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終章 善きソマリア人のたとえ



終章 善きソマリア人のたとえ




 馬頭は錦糸町の御幸の所に来ていた。別に配達があったという訳では無い。ただ、こうして一人で考え事をしたい時に訪れる事があった。


「水割りで良いかい?」


 店主は入ってきた馬頭の方も見ようとせずにそれだけ言った。席に着いた馬頭の前にウィスキーの水割りが音も無く置かれる。


「・・・何かあったのかい。しみったれた顔しちゃってさ」


 馬頭はまだ店内に入ってきてから一言も口を利いていない。煙草に火を着けて、それが一本まるまる灰になるまで二人とも黙りこくっていた。


「ーどうして、ママは俺の考えてる事が分かるんだ、他人の心でも読めるのか?」


 馬頭は前々から気になっていた事を口にした。村谷御幸はようやくそこでグラスを拭く手を休め、馬頭の方を向いた。


「そんな仏頂面して黙りこくってたら、誰だって何かあるなって思うさ。今日は連れ合いも居ないみたいだし。それに、あんたが用も無いのにウチに来る時は、大体、仕事でトラブって悩んでる時だろ」


 それから、何処からともなくマッチを取り出し、ジプシー・ブロンドに火を着ける。彼女が息を吐くと、スゥーと独特な煙が糸を引いて流れていく。




「ママさ、例えば、もし俺が、例えばだぜ?この仕事辞めたらどうする?誰か他の奴に配達頼むのかい?」


 水割りが半分ほど空いた頃、馬頭は思わずそんな言葉を口にした。言ってから、しまったと後悔したが、もう遅かった。




「そうさねぇ、代わりの組員がいないってことも無いから、そいつ等に任せるってことになるんだろうけどさ。どうしてそんな事、訊くんだい」


 村谷は大して考える事もせず、平然とそんな返事を返してくる。


「いや、どうしてって訳じゃねえけどよ。何となくだ」


 馬頭が面倒臭そうに言い返す。どうして、そんなつまらない事を言ったのだ、という自分へ腹立たしさがあった。御幸のそっけない返事が少し寂しかったからという事もあった。


「ふぅん、何となくね」


 二人の間に再び沈黙が横たわりつつあった。奥のジュークボックスから漏れ出る、ジャズの音だけが店内に響いている。


「ちょっと長い話になるかもしれないけど良いかな」


 先に沈黙を破ったのは馬頭だった。どうせ先週、オフィスビルで、あのゴリラ面の元刑事相手に何もかもぶちまけたばかりである。ここで村谷に相談に乗ってもらった所で、そして身の上話をひけらかした所で、大した違いは無いように思った。




 あの営業所の視察に連れて行ってもらって以来、ダイモン側からのアプローチは無かった。物部と江ノ島とも多少は話し合ったが、何一つ纏まらなかった。自分も含めて、ととてけ事務所の面々は、何処か気が抜けてしまったような感じがするのである。




「構わないさ。今日のあんたはお客様だ。話の一つ位聞かして貰うさね」


 村谷はそういって馬頭の方に意識を向けてくれる。彼女が、自分の話を聞くつもりがあるというのだけは分かった。それだけでも馬頭は、自分の頭の中が幾つか整理された気がした。


 それから馬頭は、ととてけとダイモンの間に在った一連の騒動を、ポツリ、ポツリと話し始めた。


 まるで教会の懺悔室で罪の告白でもしているような気分である。店内の照明は薄暗く、窓にはステンドガラスがはめ込まれていたせいもあるかもしれない。今まで、生臭坊主の寺や寺院には配達に行った事はあっても、教会はまだなかった。


 案外、自衛官にはキリスト教徒が多かったりする。キリスト教だけでは無い、仏教にせよ、何にせよ、信心深い者、あるいは何か信仰を持っている者は少なくない。恐らく、その他大勢の士官がパチンコや競馬に嵌るのと似たようなものだろう。




 水割りの後押しも手伝って、馬頭は自分にしては比較的、饒舌に喋れた気がした。


 村谷は馬頭が喋っている間、無駄な口を挟まなかった。馬頭が自分の同僚が墜落死した所や、物部と江ノ島に初めて会った所など、言葉に詰まる場面も有ったが、適当な相槌を打つだけで、決して話の腰を折ろうとはしなかった。


 グラスを拭いたり、他の作業をする手を止めて、ただ時々ジプシーを吹かしながら、馬頭の話を村谷は最後まで黙って聞いてやった。




 馬頭が一通り最後まで話し終えると、店内は再びジャズの旋律しか聞こえなくなる。お互いに余計な口を挟もうとはしなかった。


 馬頭は話し終えた後、不思議な余韻に浸っていた。村谷に話している内に、段々と頭の中が整理されていく感覚を覚えた。


 大門のオフィスの時と同じである。馬頭は、他人に話を聞いて貰う事、そして、他人の話を真摯に聞いてくれる人物の有難さを改めて再認識した。


 馬頭は口を湿らそうと水割りに手を伸ばした。対する村谷は思慮深げにジプシーを燻らしている。何か考えを纏めているようにも見えた。


 彼女が、今しがた馬頭が語った、ととてけ事務所と大門スタッフサービスの一悶着について、どんな感想を抱いているのか馬頭には不明だった。果たして、海千山千のその表情は窺い知れない。








 しばらくしてから、今度は村谷の方が口を開いた。


「ーあんた、善きサマリア人のたとえ、って知ってるかい?」


 村谷がいきなりそんな事を言い出したので、馬頭も思わず面喰った。そんな馬頭の表情を見たのか、村谷は至極落ち着いたまま補足説明を付け加える。


「いや、何も私が急に新興宗教に目覚めて、あんたに何百万もする金のロザリオを買ってくれっていうんじゃないんだ。まぁ、それも悪かないがね。ただ、聖書にそんな一説があったなって、あんたの話を聞いて思い出しただけさ」


 村谷の話は新約聖書からの引用だった。彼女は馬頭の身の上話に対して、良くある安直な感想や一般論では無しに、聖書からのたとえ話を一つ持ち出してきた。バーの店内がいよいよ教会の懺悔室みたく感じられる。


 


ー或る教法師、立ちてイエスを試みて言う。師よ、我、永遠の生命を紡ぐためには何をすべきか。


 村谷はそういって流暢に言葉を繰り出した。どうやら一説丸ごと覚えているらしい。ざらついたハスキーボイスの一つ一つが、何時になく馬頭の耳に艶やかに聞こえた。




 話は要約すると次のような内容だった。


 昔、何処かの偉い律法学者が神様に、永遠の命のために何をすれば良いのか厚かましくも訊いたそうだ。それに対して、イエス、つまり神様は、汝の隣を愛すべし、と答えたという。その言葉の意味の説明に使った小話が、そのサマリア人のたとえ、というお題目なのだという。




ー或る人、エルサレムよりエリコに下るとき強盗にあひしが、強盗どもその衣を剥ぎ、傷を負はせ、半死半生にして捨て去りぬ。或る祭司たまたま此の途より下り、之を見て彼方を過ぎ往けり。又、レビ人も此れにきたり、之を見て同じく彼方を過ぎ往けり。




 早い話が、一人の人間が盛り場からの帰り道に身ぐるみを剥がされた上に、袋叩きに遭ったようだ。しばらくして、その倒れている怪我人の傍を偶々二人の人間が通り掛かった。


 一人は祭事、今でいえば学者先生や、法律家、あるいは警察官だろうか。とにかく社会的地位が高く、人間性も兼ね備えているとされる人々の代表。


 もう一人はレビ人、その時代、その地域で一般的だった民族である。つまりは、道行く一般人の代表と言った所だろう。


 その学者先生と一般人は、倒れている怪我人を無視して通り過ぎて行った。




ー然るに或るサマリア人、旅しも此れに来たり、之を見て憐み、近寄りて油と葡萄酒を注ぎ、傷を包みて己が家畜に乗せ、旅舎に連れてゆきて介抱し、あくる日デナリ二つを出し、主人に与へて言へり「この人を介抱せよ。費もし増さば、我が帰りくる時に償わん」。




 そこを偶々通りがかったサマリア人が手を差し伸べた、という訳である。


 何を思ったのか、そのサマリア人は、誰に頼まれた訳でもないのにボロ雑巾のような怪我人の手当をしてやり、あまつさえ宿に連れて行ってやったそうだ。


 おまけに、チェックアウトの折に、宿屋の主人に金を握らせて、寝込んだままの怪我人の手当をしてやってくれと頼みこんだ。金が足りなければ、今度自分が寄った時に請求しろとまで付け加えた。




ー「汝如何に思ふか、此の三人のうち、何れか強盗に遭ひしモノの隣となりしぞ」。彼言ふ「その人に憐憫を施したる者なり」イエス言ひ給ふ「汝も往きて其の如くせよ」。




 神様はそこで律法学者に訊いた。今紹介した三人の中で、誰が、その不幸な怪我人の隣人としてふさわしいと思うかを。律法学者はしぶしぶ、その怪我人を助け、施しを与えた者だと答えた。それに対して、イエス、つまり、神様は、自分に教えを乞うた律法学者に向かって、あなたも行って、同じような事をしなさい、と言ったそうだ。


 


 似たような状況に遭遇したなら、そのサマリア人と同じ位に、困窮する者に向かって慈悲を与えろ、という事だろうか。馬頭は村谷の話をそんな風に解釈した。


 ついで補足するなら、当時、そのサマリア人というのは、どちらかと言えば世間的には忌み嫌われている民族だったらしい。




 イエスに食って掛かった律法学者が、誰が怪我人の隣人足り得るか、という質問を受けた際、不承不承と言う形で言い淀んだのも、サマリア人、という単語すら口に出して発音するのが嫌な位、彼らの事を嫌っていたからだと言う。




 もしかすれば、助けられた怪我人ですら、平時はサマリア人の事を快く思ってなかったのかもしれない。仮にそうであれば、助けられた後もその考えを改めたかは定かではない。


それでも、そのサマリア人は怪我人を見捨てなかったのである。手を差し伸べてやり、おまけに療養に掛かる代金まで払ってやった。




 ちなみに、この話に出てくるサマリア人が、資産家で金が唸るほどあったのかというとそうではない。


 デナリ、つまりは、銀貨二枚というのはあくまで当時の労働賃金で言えば、日給二日分だったそうだ。そのサマリア人は決して裕福な訳では無く、少ない身銭を切って、怪我人の療養代金を払ってやったという事になる。








 テーブルの上に置いてある水割りの氷がカランと落ちた。もうほとんど空だ。


「行って、同じようにしろ、ねぇ」


 馬頭は村谷が話をしている間、黙ってその話に耳を傾けていた。


彼女が所々に挟む、補足説明が上手かったこともあり、初めて聞いた聖書の一説もすんなり頭の中に入ってきた。


「つまり、ママは何が言いたいんだ」


 その上でまだ気になる事がある。心では分かっているようで、言葉に出来ない、そんな感覚がもやもやして嫌だった。馬頭は、目の前のこの女なら上手くその気持ちを説明してくれるような気がした。




「ー別に、何も言いたい事なんてないよ。それどころか、私があんたにしてやれる事なんて、本当は何もないのかもしれない。ただ、この話をあんたが気に入るかもって思ったから、講釈垂れさせて貰っただけさ」


 釣れない事を言うものだと馬頭は思った。それから、首をグルリと回し、店内を見回す。馬頭は通常そんな真似をする事は無い。それでも、村谷のあの言葉の続きを促すためには何か材料を見つける必要があった。ふと、カウンター脇の箱が目に入る。




「・・・ママ、ありゃなんだ?」


 馬頭は何の気なしにそう訊いた。


「骨壺だよ。この店に来てた客の」


 村谷は事もなげにそう答える。流石の馬頭も目を丸くした。そんな馬頭の様子を見てか、店の店主は補足説明を付け足す。


「何も、ウチで捌いて、処分したって訳じゃないよ。ーまぁ、時にはそうする事もあるけど。そのお客さんは違う、ほら、あんたもあの時、居たろ。無銭飲食で土下座噛ましてたホームレス、あれだよ。あの後、どっからか小銭かき集めて払いに来たんだ。ピラフの代金」


 村谷は手元のジプシーの灰を皿に落とす。


「それから偶に、日雇いで金が入ったりしたら来てたんだよ。酒は頼まないのにね、何を気に入ったのかピラフばっかり。それでも、意地汚い真似はしなかったし、店の中を汚すような事も無かったから、あたしとしては別に構いやしなかった。どれだけ襤褸纏ってようが立派なお客様さ。良い着物着てたって、碌でもない奴はたくさんいる」


 馬頭は再び言葉を失っていた。酷い地雷を踏みぬいたものだと最初は思ったが、村谷の口は思いのほか滑らかだった。




 村谷は自分の分のウィスキーをグラッパーに注ぎ、それを一息で飲み干す。彼女が勤務時間中に酒を飲む所を、馬頭は初めて見た。その仕草の一つ一つに艶がある。


「一週間ぐらい前さ。その爺さんが公園で冷たくなってたのは。ほら、最近流行ってるだろう。ホームレス狙った集団リンチって奴、見回りの組員が偶々見つけてね。警察持ってっても引き取り手がいないってんで、ウチで線香だけでも上げさせて貰うって言ったのさ。散々、ウチの組で殺したんじゃないかって疑われたよ。まったく迷惑な話さ」




 村谷はそこで言葉を区切った。腕を組みながらジプシーを燻らしている。彼女が今、何を思っているのか馬頭には定かでは無い。この女主人の意を汲み取るには自分はまだ貫目不足なのだろうと思った。


「・・・ママは、その、ホームレスの爺さんにとってのサマリア人にでもなったつもりなのかい?」


 馬頭が無い知恵を絞って導き出した問いかけがそれだった。もっと気の利いた質問が出来ないものかと思ったが、この手のやり取りは字面よりも声音の方が重要である事を思い出したので、特に気にしない事にする。


「馬鹿言うんじゃないよ。そんな大層なもんじゃないさ」


 馬頭の問いかけに対して、店の主人は吐き捨てるように笑い飛ばした。自嘲するような笑い方だった。自分が一体、そのホームレスに対して何をしてやったというのか、そんな思いが表情となって彼女の顔に表れている気がした。




 それからしばらくの間、店内で口を開く者は居なくなった。


 馬頭と村谷はカウンター越しに見つめ合う。馬頭はまだ彼女の話の続きを聞きたかった。やがて根負けしたのは村谷の方だった。大柄な体つきの女は、やれやれと馬頭に肩を竦めてみせた。


「私自身、なんでこんな話をしようって思ったか分からない。柄じゃない事はするもんじゃないね、まったく。ただ、あんたがさっきしてくれた話、亡くなった同僚さんの事だとか、ダイモンの社長さんが言ってたって言う、会社を興した理由とか? そういうのと、今、あたしがさせて貰った話っていうのがさ、何となく無関係じゃない気がしてね。まあ、天啓に授かったって所さ」


 馬頭は村谷の言葉を聞いてから、しばらくの間黙りこくった。自分の胸やけが酷いのは、カウンターに置かれている空になった水割りのせいではない。


 村谷の今の話が、思いのほか自分の心の奥底にまで効いている、響いているという事は分かっていた。


「まぁ、あんまり思い詰めるもんじゃないよ、坊や」


 大柄な体躯の女主人がそういって馬頭に追い打ちをかけてくる。坊やと呼ばれるのはこれで二回目だった。


「その、大門さんにも言われたんだろう? あんたの仕事に理由なんてあるのかって、その言葉があんたの頭を擡げさせてんなら、あんたはすでに自分の中で答えを見つけているはずだ。違うかい?」


 それが決定打となった。


 馬頭は自分の頭の中の靄が薄ぼんやりとだが晴れたような気がした。靄の先に、微かな光源を感じた気がした。地に足が着く感覚を覚える。




“汝も往きて其の如くせよ”その言葉が馬頭の胸に強く響いた。迷える馬頭の前に燦然と舞い降りて来て、その足元を僅かながらにでも晴らしてくれたように思えた。




「別に俺は、永遠の命なんて欲しくは無いんだがね」


 馬頭はそういって自嘲するように短く笑った。


「奇遇だね、私もだよ」


 村谷はそういってジプシーを吹かしている。これ以上、馬頭に講釈を垂れてやる必要は無いと判断したのだろう。彼女はそれ以上口を開こうとはしなかった。その表情は馬頭が入ってきた時からほとんど変わらない。




「ー世話になった、有難う。水割り、上手かったよ」


 馬頭はそういって席を立った。村谷は軽く手を上げただけで何も言わない。もうグラスを拭く作業に戻っていた。代金は後で纏めて請求されるので気にする必要もない。


 馬頭がそのまま店を後にした。来た時より、その足取りは軽くなっているような気がした。








 馬頭が事務所に帰ると、一階のソファでパソコンを弄っていた物部が馬頭の姿を見るなり声を掛けてきた。


「あ、馬頭さん、おかえり。ちょっと待って、今日大門さんの所からメール来てたんだ。読む?」




 師走の候、皆様におかれましては、ますますご清祥のことと心よりお喜び申し上げます。


 さて、私ども大門スタッフサービスとしましては此度、新たに御用改めの業務を受注するに至り、つきましてはー




 そんな冒頭で始まるメールだった。馬頭はこの手の書き言葉が死ぬほど嫌いなので、頭の中で極力簡単になるように翻訳する。


 その内容は、要はダイモンの方で新たに、御用改め、つまりは押し込み強盗、をする手筈が整ったので、馬頭達、ととてけ事務所の面々もその様子を、この前の警察署を改装した営業センターの時のように視察してみないか、という誘いだった。怪しい事この上ない。


 メールの文面の後半には気になる名前もあった。


ー馬頭様も懇意にしておられる白田幸次様と玄田牛一様もご列席のご予定です。


 この一文だけで、その御用改めがどんなモノになるのか容易に想像できる。それこそ死傷者がわんさと出ても、何ら不思議では無い。




「どうする、一徹君、まさか罠、何てことはないだろうけど。面倒な事になりそうな気はするね」


 あの営業センターの一件以来、物部も江ノ島もすっかりしおらしくなっていた。


 どうしてこうなったのかは分からない。ダイモンの言い分を聞いて、自分達の不甲斐無さにショックを受けたという訳でも無い。逆に大門達の言い分を聞いた当初、胸のつっかえが取れたような感覚すら馬頭は覚えていた。それは物部も江ノ島も同じだろう。


 


 反面、ずっと肩に掛かっていた重りが何処かに飛んでいき、体が軽くなった分、何をしてよいのか分からない。そんな気分も混じった、ない交ぜの倦怠感がととてけ事務所の三人を支配していた気がする。




 物部はジープの助手席でラップトップを四六時中見る事は無くなった。代わりに呆けたように窓の景色を眺める事が多くなった。


 江ノ島も、風呂場に一時間も二時間も籠るような事は少なくなり、代わりに愛用の散弾銃片手に、事務所の裏手にある山や木々に分け入っては手ぶらで何もせずに帰ってくるという、血生臭くない徘徊を続けていた。


 おかげで公共料金の馬鹿みたいな請求が来ることは無く、馬頭は助かっていた。


 そもそも、馬頭も御幸のママの所で話を聞いて貰うまでは似たような状態だったので、何か言えた義理でも無い。ただ、今こうして二人の横に立っていると、やはり元気がないように見えた。




「このメールの文面にある白田幸次と玄田牛一って、あの白田さんと玄田さんの事でしょ? いいの、ほっといて?」


 物部がそんな疑問を口にする。当然と言えば当然だった。


白田と玄田が絡んでいるとなれば、馬頭達も首を出さざるを得ないだろう。


 何しろ、大事な“お得意様”の二人である。放っておいたら何をしでかすか分からないという事もあった。後で、特別料金を払うから、と手間の掛かる後片付けを押し付けられるのは御免だ。


 また、単純に馬頭にはダイモンの差し押さえ業務、御用改めとやらをその眼で見てみたい気持ちというもあった。




「どうする、京の字も先生も、俺は、お客さんが二人も関わってんだから、行くしかねぇんけどよ。二人は留守番してるかい? 面倒ならよ。と言うより、はっきり言って滅茶苦茶危険だと思うから、来ない方が賢明かもしれねえな」


 今度ばかりはこの前の大門のオフィスビルや、例の警察署もどきの営業センターみたいな手厚い歓迎は待っていないだろうと馬頭は思った。ダイモンからのメールの末尾にも、危険を伴うので視察の際の身の安元の確保は自己責任で、と書かれていた。それこそ、銃撃戦の一つや二つ、起こっても不思議ではないだろう。


 馬頭が物部と江ノ島に確認を取ると、二人は気だるそうに顔を見合わせた。その顔には、どうでも良い、と書いてある。恐らく、流れ弾が飛んできて自分が被弾しようと、敵味方に死傷者が出ようと、どうでも良いという意味であろう。


「ーまぁ、私は気にしないけど、馬頭さんが付いて行った方が良いっていうなら」


「ー私も、京君と同じかな。どちらでも構わんよ。まぁ、銃の手入れ位はしておくよ」


 二人からはそんな気の無い返事を返してくれた。


 それでも、馬頭には二人が内心、ダイモンの御用改めを視察したいという気持ちがあるのではないかと踏んでいた。そもそも、本当に行きたくないのであれば、この二人であればそんな回りくどい言い方をしたりはしない。行きたくないとはっきり言うはずである。




 ダイモンからのお誘いの連絡を受けた時、若干では有るが馬頭の眼には二人が、従来の調子を取り戻したような、もっと簡単に言えば元気になったように見えたのだ。恐らく、二人とも心のどこかで、やはりダイモンとの一件について考えていたのだろう。


 そんな彼らから新たに連絡を受けた事で、自分達の中で、何か進捗が得られるような予感があったのだろう。だから、僅かなりにも復調したのである。


「よし。じゃあ、二人とも付いて来てくれ。あぁ、それからこれだけ。俺が合図したら、くれぐれも不用意に頭だけは上げないでくれよ」


 馬頭はそれ以上無駄口を挟まなかった。物部達の気が変わらない内に即決してしまう。確かに危険極まりないが、その方が二人にとっても良い気分転換になるのではないかと考えた。他ならぬお得意様連中が絡んでいるとあれば自分達も首を突っ込まぬ訳にはいかないという内容である。




 こうして、馬頭達一行はその差し押さえ業務に付き合う事に決めた。馬頭は物部にお願いして、御用改めに参加する意思を伝える返事のメールを書いて、ダイモンへ送ってくれるように頼んだ。


 最初のダイモンからのメールの文面には、御用改めの日時は明日の深夜とあった。随分急な話である、馬頭は手元のダイバーウォッチを見た。一瞬、白田と玄田にコンタクトを取って事態の詳細を確認しようかと思ったが、止めた。


 もう午後5時を過ぎている。白田の方はまず捕まらないだろう。午前9時からその時間までが、あの元官僚が受話器を取り上げる時間帯だからだ。


 玄田の方は、衛星電話を使えば、それこそ24時間でも連絡が付きそうな気がしたが、とにかく面倒である。わざわざ聞きたくないような話を聞かされ、厄介事を増やされるのも災難である。




「はーい、馬頭さん。こんなもんで良い?」


 物部がメールの文面を作成できた事を馬頭に告げた。


「あぁ、じゃあよろしく頼む」


 馬頭はラップトップの画面に一瞥をくれてからゴーサインを出す。しばらくしてダイモンから同行の了承を伝える返信が返ってきた。








 目的地に着くと、現場はすでに血の雨だった。




 馬頭達は指定された現場に、大体指示された時間通りに着いた。場所は千葉の内房寄りにある廃棄されたコンテナ倉庫だった。もう少し東京湾側に出れば、対岸の東京のビル群が目と鼻の先に広がる。辺りに人影は疎らで、道幅だけが異様に広い。


 寂れたゴーストタウンのような雰囲気が辺り全体を覆っていた。少なくとも活気や賑やかさとは無縁、そんな立地だった。




 磯のすえた臭いが、ジープを降りた馬頭達の鼻に付いた。臭い。ついで、窓ガラスの割れる音や人間の怒号、叫び声といった阿鼻叫喚が耳に入ってくる。どうやら大門達の御用改めはすでに始まっているらしい。


 ジープは現場から少し離れた位置に止めた。何台かの乗用車が縦列駐車されていたので、その後ろに付けたのだ。見た事のあるレガシィやアテンザの姿が馬頭の目に映った。もしかしなくてもボンネットに溶接後のある、覆面パトカー丸出しの御一行など、あの連中しか思いつかない。




 パン、パン、という散発的な銃声が、角を曲がった辻の向こうから聞こえてくる。


 馬頭は物部と江ノ島に自分の後ろを離れないように言い、コンテナ倉庫へと急行した。まず馬頭が先行して、曲がり角からコンテナ倉庫の様子を窺う。その時にはもう、情勢は決してしまったようであった。


 チーマー風の男たちが、あちらこちらで血まみれになりながら蹲っている。傍らにはダイモの社員と見られる屈強な男たちが立っている。どちらが優勢かは大門達に聞くまでもないように見えた。ものの何十秒かで、御用改めは終わってしまったらしい。




 馬頭が現場に近づいていくと、特徴のあるイントネーションで声を掛けてくる者がいた。


「馬頭さん、よう来てくれはった。ゆっくりしていって下さい。今、実況検分してる所なんです、って言いたいんやけど、ちょっとそういう訳にもいかんでー」


 大門啓蔵はコートの至る所に血を付けたまま、馬頭に朗らかに笑いかけてくる。おそらく、チーマーの一人を手に持っている特殊警棒で返り血を浴びる位に殴打したのだろう。それでいて、この位の事は何でも無いという表情。その姿にはなかなかの迫力と凄味があった。


「・・・あぁ、お邪魔させて貰ってます。何か問題でも?」


 馬頭が後ろに回した左手のガバメントのグリップを、若干緩めながらそう答える。今この状況で下手に大門達を刺激したくない。


「いや、それがお恥ずかしい話なんですけど、何人か取り逃がしてもうてね。どうやら、屋根使って逃げたらしいんですわ。ウチ等も、みんながみんな元警官ていう訳じゃありませんしね。今、部下使って探させてるんですわ。まぁ、この辺は安全何でゆっくりして下さい」


 大門がそういうので馬頭はようやく物部達を呼びにやろうと後ろを振り返った。すると、二人はもうすでにビルの陰から抜け出してこちらに近づいて来ていた。恐らく、我慢が効かなかったのだろう。


「それで、あの、少しばかり聞きづらいんだけど、大門さん。ウチの顧客というか、白田の兄さんと、玄田の旦那は一体どちらに?」


 馬頭は物部達の事は放っておいてここに来た本題に入る事にした。いざとなれば物部達の事だから、自分の身位は過剰防衛気味に守れるだろう。


 問題は、特に危害を加えられなくても、その凶暴性を相手にぶつける事の出来る二人組の方である。あの河川敷の役人と過激派崩れのパンクロッカーを先に探したほうが良い。


 大門が、ウッカリしてましたわ、とわざとらしく自分の額を叩いてから、白田達の居る場所を指し示した。馬頭がその指先を辿ったその先は、他ならぬ襲撃先のコンテナ倉庫の中だった。




 倉庫の正面ガレージは人一人が潜れるほどには空いていた。馬頭が中に入っていくと、途端に血生臭い匂いが鼻に付く。ガレージは100平米ほどで、元は貨物置場か何かだったらしい。そして、廃墟になった倉庫跡にチーマー連中が屯するようになった、というのが事の次第である。地面は打ちっぱなしのコンクリートが剥き出しで出ており、その中央に血だらけの若者達が二、三十人ほど簀巻きにされて転がされていた。




 ガレージを潜ってすぐ、馬頭の耳に聞き覚えのある声がした。そちらの方に目を遣ると、中央の集団から少し離れた位置に見覚えのある顔が見えた。


 白田と玄田が睨み合うようにして立っている。傍からでも二人の間にある剣呑な雰囲気は感じ取れた。


 馬頭は、そういえば二人が顔見知りだった事を思い出した。確か、大学が同じだったはずだ。まず玄田の方が先に口火を切る。


「やいやい、何処のお坊ちゃんかと思ったぜ。えぇ、ここは手前みたいなブルジョワジーの来るとこじゃねぇんだ。怪我する前に帰ぇんな」


 白田の方も負けてはいない。玄田の視線を正面から受け止めながら反撃に出る。


「なんだ、何処かで見た顔だと思えば、ゲバヘルの中で脳みそが腐っちまった過激派崩れじゃねえか。母校の恥さらしがこんな所で何してやがる。警察にしょっ引かれる前に帰ったらどうだ」


 二人の仲は極端に悪かった。犬猿の仲と言ってもいい。学生運動時代のイザコザが形を変えて二人の間に軋轢として横たわっていた。


 馬頭も訊いた話だが、二人の馴れ初めを知ってはいた。


 彼等の母校が放水車の水で水浸しになった時、反体制側の急先鋒で、正面切って機動隊とやり合ったのが玄田である。対して、終始体制側、学校法人側に与し、ロックアウト後も大学復興委員として立ち回り、教諭陣の覚えも目出度かったのが白田である。




 二人はその後、180度正反対の人生を送った。片や霞が関のエリート官僚として頭角を現し、肩やバリバリの過激派として裏社会にその名を轟かした。


 その二人が、今こうして廃棄されたコンテナ倉庫跡で合い見えている。不思議な巡り合わせもあるものだと馬頭は思った。それとも、恰好や見てくれが違うだけで、白田も玄田も中身の芯となる部分は同じなのかもしれない。


「・・・お取込み中の所、申し訳ないが、お二人さん。ちょっと良いかい?」


 白田達はようやくそこで傍らに立つ馬頭の存在に気付いたようだった。気さくに挨拶を寄越してくれる。それぞれが手に持った、血まみれの鉄パイプやゴルフクラブが無ければ、散歩をしている最中にばったり会った風な錯覚でも覚えただろう。




 二人はお互いに対する嫌味をそれぞれたっぷり前置きした後、馬頭に詳しい事情を説明をしてくれた。自分達が何故今日のダイモンの差し押さえに付き合う段取りになっていたか、というものだ。


 聞くと、今倉庫の中央で簀巻きにされて転がされている連中は、最近ここらで話題の暴走族上がりの愚連隊らしい。連中はどうやら浮浪者相手の集団暴行、集団リンチを繰り返していたらしい。結構な死人も出ていたという。


 連中に対する御用改めが、大門スタッフサービスの元へ依頼されるまでそれほど時間は掛からなかったという。被害に遭った浮浪者達からだけではなく、何件もの差し押さえの依頼がダイモンの所に舞い込んだ。




「まったくふてぇ連中だよ。ウチの河川敷にも来やがってね。正面切ってやり合う度胸も無いからって、夜中に火炎瓶投げた馬鹿がいてさ。おかげで僕の自慢のダンボールハウスも軽いボヤ騒ぎになった」


 白田が肩を竦めてそんな愚痴を溢す。どうやら白田達がダイモンの御用改めに同行しているのは個人的な私怨によるものようだった。


「俺の方は支部からの正式な依頼だよ。最近房総の方で、お痛たが過ぎる連中が居るとかで、何とかしてしろって連絡が回ってきてたんだ。で、その大門スタッフサービスが? 


相手の根城を知ってるって連絡してきたから、仕方なく手を貸す事にしたんだよ。あの大門って男は会ってみると、そう悪い男でもなさそうだったしな」


 玄田は照れくさそうにそう言い捨てた。どうやら、この前会った時に、にダイモンの事を散々貶していた事がきまり悪いらしい。


 恐らく直接、大門と話したか、その陣頭指揮を見た事で見方が変わったのだろう。玄田が毛嫌いしている、警察関係者というレッテルはどうやら剥がれた様だった。


「それで? あんた等はこの御用改めに加勢したのか?」


 馬頭がそう訊くと、白田と玄田は当たり前のように頷いた。それがどうした、と顔には書いてある。何はともあれ、本人達が無事なのはなによりだと馬頭は思った。




「だが、それにしたって、奴等、見事なもんだよなぁ。かなりの手際だったよ。見直したぜ」


 玄田はそういってダイモンの社員達の働きぶりに感心していた。玄田によれば、彼らはその凄まじい手際の良さで、次々と襲撃犯達を制圧していったらしい。


 事実、集団リンチの襲撃犯のほとんどが大した抵抗の後も見られずに拘束されている。残りの、まだ床に転がされているチーマーの何人かが、この元役人とパンクロッカーの手によるものだった。玄田達が5、6人ほど叩き伏せる間に、大門達は残りの連中を全て昏倒させていたという。逃げられたのは、その時倉庫の二階に居た数人だけで、その様子は、その道40年のベテランの暴行のプロが舌を巻くほどの鮮やかさだった。




 そもそも、元々の基礎体力が違う。


 片やその道のプロである大門達に愚連隊上がりが敵うはずもない。傍から見ている分には、どちらが弱い者いじめをしているか分からなかったという。


「ーおい、同志よ。やっぱり気を付けた方が良いぜ、あのダイモンとかいう連中」


 玄田がそういって馬頭に耳打ちしてくる。押し込み強盗の手伝いまでしておいて、この過激派崩れは何を言い出すのだろうかと馬頭は思った。


「そうじゃない、なんていうか、俺が言うのもなんだが、連中、普通に酒飲んで話してる分には気の良い連中だったんだが、いざカチ込むってなると何人か人間が変わってやがった。何ていうか、元警官連中はまだ良いんだ。粛々と仕事をしてる。問題は残りの連中だ」




 玄田の顔はあくまで真面目だった。普段の言動からは余り感じさせない、冷静さがその表情にはあった。


「何人か、ど素人が紛れ込んでる。そりゃ何かしらの訓練は受けてんだろうけど、何処となく浮ついてやがった。一昔前のカルト教団みたいな感じだ。どうにもきな臭い」


 その道40年の暴行のプロの言葉には重みがあった。思わず馬頭も玄田の言葉に聞き入ってしまう。この手の分析に掛けては、恐らく玄田の右に出る人間はこの国には居ないだろう。


「あの大門て野郎も、いざ押し込むって時には人間が変わってた気がする。最初は先頭に立って突入するって言うから、大した野郎じゃねぇかって思って見てたんだが、やっこさん、チンピラの頭をかち割るときに笑ってやがったんだ。どうにも臭う、きなくせぇ」


 そんな玄田の箴言が耳に不思議と強く残った。違和感と言っても良い。それは、馬頭自身、以前から意識していた事だった。




 大門がオフィスで語ってくれた理由、大門スタッフサービスという会社を立ち上げたその理由、確かに胸を打つものがあった。


 だが、だからと言って何もここまでするだろうか。馬頭がそんな風に思うのも、チャンチャラ可笑しな話である。馬頭自身、手が早い事この上なく、根性の腐った相手であれば、それこそ辺り構わず鉄拳制裁を喰らわすような人間なのだ。おまけに、訓練中の事故として処理されてはいるが、自衛官時代に人一人殺しているのである。そんな馬頭でさえ、この差し押さえ業務、通称、御用改めというものに、ほんの僅かながら違和感を覚えていた事は確かだった。




 今日、その実態を目の当たりにしてからその違和感が、馬頭の中で強くなりつつあった。


 粗方、周辺の状況が落ち着いたのか、ダイモンの社員達は捕縛した襲撃犯である“犯人”達の回りに集まり始めていた。どうやらこれから尋問を行おうとする腹積もりの様である。


 中には馬頭が見知ったモンスターコンシュマーの連中も見え隠れする。何人かが先走って、手にした鈍器で身動きの取れなくなったチーマーを殴打している。元警官の社員が制止する事もあったが、基本的には一緒になって愚連隊の連中を小突き回している。




 馬頭は、その差し押さえ実行犯の中にあの薬師寺鏡子を見つけた。彼女も手に持ったバールで手近にいたチーマーをしこたま殴りつけている。彼女はチーマーの膝をバールのヘッドで打ち抜いた。バキッ、という鈍い音がする。恐らく、膝の頭が割れたのだろう。チーマーは泡を吹いて気を失っている。もう真面に歩くことすら敵わないかもしれない。馬頭にすれば、それ自体は案外、別にどうでも良かった。


 ただ、彼女の顔、薬師寺のその時の表情を見た時、馬頭の中で、大門達に感じていた違和感は決定的なものとなった。彼女は、笑っていたのである。チーマーの膝小僧を割りながら。それはあの時、馬頭が警察署もどきの営業センターで見た笑顔そのものだった。




ーまったく、大した代償行為だ。


 馬頭はそんな感想を抱きながら、懐からマルボロを取り出し、火を着ける。そして、大門達による尋問の様子をしばらく眺めていた。


「どうだい、彼らの様子を見ていて。英霊名高い、ととてけ運送の、馬頭一徹さまは何を感じたかね?」


 気付くと髪をグリスで固めた老紳士が馬頭の傍らに立っていた。ダイモンの社員達に聴こえないように、小声で呟く。


「彼らのやっている事が、ともすれば暴力そのものが、果たしてまともだと思うかね?」


 白田の物言いには結構な貫禄があった。こんな薄暗く、照明の少ない倉庫の中に立ってみると分かる。普段の河川敷では分からないが、白田の顔にも相当な皺が刻み込まれている。恐らくそれは、超えてきた修羅場の数であったり、あるいは見てきた人間の醜態の数だけあるのだろう。馬頭にはそんな風に思えた。




「確かにそうかもな、でもよ、白田の兄さん。あんた、ゴルフクラブでチンピラの頭かち割っておいて、そんな台詞言うのかい?それこそ、あんたが毛嫌いしている、あの玄田の旦那と同じなんじゃねぇのかい?」


 馬頭は一応そんなもっともらしい反論を返してみる。国会の答弁書の作成にまで関わった事のある男に口喧嘩で勝てる見込みもなかったが、それでも何か言わずには居られなかった。気付けば、マルボロの二本目をボックスから取り出していた。




「あぁ、確かに手を挙げるかどうかで考えれば、そうなのかもしれない。だけど、暴力と正当防衛は、別物なんじゃないかな。僕は、河川敷に来る連中の全てにボールを打ち込む訳じゃない。何か、向こうから危害を加えられそうになった時だけさ。単に、気に食わないからって頭をかち割ったり、誰かから命令が下りたから襲撃するって訳じゃない。一応これでも自分の中では筋を通しているつもりだ。喧嘩と暴力は違う。なによりー」


 白田はそこで一旦言葉を区切った。


「ーなにより?」


 馬頭はその続きを促す。玄田は倉庫の中央でダイモンの社員の一人と何か話していた。それを確認して白田は言葉の続きを口にした。


「・・・僕はあくまで誰かと対峙する時は一人で対峙するようにしている。それが一誇り或る人間として生きるための、最低限のルールだと、自分勝手に思っているからだ。僕が、あの暴力男に対して、唯一好感が持てる点もそこだ。アイツは何時だって、機動隊員とかち合う時だって、一人だった。あくまで一人で体制って奴と対峙していた。後ろに何人いるかなんて関係ない。法律の是非もだ。それは人間の尊厳の、生き方の問題だよ。馬頭さん」




 白田はそういって馬頭の眼を見つめてきた。深い、海を湛えたような瞳がこちらを見ている。生きてきた年月が、見てきたものがその水底に沈んでいるからそんな風に見えるのだろうか。思わず馬頭はその奥に落ちていくような錯覚を覚える。




「だから、僕もアイツが公安にマークされていた時は、それとなく情報を流した。別に貸しを作ろうなんて思っちゃいないさ。あくまで僕の自己満足だ。それをするだけの人物だと思ったからだ。あの玄田牛一が渡世を渡る事で、少しばかり世の中が良くなると踏んだからだ。だが、ここの連中はどうだい、正直、幻滅だね」


 白田はそこまで一気に喋ると、ようやく一息ついた。


 ダイモンの社員達はそれぞれ鬱憤を晴らしたのか、次第に散らばっていった。後は散発的に転がっているチーマーに蹴りを入れる者が居る位だった。逃げた襲撃犯の情報を吐かせたのか、倉庫の外に馬頭の指示を仰ぎに行った社員も居る。逃げた連中の行方が掴めるのも時間の問題だろう。ともあれ、捕縛されたチーマー連中の中で無事な者は居ないように見えた。


「ーどうだい、馬頭さん。僕はこれ以上彼らに肩入れする気はないよ。後はその辺に転がっているチンピラから、最近浮浪者を襲っている連中のリーダー格の事を聞きだして、それで終わりさ。それとなく警察庁の方から手を回す。これで多少は浮浪者が、いきなり襲われるなんてことも無くなるだろう」




 白田は散開していくダイモンの社員達を見ながらそう言った。手に持ったゴルフクラブがやけにくたびれて見える。馬頭には白田が何処か心苦しさを覚えているように見えた。


 襲撃犯の犯人達を不憫に思っている訳では無いだろう。その眼はダイモンの社員達に向けられている。どういう訳か、白田は彼らを憐れんでいるように見えた。


「まぁ、もっとも、あの社長さんが逃げた襲撃犯のリーダーを野放しにすれば、の事だがね。ほら、話をしていれば御出でなすった」




 倉庫のガレージが耳障りな音を立てて開いてゆく。そこから大門が秘書の海老原と部下数人を連れ立って倉庫内部へと入ってくる。もうこのコンテナ倉庫は完全に制圧し終え、大門達の支配下に置いたという事だろう。入口に止められてある、ホームレス襲撃の犯人達の改造バイクが御用改めの戦利品といった所であろうか。




「よーし、お前ら! 逃げた犯人の尻尾が掴めたわ。きっちり始末しに行くでぇ!」


 大門がそう一声を掛けると、社員達は威勢よく返事をする。おう、だとか、やってやる、だとかそんな感じだ。皆、熱に浮かされたように一様に興奮している。そんな様子を傍らで見ていた馬頭は、これ以上彼らに深く関わるつもりを無くしていた。




 玄田が数度、大門と言葉を交わす。それも終わったのか、集団から離れてこちらに戻ってきた。その肩は何処となく怒っているようにも思えた。


「畜生、なんだってんだクソッタレ。何が御用改めだ、結局は、一人じゃ喧嘩も出来ない連中が集まって、デカい面してぇだけじゃねぇか。これだからポリ公は!」


 先程の、ダイモンの社員達による集団リンチの異種返し的な尋問が気に食わなかったらしい。ぶつぶつと悪態を付きながら、馬頭達の事も目に入らず、全開したガレージから出て行った。恐らく、もうここに戻ってくる事もないだろう。




 馬頭に気付いたのか、大門が声を掛けてくる。


「おーい、馬頭さん。ここからがクライマックスです!どうぞ、大門スタッフサービスの御用改め、最後まで見ていってやって下さい!」


 満面の笑顔でそう言われては、なかなかどうして断りづらい。馬頭としても、正直うんざりしている部分もあった。それでも、ここまで来た手前、馬頭としてもこのまま引き下がる訳にも、なかなかいかない。


 ダイモンの社員の何人か、元モンスターコンシュマー達で馬頭の元顧客達、彼らが逃げた襲撃犯達を追うのであれば、自分も付いていって、最後まで見届けるべきなのではないだろうかという気持ちがあったからだ。




「最後まで見届けるんだろう?君は」


 傍らに立つ白田が馬頭を見上げて言った。


「それで良いと思う、君はそういう男だ。行ってきなよ。出来たら、それから、事の顛末を教えてくれ。僕はもう、こういうのには疲れた。ダンボールハウスに引っ込むことにするよ」


 白田はそれだけを言い残して去って行った。沖合から流れてくる潮風が馬頭の肌を舐めたかと思えば、その後ろ姿はもう見えなくなっていた。




 馬頭は倉庫の中央で転がっているチーマー連中を物珍しげに眺めている物部と江ノ島に合流した。二人とも、尋問が始まった頃、倉庫の勝手口から入ってきてその様子を窺っていたらしい。おかげで、流石の二人も些か食傷気味だった。


「馬頭さん、あれ、凄かったね。さっきの。何人か、骨、見えちゃってるじゃん・・・」


 物部は足元に転がっている、膝が開放骨折しているチーマーの一人を指してそんな感想を口にした。その口調は、面白かったというよりは、半ば、反吐が出るといった感じだ。


「これから、どうするんだ。一徹君、彼らの追い込みに付いて行くのかね?」


 江ノ島が手持無沙汰にレミントンを腕の中で遊ばせている。まだ、その銃口が火を噴いてはいない。その表情は、当てが外れたという風な感じだ。


 どうやら、二人とも馬頭と似たような印象をダイモンの御用改めに抱いたようである。




「ー俺は付いて行こうと思う。二人はどうする、正直、止めといた方が良いと俺は思う」


 馬頭は二人に相対してそう言った。今度こそ、人死にが出る予感がする。これ以上、トラウマを増やしたくなければ付いてこない方が良であろう事も、馬頭は二人に告げた。


「私は付いてくよ、ここまで来たんだし」


「私もだ。最後まで見なければ気が済まない」


 物部と江ノ島はほぼ即答した。その眼は昨日のそれとは感じが違った。大門の誘いに乗った事は、二人にとってはプラスだったようである。目の前の出来事に圧倒され、直近の悩みが流されつつあるようだ。馬頭は、段々といつもの物部達に戻りつつあるのを感じた。


 キーを差し込んで、手首を捻った。それでもエンジンはうんともすんとも言わない。


 しばらく何度かエンジンの始動を試してみる。キュルキュル、という中古車特有の、聞いているだけで運転手の方の頭のバッテリーが上がりそうな音がして、ようやく振動があった。始めに油圧を見て、それからガソリンの残量を確認する。




 助手席には物部、後部シートには江ノ島が座っている。先行する大門からは、大体の目的地は知らされていた。元覆面パトカーの集団の後ろにしがみ付いて、ジープは夜道の国道を走り抜けた。左手に東京湾を望みながら、房総半島を北上する。夜更けも間近なせいか、すれ違う車も居なかった。




 馬頭は前を走るレガシィのテールランプを見ながら、大門達と自分の間に確かな溝が広がっている事を再認識しつつあった。それはアクセルを吹かす時にも感じる。彼らのテンポに、今一つついていけない。ふと気を抜けば置いて行かれそうになるのだ。








 三十分も車を走らせただろうか。湾岸沿いを離れ、バイパス下の入り組んだ田舎道に入りかけた頃、前を行くレガシィが急ブレーキを踏んだ。


 単調な道に慣れきっていた馬頭は一瞬反応が遅れた。それでも一瞬だった。ジープは車間距離を保持したままレガシィの手前で停止した。


「ー伏せてろ!」


 そのまま馬頭はジープのドアから飛び跳ねるように転がり出た。同時に射撃体勢を維持する。ガバメントを握る左手を右の腕でホールドし、ジープの扉を盾にしたまま中腰の状態で状況把握に努める。もはやその挙動は条件反射の域に達していた。




 パン、パン、という散発的な銃声が幾重にも重なって聞こえた。その中に、パラパラパラ、という連続した破裂音が混じっている。視界の先では、暗闇で幾つもの発光が光っては消えてゆく。どうやら、大門達は待ち伏せに遭ったらしい。


「ーくそったれ」


 馬頭は不用意には顔を出さず、まず状況分析に努めた。どうやら、この二車線の田舎道の先は十字路になっているらしい。大門達はそこで襲撃を受けているようだった。


 


 戦況自体は大門達の方が優勢のように見えた。十字路の交差点に先頭車両が差し掛かった時、右手と正面から十字砲火を浴びた様である。それでも、向こうが持っている火器と言えば改造した模擬銃に火炎瓶、せいぜいが複製品の小口径自動拳銃位である。対する大門達の装備を馬頭は出かけしなに見ていた。


 ごてごてした暴徒鎮圧用のショットガンの他に、ドイツ製の軽機関銃を持っている社員が数人いたのを覚えている。一昔前、まだ行政が機能していた頃、成田で違法入国者に対して散々猛威を振るった奴である。殺傷能力の高い9ミリが30発、僅か二、三秒で飛んでくる。狙われた方は良くて蜂の巣である。


 そういう訳で、この十字路でも大門達が襲撃犯を制圧しつつあった。徐々に待ち伏せの動揺から立ち直りつつある。この分では馬頭達の助太刀も必要ないように思えた。




 ジープの運転席に戻ろうとした馬頭が、ドアを閉め切る直前になってその手を止めた。


 何か甲高い音がする、下品なビードロ音とでもいうのか、大気に木霊す爆発音。




ーバイクのエンジン音。


 チーマー連中の新手か。馬頭がそう思って耳を闇夜に澄ませた。


 断続的に聞こえる銃声のせいで聞き取りづらい。だが、確かにバイクの集団はこちらに近づきつつあった。左からだ、馬頭がそう判断した時、十字路に続く、左手の小高い丘の暗闇が僅かに明るくなった。見ると何台かのバイクが丘の上から飛び出してきた。




 このままでは不味いと馬頭は瞬時に判断した。今、大門達は正面と右手のチーマー連中に気を取られている。このまま接敵されて、後ろから襲撃を受ければ、ダイモンの側にも死傷者が出るかもしれない。もう、両者の距離はそれほど離れていなかった。


 馬頭はジープのサイドブレーキを外すと物部と江ノ島に向かって勢いよく吠えた。


「京の字、シートベルト閉めろ!先生は何かに捕まれ!」




 馬頭はそういったかと思うと、いきなりアクセルを底まで踏み込んだ。二人はとっさの発進にも如何にか対応した。すると突然視界が上下に揺れた。遅れて振動がやってくる。


 物部と江ノ島は隣の運転手がいきなり頭でも触れたのかと思った。馬頭が、ジープごと田圃へと突っ込んだからだ。


「ーちょっと、馬頭さん!何考えてんの! 頭っ、おかしいんじゃない!?」


 助手席の物部は堪らずそう叫んだ。車体上部の取っ手を両手でホールドする事で何とか天井に頭をぶつけないようにしているような有様である。思わず眼鏡がずれて視界がぼやけるのが分かる。後ろでは江ノ島が声にもならない悲鳴を上げているはずだ。




「黙ってろ、舌噛むぞ! 今、左手の稜線沿いに、族の連中が近づいて来てる。恐らく、新手だ。バイクのエキゾーストに混じって、大口径の銃声も聞こえた! かち合えば、ダイモンの連中も只じゃすまない!」


 馬頭は必死になって暴れ回るハンドルを押さえつけている。車体は飛び跳ねながらも、何とか放置された田圃の中を邁進していた。警備車両用にターボチューンされた73式は、そんな悪路に対しても力負けしてはいなかった。


 グオン、という独特なエンジンの吹き上がり、排気ノズルを逆流しようとする雑草と土が吹き飛ばされる。ガタガタと揺れる車内で馬頭が再度吠えた。


「前の道路が大門達の車で塞がってた。ポリ公って奴は、自分達の分の路駐は考えねぇ!連中への奇襲を防ぐには田圃突っ切って、暴走族の新手の横っ腹を叩くしかねぇ!


 最初はお前達を降ろしてからと思ったが、そうにもいかなかった! あんな所に放り出す訳にもいかねぇし、前のレガシィに放り込む時間なんてねぇ!」


 丘陵沿いの一本道が次第にジープの揺れるフロントガラスの中で大きくなりつつあった。ちょうど襲撃犯の新手の先頭も近づいて来ていた。それぞれのヘッドライトが、一本道で交差するー




「京の字! 俺が合図したら足をダッシュボードに両足を乗せて踏ん張れ! 両手は首の後ろに回して衝撃に備えろ。それから先生、俺のシートにしがみ付け! 体重は前に預けるんだ、後、車が止まって俺が飛び出した後、京の字の事よろしく頼む! あんたの猟銃で都合付けてくれ、いいか、お二人さん、いくぞー」


 江ノ島が後ろで何とか頷くのがバックミラー越しに見えた。馬頭がさらにアクセルを踏み込む、ギアを一気に高速に繋いだ。ジープの車体が田圃の段差を駆け上がる。


ー直後、衝撃が走った。上下のシェイクの後に、前後のシェイクが加わる。堪らず物部も吐きそうになった。


 


 衝突の瞬間、暴走族集団の先頭が吹っ飛んでゆく光景が物部の網膜に焼き付いた。馬頭がエンジンタンク辺りを狙ってジープの鼻先をぶつけたのだ。バイクの乗り手は面白い程高く飛び上がって、田圃に頭から突っ込んだ。


 馬頭といえば、すでにジープを降り、チーマー連中の新手を迎え撃っている。ジープのボンネットに肘を突き、鴨撃ちの要領で、なるべく足を狙うように次々と転倒させてゆく。


 すぐに大門達も新手の襲撃に気付いたのか、後ろから応援に駆け付けつつあった。どうやらチーマー連中の奇襲は防げたようだ—


「ーふぅ」


 物部はその時、とにかく気持ち悪かった。胃の中の吐しゃ物が逆流してくるのが分かる。思わず、馬頭の言いつけも忘れて助手席の扉を開いた。道路に盛大に胃の中のモノをぶちまけて顔を上げた時、それと目が合った。




 今しがた転がされたばかりのチーマーの一人がすぐそばに立っていた。馬頭のガバメントで撃たれた訳でも無く、転倒したバイクに巻き込まれたらしい。全身打撲であろうが、その男の身体はまだ動いた。クスリでも常用していたのかもしれない、意味不明な事を言いながらその手に持った模造銃の銃口を、物部の鼻先に突きつける。


 この距離なら外しようがないだろうな、なんて人ごとのような感想を物部は抱いた。ふいに、昔の親友の姿がフラッシュバックする。所謂、お迎え、という奴だろうか。やっぱり、楓は自分の事を、恨んでいたのかもしれない。




 ズドン、直後、そんな衝撃の後、銃声が物部の鼓膜を叩いた。


ーまだ、鼓膜が鳴っている。物部は放心状態で、そんな事を思った。どうやら、火薬か何かが爆発したらしい。さっきまで、目の前に居たチーマーが吹き飛んで行った。




 辺りでは、新たに捕縛されたホームレス襲撃犯の犯人達が大門達の手によって、道路の中央に集められつつあった。どうやら十字路の方も片が付き始めていた。


「・・・先生、さっきは、ありがとね。ほんとに、先生がああしてくれてなきゃ、私、今頃生きてないよ」


 物部はそういって傍らに立つ江ノ島に声を掛けた。今、二人は安全確保が大門達によって宣言された道路の上に立っている。あの、狭苦しいジープの中に居ては、これ以上、息が続かない。


「ーあぁ、いや、構わんよ。あぁ」


 江ノ島は未だに茫然自失といった状態だった。呆けたように猟銃を手に持っている。恐らく、人間をそれで撃ったのは初めてだったのだろう。




 あの時、物部は自分が死んだものだと思った。御多分にもれず、二十数年間の走馬灯が一気に駆け巡る。最後には何と死んだ親友まで目の前に現れた。


 目の前のチーマーの顔が吹き飛んだのを見た後も、自分のこめかみに穴が開いていない事を認識するのに物部はしばらく時間が掛かった。


 馬頭が何かを叫びながらこちらに駆け寄ってくる。馬面のその男が何を言っているのか、物部には最初分からなかった。左の耳の鼓膜が麻痺していた。馬頭は物部の無事を確認した後、後部座席の窓に向かって怒鳴った。良く聞こえないが、良くやった、だとか、助かった、だとか言っているようである。後ろを振り返ると、能面のような表情をした元大学教授の顔があった。


 江ノ島が咄嗟にレミントンであのチーマーを撃ったのだと、物部はその時になってようやく理解した。




「ーとにかく、京君が無事で良かったよ。何よりだ」


 江ノ島はようやく発砲の衝撃から立ち直りつつあった。よく間違えて馬頭の見立てでは江ノ島はそれほどショックを受けてはいないように見えた。


 馬頭も自衛官時代、訓練中に銃を暴発させて他の隊員を殺した後、半狂乱になってトリガーから指が離れなくなり、やむなく撃ち殺された者を見た事がある。その隊員と違い、江ノ島の眼の焦点は合っていた。変に左右にぶれたりもしない。


 憔悴しているように見えるのは、人間を撃ったという事態がまだ上手く呑み込めていないだけだ。この教授先生なら、後々、緊急避難やら正当防衛という理屈を付けて、頭の中で処理してしまうだろう。それだけの人生経験は持っている。




 馬頭はジープの傍で派手な銃声がした後、すぐに二人の安否を確認しに向かった。迂闊だった、助手席の向こう側は馬頭が陣取ったボンネットの位置からは死角だったのだ。対応が一瞬遅れた。


 回り込んでみると、チーマーの一人が顔から血しぶきを上げながら、道路に仰向けになって倒れていた。後部座席の窓から出た猟銃の銃口から立ち上る硝煙を見て、馬頭は大体の事態を把握出来た。


 二人の安否を確認した後、馬頭は大門達が到着するまでの間、まだ辺りに転がっているチーマー達の内、まだ動き回る元気のある奴を片っ端から昏倒させていった。ボクシングだか、柔道だか、わからない自衛隊時代にサークルを梯子する事で学んだ格闘技のない交ぜ、馬頭はそのチーマー連中をアスファルトに殴りつけてゆく。そして、そうしている内に、自分の気持ちが急速に冷えていくのが分かった。




ー俺はなんでこんな事をしているのだろう。物部達まで巻き込んで。


 馬頭の胸に高揚感はなく、ただ虚しかった。






 あらかた片付いたのか、もう散発的な銃声もバイクの甲高い嘶きも聞こえる事は無くなっていた。ホームレス襲撃犯であるチーマー連中は大門達に置いててられ、道路の中心に集められつつあった。


 馬頭は懐からマルボロを取り出し、火を着ける。


「どうだい、先生、あんたもたまには一服どうだ?」


 馬面の元自衛官はそういって散弾銃を手にした元大学教授に煙草を勧めてみた。二人は今、駐車したジープにもたれ掛かり、大門達の様子を遠巻きに眺めていた。


「いや、遠慮するよ。やっぱり、ニコチンには耐性が無くてね」


 江ノ島は馬頭の誘いを丁重に断った。その顔は何処か清々しそうに見える。


「大丈夫かい、初めてだろ。人間撃ったの、トラウマになりそうなら相談に乗らして貰うがー」


 馬頭の言葉を江ノ島は途中で遮った。


「いや、結構だ。多分、自分の中で処理できると思うよ。それに—」


 髪を撫でつけながら目を細める。記憶を遡っているようにも見える。


「ーそれに?」


 馬頭が言葉を引き継ぐと、江ノ島は続きを語った。


「ー少しは罪滅ぼしになったんじゃないかな。手前勝手な考えだけどね。若い人達に対してさ。引き金に指を掛けた時、どうしてか、今から撃とうとしている男でもなく、撃たれようとしてる京君でもなく、死んでいった教え子達の顔が頭を過ぎったんだ。あそこで何もしなかったら、多分、私は今頃、それこそ、今度こそ、発狂していたかも知れない。この一週間の、いや、もしかしたら、これまでの人生でずっと抱えていた。心の靄みたいなものが、少し晴れたみたいだ」


 江ノ島の表情は穏やかなものだった。少なくとも、ここ数日、ふさぎ込んでいるように見えた元大学教授の顔では無い。そして、それは物部の方も同じだった。




「ー私も、なんだか吹っ切れた感じかな。後悔ばっかりしたって、仕方無いしね」


 物部がジープの助手席の窓を全開にして、そこから身を乗り出している。口元でピアニッシモをしがんでいた。


「あぁ、これから死ぬんだって思った時、走馬灯、って奴? それが頭ん中で流れてさ。最後に死んだ知り合いが顔出したんだけど、そいつがまだこっちには来るなって言いやがんの、まぁ、そりゃ全部、私が創った勝手な幻覚なんだろうけどね。それでもちょっとは、許された気がする。うん、気が済んだよ」


 そういう物部の表情もまた晴れやかなものだった。今日、コンテナ倉庫に着く前の、何処か呆けた感じの二人はではもう無かった。社会に対して敵愾心丸出しのザンバラ頭のジャージ女と、終始、世の中を斜に構えて見ている襟付きセーターの白髪の爺、いつもの物部と江ノ島だ。


 経過はどうあれ、ととてけ事務所にとってはこの視察は無駄では無かった。少なくとも二人の気晴らしにはなったようだ。鉄火場を経験して、振り切れたらしい。どちらかと言えば、今の直近の問題はダイモンの方にあった。




 向こうで、主犯格のチーマー連中が大門達に囲まれ、命乞いしている。馬頭達はそれを冷ややかな目で見ていた。


 ちょっと前に元護送車両であろうダイモンの営業トラックが十字路に到着した。中から出て来たのは片足を引きずったりしているホームレス達である。おそらく、襲撃事件の被害者達を大門がここまで引っ張ってきたのだろう。何人かが社員達の助けを借りながら、全員が捕縛されている襲撃犯の所までやって来た。みな、一様に目が血走っている。中には死んだ仲間の遺品か何かを肩から掛けてむせび泣いている老人も居た。




 主犯格連中の泣き叫ぶ声が一層強くなる。どうやら自分達が半身不随にしたホームレスの被害者に謝罪をさせているようだ。


 何人かのホームレスの手にはすでに回転式の拳銃が握られている。大門達が用意してやったものだった。しばらくして、何十発もの銃声が夜中のアスファルトの上に響き渡った。




 そんな様子を馬頭は黙って煙草を吸いながら見ていた。すると、誰かが近づいてくる気配がした。見ると、海老原の姉の方、秘書の有価だった。彼女は、向こうで怒号を発している大門達とは様子が違って見えた。


「ーどう思います?」


 傍らに立った彼女はそれだけを訊いてきた。それでも訊きたい事の意味は分かった。


「どうって」


 馬頭は返事に窮した。


 大門のやっている事が間違っているとは思わなかった。


 事実、胸がすっきりしている自分が居たというのも事実だ。御幸のママの所で殺されたホームレスの話を聞いた時、憤りを覚えたのも確かだ。


 そもそも、曲がりなりにもこの御用改めに最後まで同行し、加勢までした自分が批難する資格もないだろう。地面に転がっている暴走族連中を見遣りながら、馬頭はそんな事を思った。その事を海老原にも伝える。




 向こうではホームレスと元警官達が涙ながらに抱き合っている。その中には馬頭の元顧客達の姿もチラホラ見える。何処から探してきたのか、集団リンチで亡くなった被害者の遺族も居るそうだ。


 馬頭はそんな喧騒に一瞥をくれた。そして、もうフィルターだけになった吸い殻を地面に落とす。


「ーでも、こんなのに付き合うのは、俺としてはもうこれっきりにしたい。それでも良いかい?」


 馬頭が最終的な返事を言い終えると、海老原は安心したような表情を見せた。馬頭ならそういうだろうと思っていたのだと言って微笑んでみせる。




 それから海老原は自分の身の上話を始めた。彼女にしては少し押しが強い気もしたが馬頭はそれを黙って聞いていた。何回か練習してあったのか、海老原の口は滑らかに動いた。時間にすれば短いものだった。


 彼女は元々、犯罪被害者だったそうだ。まだ、行政というものが辛うじて存在していた頃、被害に遭った。丁度、五年ほど前の事だった。


「ーこの前、自力救済の禁止って、おっしゃっていたじゃないですか。あれって、痴漢にも当てはまりますよね。当たり前でしょうけど」


 犯人の腕を縛り上げたまでは良かったが、肝心の鉄道警察がもう機能していなかった。相手が地元有力者の子息だというのも災いして、結局は、散々、暴言を吐かれた挙げ句、泣き寝入り寸前にまでなった。おまけに、そのゴタゴタで大手TV局のキャスターの内定まで流れたという。その時、唯一、管轄の刑事で話に乗ってくれたのが大門だった。


「全く、嫌になりますよね。・・・人間、格ってモノが、やっぱり存在するじゃないですか。格下に嘗められると、誰だって腹が立ちますよ。そりゃあ。内定が決まっていたTV局のボールペンで、軽く突いてやったら、傷害だって、まったく笑っちゃうでしょう?」


 調べてみると、匿名で局に嫌がらせの電話があったという。ネットにも、AV嬢をやっているという霰も無い誹謗中傷が実名付きで書き込まれていた。現場で不用意な発言はしなかったので、事情聴取に当たった、現場の感じの悪い鉄道警察から出た情報に違いなかった。妹の有意にも迷惑が掛かった。


「ケチなTV局ですよ。今時、デマ一つで狼狽えますかね。というより、職業倫理上、そんな、どうでも良い理由で内定を取り消しにしてはいけないはずなんですかー」




 ーさて、どうしてくれよう。


 それを、ずっと思案していると、大門が今日のような形で、強引に解決まで持って行ってくれたそうだ。


 大門自身、我慢の限界だったのだろう。辞表を上司の顔面に叩きつけた後、大門はその足で留置所に向かった。反省の色の無い加害者を半殺しにし、海老原の目の前まで引きずってきた。そして、全部の責任は俺が取るから、と有価に自分の拳銃を渡したそうだ。それも、ちゃんとグリップに指紋が残らないようにハンカチ付きで。


 有価はそれ以来、大門と行動を共にしているという。


「馬頭さん、それで私、どうしてもお願いがあるのですー」


 話を一通り終えた後、海老原は妹の有意をととてけで預かって貰えないか、と懇願してきた。くるりと、身を翻し、手を後ろで結ぶ。スタイルの良さが、否が応でも強調されていた。


 自分は大門に借りがあるし、もう運命共同体としか思えないが、妹には別の人生を、自分とは違う風に生きて欲しいのだと言う。自分や大門達と一緒に居ると、良くないと思っての事らしい。気付けば、端正な海老原の顔が僅かに歪んでいる。目尻のメイクが少し剥がれ落ちているのが分かった。まぁ、有り大抵に言えば、こういうのを魔性の女と言うのだろう。まぁ、それでも、悪い気はしないから、不思議だ。恐らく、珍しく、本音で喋っているという事もあるのだろう。




「厚かましいお願いであることは重々承知です。ーでも、御三方といる時、この前、江ノ島さんと物部さんに相手して貰った時も、あの子、久しぶりに心から笑っているように見えたんですよ」


 隣で物部達がびくっとするのが馬頭には分かった。二人ともこういう事に掛けては地獄耳である。物部の半分馬鹿になった耳にも、先程からダイモンの秘書の話の内容は届いていた。物部は、内心、海老原姉妹に対して、もっと牽制球を投げておくべきだったと後悔した。




「ととてけ様の御高名はかねがね訊いております。非常に人情に篤いお方だってことも、余ったお部屋を行き場の無くなった顧客に貸し出されている事も。どうか、お願いです。有意の事、預かってやってもらえないでしょうか。支度金なら少なくない額を持たせますからー」


 馬頭は海老原のその言葉の続きを遮った。


「いや? ・・・支度金なんて要らないよ。結構だ。あー、家賃さえ払ってくれるなら、結構だ。うちは基本的に誰でもウェルカムだよ。人間としての、必要十分条件さえ、満たしていりゃな」


 今日は、最初からそれが狙いだったのだろう。貸し、一つだ。別に大した事ではない、叶えてやれば良い。いつも、やっている事だろう。いまさら、ケチケチほどする事では無かった。


「あぁ、ただし、嘗めて貰っちゃあ、困る。さっき言ったみたいに、今回みたいな呼び出しはー」


「分かっています」


 詰め寄った馬頭の前に有価の人差し指が伸びて来た。恐らく、黙れという意味だろう。


 どうやら、海老原は前々からモンスターコンシュマーの顧客達を通して、ととてけの評判と、馬頭の人となりを知っていたのだそうだ。今日の一件で、妹を預けても大丈夫だと確信に至ったらしかった。


 徐々に、ダイモンの社員達が散らばり始める。大門がこちらに気付いたのか、大手を振って馬頭達の方へやって来た。その顔は喜色満面のそれといって良い。


「いやーっ、馬頭さん、先程は助かりました! おかげで誰も死なずに済みましたよ」


 そういって奇襲を未然に防いだ馬頭達に仕切りに礼を言っている。恐らく、ホームレス襲撃犯の連中の事は数の内に入ってはいないのだろう。今度の御用改めにも是非、付いて来てくれというので、馬頭が一言釘を刺さねばと思った瞬間、海老原が口を開いた。


「社長、そろそろお時間です。後片付けもしないとー」


 海老原に言われて大門も気が付いたらしい。この分なら、後腐れも無いだろうと、馬頭も判断する。これから、チーマー達の遺体を処分する手立てを話し合うのだと言って、大門と海老原は社員達の元へ帰って行った。




 ーお土産、持たせますね。


 去り際に、有価の唇がそう諳んじているのが見て取れた。何の事だろう、余り、良い予感はしなかった。それでも、後は海老原の方で上手く言っておいてくれるだろうと馬頭は希望的観測を持つ事にした。精々、ホタテか何か、新鮮な海の幸が、冷凍で届くくらいだろう。




「ーそろそろ帰るか」


 馬面の男はジープの運転席に乗り込むと、従業員兼借主である二人にそう言い放った。物部が助手席の窓を閉め、江ノ島が後部シートに乗り込む。


 キーを差し込んで、手首を捻った。エンジンは不思議と一発で掛かった。振動がシート越しに響く。さっきの衝突の拍子に、ヒューズか何かが上手く繋がったのかもしれない。エンジンが十分に暖まっていたというのもあるだろう。始めに油圧を見て、それからガソリンの残量を確認する。


 三人の乗ったジープは夜道を走り抜け、事務所への帰路をひた走った。




 例のダイモンの御用改めから数日が経とうとしていた頃、ととてけの事務所に新しい面子が増えた。


「海老原有意でーす。よろしくお願いしまーす」


 例の大門スタッフサービスの秘書から頼まれていた妹その人だ。物部と江ノ島は快く彼女を出迎えてくれた。心なしか、以前より頼りがいが出て来た気がする。


 後日、有意が経理の資格を持っているという事が判明し、ととてけの帳簿を付けて貰う運びとなった。信頼というのは自分で勝ち取るものである。その点、海老原姉の教育方針は間違ってはいないのだろう。非常に、しっかりした子である。部屋は物部の隣、事務所の二階の左奥を提供した。有意はすぐにととてけ事務所に馴染んでいった。


 歳が一七歳という事で、江ノ島の勧めもあって通信制の大学に通う事になった。明るくて素直な子供だ、馬頭が特に気にする事は何も無かった。




 しばらくして大門達が失踪したという噂を聞いた。事務所の一階のリビングで、バランスボールの上で弾んでいる有意にもそれとなく確認してみる。バランスボールは彼女が持ち込んだ私物だ。どうやらそれは確からしい。


 大門達はどうやら、差し押さえ業務、御用改めのやり過ぎで公安に目を付けられていたようだ。前々から準備していたそうなので、社員一同、特に問題なく雲隠れする事に成功したようである。


 風の噂では、海外の新興国で新しく警備会社を起こした集団が居るとか居ないだとか流れてきたが、馬頭自身、詳しく調べるつもりも無かった。有意自身、知らん顔をしているので、特に詮索するつもりも、もちろん彼女を追い出すつもりもなかった。




 今日も今日とて、配送の仕事である。馬頭は最後のダンボールをジープの後部シートに押し込んだ。最近、ととてけ事務所への依頼は増えていた。どうやら、大門達が置き土産とばかりに、自分達の顧客をととてけへとそのままスライドさせてきたようだった。おかげで冬を越すどころか、年末年始は入り時も重なってととてけ運送始まって以来の忙しさである。


「馬頭さーん、私、何か手伝いましょーか?」


 助手席のシートに収まった有意がキャッキャと騒いでいる。まだ、こうして配送について回るのは数回目で目新しさがあるのだろう。ジープを転がし始めると車窓から流れる景色を面白そうに眺めるのだ。


「いや、構わんよ。もうこれで仕舞さ」


 馬頭はそういってジープの後部ドアを閉めた。運転席に回って、 キーを差し込んで、手首を捻った。それでもエンジンはうんともすんとも言わない。


しばらく何度かエンジンの始動を試してみる。キュルキュル、という中古車特有の、聞いているだけで運転手の方の頭のバッテリーが上がりそうな音がして、ようやく振動があった。始めに油圧を見て、それからガソリンの残量を確認する。




 隣で海老原有意が律儀にシートベルトを締めたか確認していた。ひざ掛けの上には型番落ちのラップトップが置かれている。物部のお下がりだった。それがあれば何処でもフリースクールの講義を見る事が出来るという。


 よく喋る有意の話は馬頭にとって良い眠気覚ましになった。といっても、以前ほど慢性的な睡眠不足に悩まされている訳はない。ダイモンの一件以降、幻覚症状は控えめになっていた。睡眠薬ビールのセットをやらなくても熟睡出来る事もあった。ふざけたウサギのマスコットが現れる事も、ヘリのローター音に叩き起こされる事も少なくなった。




 物部と江ノ島も似たような感じらしく、夜中に一階でばったりと遭遇しても馬頭を親しい故人と誤認する事は少なくなった。


 ふと、有意の話の中に、聖書の一説が飛び出した。馬頭の幻覚では無かった。神学系の講義の中で聴いた話だと言う。その中には御幸のママの所で聞いたような話も混じっていた。あの、善きサマリア人のたとえ、という奴だ。




 “汝も往きて、其の如くせよ。”その言葉が不思議と馬頭の耳に残った。




 詳しい解釈や意味は、今でも馬頭には分からなかった。けれど、それでも構わない。馬面の運転手は愛車であるジープを走らせながらそう思った。


ー自分は只、今日も厄介な相手に厄介な荷物を運ぶ、それだけだ。










                                 (完)



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