き散らして、捕まえた警官の人事査定のポイントが下がるようになっていた。
大門もほとほと桜の大門に愛想が尽きた。胸糞悪い頭でっかちのキャリア組の上司に辞表を叩きつけるまでそう時間は掛からなかった。ついでに長年の鬱憤を晴らしてから出てきた。その日、大門が所属していた警察署の留置所内は血の海になった。
ー今度は他人様の役に立つことをしよう、それが今まで散々醜態を晒してきた俺に出来る全てだ。 大門はそう思い立って、この大門スタッフサービスという会社を興した。
なけなしの退職金をかき集め、似たような状況で窮している同僚や部下を呼び寄せた。会社を興し、雇用を生んだ。昔、同情の余地があっても何の助けにもなれずにそのまま引き渡ししてしまった被疑者、思いの一つも組んでやれなかった事件の被害者も呼んだ。
「ーまぁ、会社を興した理由なんてそんなもんやわ、馬頭さん。あんたと似たようなもんや。ずっと、申し訳なかった。やれ正義の味方だなんて看板しょって、デカい顔してよ。実際は法の番人ですらありゃしねぇ。資本家の犬コロが良い所だわな。引退後はその罪滅ぼしをしようて、そう思ってたんよ」
会議ホールの前の通路は静まり返っていた。先程まで食いついていた物部も言葉に詰まっている。30年勤め上げた警察官の、苦悩と哀愁が大門の背中から滲み出てくるような気がした。軽々しい感想をぶつけては、失礼かもしれないと馬頭達は思った。先ほどまで、吊り目だった物部の目尻も、心無しか落ち着いて見えていた。話半分の浪花節、武勇伝にしたって、説得力があるのである。聞いてやらねば、酷というものだ。
しばらくして大門は口を開いた。ととてけとダイモンとの間に生まれた摩擦について、もう少しで明らかになるようにも思えた。
「思えば、この運送業、特に宅配業なんてのは元々、治安維持とか監視システムっていうのと相性がええ。馬頭さん、あんただって、何となく分かるんじゃないかい?」
馬頭は大門のその言葉に強く共感を覚えた。大門達は差し押さえ業務を開始してからというもの、それを強く実感したのだという。
馬頭自身、宅配をやっていて、自分が事情や内面に深く潜り込んでいると感じる事が多々あった。だから、大門が言いたい事も良く分かる。
元々、口の堅さと余計な口を挟まないという信条が、ととてけ運送の生命線である。一介の民間組織に過ぎない運送会社が、余りある量の個人情報を保持しているという現実は理解しているつもりだった。
行政サービスというものが崩壊して以来、いやそれよりもはるか以前から、宅配業者の方が下手な民生委員よりも、その家の事情に精通していると言っても過言では無かった。
大門はその点に着目し、問題を抱えている顧客の中から、本人に責任の無い、あるいはその人間性に問題が無い者、あるいは自力ではどうしようもない者達を、大門はこれまた自分の会社の社員としてリクルートしていたのである。その多くが、モンスターコンシュマーの人々であり、馬頭の顧客の内の何人かもこれに当たった。
「ーあれ?馬頭さん、馬頭さんじゃないですか、お久しぶりです」
馬頭は最初、その女性が誰なのか分からなかった。ちょうど大門があらかた話し終えた時、営業所の裏手から積み込みを終えたトラックが出て行った。中で働いていた従業員達が休憩のためにエントランスに出てきた。大門の顔を見つけて、軽く頭を下げる者も居る。そんな中で、馬頭の元に近づいてきたのが彼女だった。
「ほら、私ですよ。思いだしませんか?」
硬直してしまった馬頭に向かって、従業員の女は切れ長の口をニイッとはにかんで見せた。その顔が、馬頭の記憶の中で一人のヤク中女のそれと繋がった。
「・・・驚いた。あんた、もしかして、薬師寺、薬師寺鏡子さんか」
馬頭が気付かなかったのも無理はない。長かった髪はバッサリと切られ、後ろ髪で結い上げられている。ボロボロに荒んでいた肌も、今ではすっかり健常な人間のそれである。血色も、馬頭が最後に会った時よりも遥かに良かった。なにより、その表情である。前の思いつめた、それでいて酷く悲しそうな、凄惨な目つきはもうない。
薬師寺の話によれば、この大門スタッフサービルにリクルートされて、一番最初に受けたのがセラピーと化学療法だったという。大門の元同僚には麻薬取締の刑事もおり、その手の治療はお手の物だった。セラピーは下手な総合病院のそれよりも手厚く、何よりその代償行為を多用する治療は効果的だったという。
何度かダイモンの配達サービスを利用した後、いきなり訪ねてきた大門達を前にして薬師寺は最初半狂乱になったという。だが、根気よく説得を続ける彼らを前に薬師寺もついに折れた。独り立ちできるようになるまで面倒を見る、という言葉を半信半疑で縋って、大門スタッフサービスの一員になった。
「最初はね、話し相手が欲しかったんで、審査官の人に何度も来て貰ってたんですよ。それがきっかけですね。ほんとに、大門さん達には感謝してもしきれません。もちろん、馬頭さんにも。配達の時、ご迷惑ばっかり掛けてしまって、でも、もう大丈夫です」
そういって笑う薬師寺の姿は妙に輝いて見えた。恐らくドラッグを絶つ事が出来た人間独特の自信の表れなのだろう。どこかで似たようなのを見た気がするが、恐らく、気のせいだろう。
薬師寺が再び口の端を上げて見せる。今度こそ間違えようもなかった。間違いなく笑顔だ。馬頭の眼に、それはとびきり魅力的に映った。もう、ととてけ事務所に怪しい小包の配送依頼が来ることも無いのかもしれない。さっき、ちらりと、もはや潰れて久しく、そこで働いていたというだけで経歴に傷がつくと謳われた、総合、居酒屋チェーンの、従業員の晴れがましい笑顔が掲載された広告が、ちらりと脳裏を馬頭の脳裏を掠めたのは、恐らく、杞憂という奴だ。
「さて、どうしますぅ? 馬頭さん。大門スタッフサービスの秘密はこれで全部だっせ。そんなつもりはなかったんやけど、結果的にととてけさんの所の仕事を奪っちまっていたのは事実だと思う。悪かった、面目次第も有りません。損失分の金払えってんなら払うし、謝れってんなら謝る。だけど、こいつらの事は関係ないんだ。怒らんといたってくれ」
大門は後ろの応接ブースで休憩している従業員の方を肩越しに指さして言った。その中には先程の薬師寺や元モンスターコンシュマーの連中、馬頭の元顧客達も含まれている。
「何だったら、今ウチで受け持ってる配送の幾つかを回したって良いしー」
「いや、いい。もういいよ。大門さん」
馬頭は慌てて大門の言葉の続きを遮った。内心、少し、随分気前の良いゴリラだ、と馬頭は思った。そういえば、あの補給部隊に居た奴はどうだっただろう。最終的に、装甲車の鉄板を流用して、市民の要望に応えて安く、屋台の粉もの用鉄板として転売していたのがバレて、それからどうしたろう。私的流用はほとんどなかったという。減俸で済む所を、自分から辞めたと後で風の噂で聞いた。
「いや、別に弁償してくれって訳じゃない。俺はそこまで公明正大じゃないし、聖人君主でもないよ。只の商売上の競合じゃねぇか。そりゃ、便利な方が勝つさ。ただ、最後に一つだけ聞かせてくれ」
馬頭は大門に近づいて、物部達に聴こえないように小声で耳打ちした。
「どうして、モンスターコンシュマーの連中なんかの面倒まで見ようと思ったんだ? それが引っかかる。何か、裏があるのか? そこまでの義理はねぇだろう」
心当たりは腐る程あった。信じられない話かも知れないが、あのリスト、国外のテロリストには、高ーい値段で売れるのだそうだ。
流石にそれをやると公安に目を付けられるので誰もやらないが、たまに先走った馬鹿がやらかす事があった。それほどまでに、モンスターコンシュマーの価値はある意味貴重で、何より、その取り扱いには繊細さが求められるのだ。そんなリストに、誰が興味本位、まして、面白半分で首を突っ込むだろうか。先程の薬師寺に至ってはドラック中毒の更生の上に、雇用まで保障してやっている。一体どうしてここまでするのか。打算的な目論見なら、それこそ枚挙に暇が無い。だが、大門の答えは意外なものだった。
「ーどうしてって、それは、あんたも一緒だろう?」
「?」
一瞬、どういう意味なのか馬頭は分からなかった。
「そういうあんただって、あの二人に手を差し伸べてやったじゃないか。差し伸べられずにはいられなかったんだろう、違うのかい?」
大門は物部と江ノ島の方を軽く見遣って言った。二人は休憩ブースで久しぶりに会った薬師寺や他の面識のあるモンスターコンシュマーの連中と談笑していた。恐らく大門の話が終わったと判断したのだろう。テーブルに並んだ従業員用のお菓子や粗茶に魅かれたのかもしれない。隣で調子を合わせている秘書の方の海老原が誘導した可能性もあった。
ともあれ馬頭は返す言葉を失った。いや、だとか、アイツらは、だとか反論の候補は幾つか浮かんだが、結局それを言葉にする事は無かった。些か、腑に落ちる点も、有るには有ったからだ。もしかしたら、最近、当座預金残高の見過ぎで、大事な事を失念していたのかもしれない。
果たして、他に仕方が無かったから、物部や江ノ島に独自のスキルがあったから、自分は彼らを事務所に迎え入れて、居場所を創ってやったのか。
いや、多分そうじゃない。助けたかったからだ。物部の燃えるような目を見た時、江ノ島の今にも消えてなくなりそうな背中を見た時、ただ、ひたすら手を差し伸べたいと思ったのは事実だ。だから俺は手を差し伸べたんじゃないのか。果たして、そこに理由なんてあったのだろうか。
馬頭達は薬師寺ら従業員に別れを告げてダイモンの営業センターを後にした。オフィスビルの正面まで帰ってきた後、それぞれのグループに別れる。
別れ際、馬頭は大門に、仕事の邪魔をして悪かった、と言った。向こうは、こっちの台詞だと笑っていが、どうしてか、言いくるめられた感が拭えない。挨拶もそこそこに地下駐車場のジープを引っ張り出してくると大門達はまだ正面玄関に立っていた。どうやら見送りをしてくれるらしい。
何故だか、イライラした。ものすごーく、イライラした。
馬頭一行は大門達の見送りを受けてオフィスビルを後にした。事務所への帰路についた車中は、不思議と静かなもので、時折、物部と江ノ島が助手席を交代する位で、それ以外に特に話題も見つからない。
気付けば夜中になっていた。馬頭は自室で身を起こして、手元のダイバーウォッチを確認するとちょうど日付が変わった所だった。ダイモンのオフィスから帰ってきてから、まだ半日と経っていない。
事務所に着くなり馬頭達は散り散りになった。作戦会議をする気力はどうしても湧いてこなかった。
物部は秘蔵のウィスキーを空けた後、自室に引っ込んだ。
江ノ島は一階のバスタブに湯を張り、風呂場に立てこもった。
馬頭も、そんな二人を気にすることなく帰ってくるなり自室に引っ込んで、ビールを二、三本と一緒に睡眠薬を胃に叩きこんで意識を飛ばした。もう、これ以上何も考えたくなかった。
洗面所から出てくると、まだ頭の中がガンガンした。余り、あの、すきっ腹に睡眠薬ビールのセットはやらない方が良いのかも知れない。確かに効き目は抜群だが、勢い余って永眠する事だってあるだろう。物部達に自分の遺体の処理を任すのは余りに忍びなかった。
外の空気を吸いたい、と薄暗い事務所の階段をよたよたと下りていく。一階に降り立った時、中央の長テーブルから微かな光源が漏れているのがわかった。
江の島だった。臙脂色のセーターにワイシャツの元大学教授の姿が浮かび上がる。年季の入った電気スタンドをテーブルに置いて、何やら紙片を捲っている。
「ーあぁ、公平君か。こっちに来て座りなさい」
言わずもがな馬頭は公平ではなかった。それでも馬頭は江の島の前の、空いているソファに何も言わず腰掛ける。テーブルの上には書類が幾つか散らばっており、マグカップからは湯気は立っておらず、代わりにアルコールの匂いが立ち込めていた。
「君の論文、読ませて貰ったよ。なかなか良く出来ているじゃないか。うん、これなら、オックスフォードの推薦だって、大丈夫だろう」
江ノ島はそこで顔を綻ばせた。心底嬉しそうな顔だった。そして、紙片を捲る手を止め、テーブルの上のマグカップに手を伸ばす。
「あぁ、すまない気が付かなかった。どうだい、君もコーヒー、飲むかね。ちょうどお代わりを淹れようと思っていたんだ。いや、それにしてもよく来てくれたよ。いやね、人事部の連中がふざけた連絡を寄越すもんだからさ、君が車に轢かれて死んだなんて言うじゃないか、まったくふざけた連中だよ。この大学も地に落ちたもんだ。だいたいー」
ーズズッ
江ノ島はマグカップを一口啜った後、身じろぎ一つしなくなった。視線が馬頭と江ノ島の間の虚空に釘付けになっている。しばらくして、江ノ島の眼のピントがようやく馬頭の所で止まった。
「ーあぁ、なんだ、一徹君か。気がつかなんだ。すまない、どうやら呆けていたようだ」
髪を後ろに撫でつけながら老人は取り繕ってみせる。馬頭の存在にはつい今しがた気付いたような様子だった。
「何だったかな、今日は。そう、大門さんの所に寄せて貰ったんだったね。いやはや貴重な経験をさせて貰ったよ。長生きってのはしてみるものだね」
江ノ島はそういってテーブルの下から大吟醸を取り出した。それを並々とマグカップに注いでゆく。江ノ島の顔は耳まで真っ赤だった。
「どうだい、一徹君も一杯? 悪くない酒だ。あぁ、そうか今日の事で話し合いたいのか、そうだね、私の見させてもらった限りでは、あの営業センターはなかなかのモノー」
馬頭が江ノ島の酌を丁重に断ろうとしていると、不意に江ノ島の手がピタリと止まった。その目は虚ろで生気が無い。ピントは再び虚空に向けられていた。
「ーひょっとして一徹君、私、また変な事言ってはいなかったかね」
「いや、そんな事はねぇさ」
物部の時と同じだった。馬頭が江ノ島の身の上話を聞かされるのも、これで何度目かである。内容は大体、江ノ島の死んだ教え子達の話である。途切れ途切れにでも、こう何度も聞かされていれば大まかな筋書き位は分かる。ーまぁ、はっきり言って、今日くらいは誰かに、こっちが愚痴を聞いて欲しい気がしないではなかったが。
江ノ島喜八は昔、大学教授だった。都内の大学院を出た後、そのまま房総にある大学で教鞭を賜った。都心を離れた方が牧歌的だと思っていたのが勘違いだと気付いたのは助教授の任を受けた後だったという。東京に住みたくても、住む事の出来ない連中が蜷局を巻いている。テーマパークの名前だって千葉では無く、東京で始まるのには理由があるのか、と思ったそうだ。
年々低下する学生や教員の質の低下もあり、江ノ島は大学で浮いた存在だった。そのせいか、何処の大学にも一人は居る、名物教師のような立ち位置に納まっていた。
そんな江ノ島にも慕ってくれる学生達は確かに存在した。江ノ島は曲がりなりにも、授業では無く、講義を展開していたからだ。
馬鹿の一つ覚えみたいに講義ノートを暗唱しながら、顔を上げる事すらない同僚を尻目に、その時、その講義室にいる者しか享受できない、それも希少価値の高い情報を、きちんと講義と言う形で学生に伝え続けていた。その気持ちに応えてくれる教え子たちも僅かながら存在したのだ。公平という学生はその内の一人だった。
「見どころのある子でね。ー私が日本における、この大学の立ち位置を論述して見せよ、なんて質問したら、何て答えたと思う? ヤクルトの縁だって言うんだよ。あの下水道の浄水システムなんかに使われる、容器の、一番ゴミが集まり易い所さ。あれには参ったね。深い、言葉だった」
その学生が高速道路で乗用車に撥ね飛ばされた。即死だったらしい。公平は卒業を控えた学生だった。進学先も決まっていたのに、教員の行き違い、はっきり言って、嫌がらせだ、あんなものは。その、アカデミックハラスメントが原因でせっかくの本物の、英国の奨学金がパーになった。大した身寄りも無かったので、日本式のいかれた“奨学金”機構の、雪だるま式に膨らむ金利の返済を迫られた一人の優秀な学生は次第に追い詰められていった。大学は、結局、てんで、何の助けになってやらなかった。
最終的にその教え子は、なし崩し的に就職説明会に向かう深夜バスを緊急停止させた。真夜中の高速道路の路面にふらふらと彷徨い出でた所を、150キロオーバーのスポーツカーに撥ねられた。バスの停止ランプなんてお構いなしである。後続の車にも次々撥ねられたその遺体は、見るも無残な物言わぬ肉塊に変わり果てた。ゼミの同輩が見ても、誰が誰だか分からなかったという。その訃報を知った時、江ノ島の中の何かが音を立てて崩れていった。30年掛けて築き上げた、アカデミックのプライドというピラミッドが、一瞬で砂上の楼閣に化けた気がした。
「ーそもそも、日本の教育システムは根本から間違っている。大学なんて、将来のある若者が来るところじゃないんだ。学問から最も縁遠い場所だよ、あれは。自分一人で掘り起こせなくて、何が学問かね。自学・自習、然るのち、修士・論文、というのが自然の流れなんだ、畜生め! 論文ってのは、元々は動詞なんだぞ、そもそも! 一回、出しゃあ、終わりだなんて、そんな訳ないだろうが!」
馬頭は江の島が酔った時によくそんな事を言っていたのを思い出す。江ノ島曰く、大学法人程儲かる商売はないのだという。年度初めに、雀の涙ほどの給与を教員に割り振ったら、後は出費なんて殆ど掛からない。特殊法人という事で税金も絞られない。私立にせよ公立にせよ、その基本構造は変わらないのだという。
ともあれ、江ノ島はそんな職場環境の悪化に我慢ならなかった。真面目で、熱意があって、自分でモノを考えられる人材から淘汰されてゆく。江ノ島はずっと苦悩していた。公平の離脱が決定打となり、その鬱憤が堰を切ったように溢れだした。もう止まらなかった。
江ノ島が何時も大事そうに管理している書類は、そんな元教え子達の論文だった。高速道路で轢かれて死んだ公平の分だけでは無い。中には親の介護疲れや、江ノ島自身が勧めた会社の倒産が原因で首を吊った学生の遺稿も入っているという。
そのダンボールの一番奥に、公平が轢かれる数日前に江ノ島宛てに送って寄越した手紙があった。その手紙は大学の事務方の怠慢により、轢かれる当日まで受け取ることが出来なかった。
どうして、もっと早く気付いてやることが出来なかったのか。
どうして、大学の連中の不義理のために公平のような学生が死ななければならないのか。
江ノ島は我が身の無力さにどうしようも無く腹が立った。自分が今まで教壇に教えてきた事はなんだったのか。彼らの人生に、果たして何の意味があったのか。
江ノ島はついに自らの手で大学を終わらせる決意を固めた。これ以上、自分が在籍している大学が落ちぶれていく様を見ていられなかった。なにより、まともな人間が平然と殺されていく様に、我慢がならなかった。
いざ行動を開始してみるとあっけないものだった。江ノ島がそれまでに知り得ていただけの大学内の不祥事でもかなりのものだったのに、総務部の人事データに忍び込んで閲覧した情報はUSB一本には収まりきらない量の不祥事が詰め込まれていた。大学と言うのが人材の墓場と呼ばれる理由が分かった気がした。
江ノ島はそのデータをコピーして、ありとあらゆる情報機関に送り付けた。青色吐息の雑誌編集社から、ネットのスラングサイトまで、不慣れなパソコンを操作し、一心にばら撒いた。影響はたちどころに表れた。それから一年経たなくして、江ノ島が30年教鞭を執っていたその大学はあっけなく潰れてしまったのである。
江ノ島が情報をリークしてからというもの、キャンパス内は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。当の江ノ島はそれを愉快な目線で見ている訳ではなかった。むしろ、苦々しく思って見ていたといって良い。
ただでさえ見苦しいなんちゃって学生や教員連中が、自分の権利や利益を主張して、連日連夜騒ぎ立てるのである。江ノ島はその光景を見て、自分の行動はやはり正しかったのだと思った。大学キャンパスは最終的に競りに掛けられ、それぞれ敷地ごとに、東京の大学、房総のテーマパーク、近所の通信制大学へと身売りされていった。江ノ島はその一部始終を見ていた。
その時、江ノ島の胸に去来した気持ちは達成感ではなく虚しさだった。
果たして、これで今まで自分達が学生にしてきた仕打ちの贖罪になるのか。確かにこれでこれ以上の被害者は出ないのかもしれない。だが、それでも人生をぶち壊しにされた若者や首を吊ったはずの学生はもう戻ってこないのである。
ー果たして、自分は今まで、仮にも社会学の教育者として何をやって来たのであろうか。
江ノ島は自分で自分がわからなくなった。一旦、精神に変調を来すと、もう後戻りは出来なかった。退職金が出ると、家内が離婚届を出してきて、いよいよおかしくなった。気付けば、ふざけた宅配業者に猟銃を吹っ飛ばしていた。
馬頭が江ノ島の元に配達に訪れたのは、そんな、老人が丁度何もかもに嫌気が差してきた頃だった。
「ー有難うな。一徹君」
江ノ島は自室に引き上げる間際、そんな事を馬頭に向かって呟いた。
馬頭は今日のダイモンの一件の事を言っているのだと思った。江ノ島が海老原有意に熱弁を振るっていたのを思い出す。あの表情は心底楽しんでいるように見えた。だが、馬頭がそれを指摘すると、江ノ島は軽く首を振った。
「それだけじゃないよ。いや、もちろん、今日は楽しかったがね —今日の事だけじゃない、私を拾ってくれた時の事だ。有難う。まだちゃんと礼を言っていなかった気がする」
あのままだったら、私なんて野垂れ死んでいただろうよ。
江ノ島はそれだけ言い残すと事務所の二階へと消えていった。後には電気スタンドの明かりと馬頭だけが残された。
馬頭は大門が営業センターで言っていた台詞を思い出した。
罪滅ぼしをしよう、そう思ってたんだ。
そういうあんただって、あの二人に手を差し伸べずにはいられなかったんだろう、違うのかい?
頭の中で、その言葉がグルグルグルグル回っている。そのおかげか、何時もなら現れるはずの幻覚も、あの悪人面のウサギも出てこなかった。
ークソッタレ、何奴も此奴も馬鹿にしやがって。
物部も、その島も、それから馬頭自身も。結局は、ただ、生きたいように生きていたいだけだろう。
ただ、絶体的に、それほど間違ってはいないであろう自分が、ただ絶対的に生きている、ただ、それだけだ。それを当たり前のように肯定したいだけなのに。自力救済のヘチマも無いこの国では、それが出来ないという事になっている。それが、溜まらなく、イライラするのだ。
何とか、最悪、偽善だって良いから、気を、紛らわしたい。ふいに、馬頭は、そんな事を思った。
今、このととてけの業務を通して、仮にでもその手応えが、その工程間に味わえるから、馬頭達三人はこの吹けば飛ぶようなあばら家にしがみついているのかも知れない。
そして、その鼓動は、大門や海老原も、あの会社の従業員面々も、もしかしたらモンスターコンシュマーの皆も、もしかしたら、一緒なのではないのだろうか。




