第八話 もう一度
目を覚ましたとき、隣に、白銀の頭があった。
まだ眠っている。長い睫毛が、頬に影を落としている。胸が、規則的に上下している。
カリルは、その頬に手を伸ばした。
温かかった。
「……博士、何時ですか」
「……朝だよ。まだ、寝ていいよ」
「博士、目、赤いです」
「……夢、見ちゃってさ」
「悪い夢、でしたか」
「うん。すごく、悪い夢」
寝起きの掠れた声で、フィルウが、こちらの頬に手を伸ばしてきた。
「大丈夫ですよ」
「……うん」
「僕、ここにいます」
カリルは、その体を抱き寄せた。
強く、強く、抱きしめた。
「博士、苦しいです」
「ごめん」
「今朝、本当に変ですよ」
「うん。変なの、ごめん」
窓の外で、朝の光が、ゆっくり強くなっていった。
その回、彼は、フィルウを一度も外に出さなかった。
行脚の三件は、すべてカリルが一人で回った。心臓の専門医を呼び、治療を最優先にし、徹夜を許さず、食事の時間を決めた。政府との接触も、全部引き受けた。
「博士、何か知ってますよね」
「……知らないよ」
「博士、嘘、下手ですよね」
「……ごめん」
「いいです。話したくなったら、話してください」
フィルウの顔色は、よくなっていった。不整脈の頻度が減った。笑うことが増えた。
四ヶ月後の、あの火曜の夜が、何事もなく過ぎた。
その夜、カリルは、彼を抱きしめて眠った。
勝った、と思った。
半年後、フィルウは、地下の作業部屋で倒れた。
救急車は、間に合わなかった。
「博士……ごめんなさい……」
「謝らないで、お願いだから」
「今朝、コーヒー、淹れて、おいた、ので……」
「……うん」
「冷めちゃい、ますね……また……」
治療が間に合わなかったわけではない。治療は効いていた。
ただ、彼の心臓は、カリルが思っていたよりも、ずっと限界に近かった。二十年以上の蓄積を、四ヶ月でひっくり返すのは、無理だった。
彼は、撃たれずに死んだ。
左胸に銃弾を受けることは、なかった。代わりに、その左胸の心臓が、自分で止まった。
カリルは、地下に降りた。
今度は、迷わなかった。
次は、治療をもっと早く始めた。
九年前の、あの冬の朝の直後から。「五十年、持ちません」と告げられた、その翌週から、強引に医者を呼んだ。
「博士、なんで、僕の心臓のこと、最初から知ってるんですか」
「勘だよ」
九年かけて、彼の心臓は、初めて健康になった。九十歳まで生きられる、と医者は言った。
その回、フィルウは、別の理由で死んだ。
行脚の途中、面会先のビルの階段で、足を滑らせた。頭を打った。二日後に死んだ。
次は、階段のある建物での面会を、すべて断った。
その回は、宿泊先のホテルで火災が起きた。
次は、ホテルを変えた。
その回は、移動中の列車が事故を起こした。
次は、列車をやめて車にした。
その回は、対向車が来た。
カリルは、少しずつ、わかってきた。
潰した原因の隣に、必ず、別の原因が現れる。心臓が駄目なら、頭が。頭が駄目なら、肺が。肺が駄目なら、誰かが外から。
フィルウ・ブランシャールという人間は、もう、生きる軌道から外れている。
何度観測しなおしても、その軌道は、必ず同じ場所に戻ってくる。
二十一回目に、彼は、フィルウを研究から引退させた。
銀嵐の研究を全部引き受けて、彼を南の海辺の家に連れていった。毎日、海を見せて、ご飯を食べさせて、眠らせた。
最初の三ヶ月、フィルウは、本当に嬉しそうだった。
「博士、こんなにのんびりするの、初めてです」
「うん」
「こんな贅沢、いいんでしょうか」
「うん。ずっと、こうしよう」
半年後、彼は、ベランダで言った。
「博士。僕、計算がしたいです」
「……」
「博士の隣で、計算が、したいです」
「フィルウ」
「わかってますよね。僕、計算しないと、死んでしまうんです」
「……」
「観測しない僕は、もう、僕じゃないんです」
その夜、彼は、海を見ながら、カリルの隣で息を引き取った。
医者は、心不全と書いた。
カリルは、違う診断を持っていた。
僕が、殺した。
僕の優しさが、殺した。
三十四回目に、彼は、好きなだけ計算をさせた。
対外的なことは全部引き受けて、彼を地下に置いた。フィルウは、毎日、幸せそうに計算をしていた。
その回、火事が起きた。
原因は、彼の机の上のコーヒーカップだった。飲みかけのまま置いていく、あの癖。カップが傾いて、こぼれて、電気スタンドのコンセントがショートした。
フィルウは、カリルに応急処置をしているあいだに、煙を吸いすぎた。
二日後に、病院で死んだ。
なんで、君の癖まで、君を殺すんだ。
四十回を超えたあたりから、記憶が混ざるようになった。
三回目の彼の最後の言葉と、十七回目の彼の最後の言葉が、頭の中で混ざる。二十一回目のベランダと、四十回目の研究室が、混ざる。
どの回に何が起きたのか、順番が、わからなくなってきた。
ただ、ひとつだけ、混ざらないものがあった。
どのループでも、彼の最後の言葉は、同じだった。
「博士、愛しています」
「博士の隣で、目覚める朝が、僕の、人生で、一番──」
その先は、いつも、言い終わらないまま、行ってしまう。




