第九話 六十七回目
六十七回目。
その回のフィルウは、九年前の冬の時点で、もう、こちらを見ていた。
「博士、おかしいです」
「うん?」
「今日、なんで、僕の心臓のこと、知ってるんですか」
「……勘だよ」
「勘だけで、心臓の専門医を、最初から手配しないですよ」
「……」
「博士。僕、思うんですけど」
「うん?」
青い瞳が、じっと、こちらを見た。
「──博士、何回これを繰り返してます?」
その夜、フィルウは、眠らなかった。
翌朝、彼は、地下の装置室の前で、待っていた。
封印は、剥がされていた。五人分の署名が入った紙が、床に落ちていた。
「博士」
「……」
「僕、これを書いたとき、博士が一番先に破ると思っていました」
「……知ってた」
「はい。だから二重にしましょうって言ったのも、僕です」
フィルウは、紙を丁寧に折り直した。
「でも、二枚でも足りなかったんですね」
「……」
「博士。何回、僕を、生かそうとして、失敗したんですか」
カリルは、床に座り込んだ。
フィルウは、その前に座って、いつものように手を握った。
血の通った、温かい手だった。
「博士」
「……うん」
「もう、いいですよ」
「フィルウ」
「もう、いいんです」
彼は、静かに続けた。
「僕、たぶん、毎回、博士に同じことを言って、死んでますよね」
「……」
「『愛しています』って」
「……」
「博士は、それを、もう何回も、聞いたってことですよね」
「……うん」
青い瞳が、ゆっくり、涙で満ちた。
「ごめんなさい」
「……なんで、君が謝るの」
「僕、毎回、最後の最後で、それを博士に押し付けて、死んでるんですね」
カリルは、答えられなかった。
フィルウは、頬に手を当ててきた。
「博士。僕は、博士のためなら、何度でも構わないと思ってます」
「……」
「でも、博士は、それを、何度も聞かされる側なんですよね」
「フィルウ」
「もう、いいです」
「……」
「もう、僕を、観測しなくて、いいです」
「駄目だよ」
カリルは、その手を、両手で握った。
「もう一度やる。今度こそ勝つ。だから──」
「博士。もう、勝てないんですよ」
「……」
「わかってますよね」
「……」
「僕は、もう、生きる軌道から外れてる。博士が何度観測しなおしても、僕の軌道は、必ず同じ場所に戻る」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「だから、博士。ここで、終わりにしましょう」
「フィルウ」
「今度こそ、僕の死を、ちゃんと観測してください」
「……」
「博士は、僕の、最後の観測者です」
「……」
「博士がちゃんと観測してくれないと、僕は、本当には、死ねないんです」
彼は、立ち上がった。
制御盤の前に立って、いつものキーボードを叩く指で、コンソールを操作した。彼のほうが、ずっと機械に強い。
十秒だった。
装置が、警告音を立てた。モニターが、赤く点滅した。
「フィルウ、待って──」
「博士、ありがとうございました」
「待って」
「博士のおかげで、僕は、たぶん、何十回も、博士の隣で目覚める朝を、味わえました」
「フィルウ」
「もう、十分です」
メインコアが、放電を始めた。
もう、止められなかった。
彼は、戻ってきて、カリルの頬に両手を当てた。
「博士。最後に、ひとつだけ、お願いがあります」
「……」
「博士は、これから、僕がいない五十年を、ちゃんと生きてください」
「……無理だよ」
「無理じゃないです」
「……」
「博士は、僕を、ずっと観測してきました。これからは、博士自身を、観測してください」
彼は、少し笑った。
「観測してくれる人がいるなら、軌道は、決して無駄にはならない。──博士が、僕に言ったことです」
装置は、爆発しなかった。
内部から、静かに崩壊した。時空連続体の計算のために酷使され続けた心臓部が、ゆっくりと機能を失っていった。二度と起動できない形で。
最後の明かりの中で、フィルウは、カリルの頬に唇を寄せた。
「博士、愛しています」
「……」
「博士の隣で、目覚める朝が、僕の、人生で、一番、好きでした」
その言葉を、彼は、言い終わった。
六十七回目にして、初めて、最後まで、言い終わった。
カリルは、彼を抱きしめた。
体は、まだ温かかった。心臓は、まだ動いていた。彼は、まだ、生きていた。
でも、もう、装置はない。
次の死を、巻き戻すことはできない。
次の死が、最後の死になる。
その日が来るまで、隣で、観測し続ける。
彼が託した、最後の役目。
「フィルウ」
「はい」
「……ありがとう」
「博士、こちらこそ」
「君に、出会えて、よかった」
「僕も、です」
最後の明かりが、消えた。
装置室は、完全な闇になった。
その闇の中で、カリルは、彼を抱きしめていた。
白銀の髪が、闇の中で、微かに光っている気がした。
九年が経った。
その九年は、カリルにとって、六十八回目の九年だった。
フィルウにとっては、一回目の九年だった。
同じ九年を、二人は、まったく違う速度で歩いた。
カリルは、もう、彼を止めなかった。
行脚にも、一緒に行った。断られる部屋にも、一緒に座った。重く受け止めますという言い回しを、彼が数えているのを、隣で聞いていた。四十七回目のとき、フィルウが小さく息を吐いたのも、覚えている。
止めれば、六十八回目になる。
それはもう、装置を使うのと同じことだった。
だから、彼はただ、観ていた。
その九年で、フィルウは、少しずつ変わっていった。
急がなくなった。
徹夜をしなくなった。薬を隠さなくなった。医者に、自分から行くようになった。
「博士」
「うん」
「僕、たぶん、そんなに長くないです」
「……うん」
「知ってましたよね」
「うん」
「じゃあ、いいです」
彼は、それだけ言って、また計算に戻った。
その言い方が、あまりに軽かったので、カリルは、しばらく何も言えなかった。
彼はもう、隠すことをやめている。
隠す理由が、なくなったからだ。
行脚が、あと三件になった夜。
フィルウが、手帳を閉じて言った。
「博士」
「うん」
「あと三件、たぶん、取れません」
カリルは、顔を上げた。
「二件は感触がある、って、君、言ってたじゃない」
「言いました。でも、あれ、九割方、社交辞令です」
「……」
「一年半、四十七回聞きました。同じ声色でした」
彼は、手帳の表紙を、指でなぞった。
「このやり方では、届きません」
「……フィルウ君」
「博士」
青い瞳が、こちらを見た。
「公表します」
カリルは、答えなかった。
六十七回、これを止めてきた。あらゆる方法で止めてきた。監禁に近いこともした。研究から引き離したこともある。それでも、彼は、必ず、この結論に着いた。
軌道は、必ず、同じ場所に戻る。
「……止めないよ」
カリルは、そう言った。
「え」
「止めない」
「……博士、いいんですか」
「よくないよ。全然よくない」
彼は、笑った。うまく笑えていなかった。
「でも、君が決めたことだから」
フィルウは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「博士」
「うん」
「今の、ちゃんと、観測ですね」
公表の方法は、フィルウ自身が決めた。
ユールにも、イーシャにも、事前に伝えなかった。伝えれば、二人とも止めに来る。来たら、また誰かの人生が変わる。
「博士。会見は、やりません」
彼は、そう言った。
「会見は、開く前に潰されます。会場を押さえた時点で、誰かが気づく。九年前、ウォードさんが言ってたとおりです」
「じゃあ、どうするの」
「先に、出します」
彼が用意していたのは、一本の記事だった。
査読を通す時間はない。学術誌は、通らない。だから彼は、自分の名前で、プレプリントサーバと、いくつかの科学メディアと、九年分の観測データを置いた公開リポジトリを、同時刻に開くよう設定した。
タイトルは、短かった。
『太陽系外縁から接近中の未確認天体群について』
著者名は、二つ。フィルウ・ブランシャールと、カリル・ラセール。
「博士の名前、勝手に入れました」
「……いいよ」
「怒らないんですか」
「怒るところじゃないでしょ、それ」
カリルは、そう言った。
「九年分だよ。僕の名前がないほうが、おかしい」
フィルウは、少しだけ笑った。
「公開は、明日の朝六時です」
「早いね」
「アメリカの夜と、アジアの昼に、同時に当たる時間です」
彼は、そこまで計算していた。
「一度出たら、消せません。ミラーが立ちます。何百も」
「……政府は動くよ」
「動きます。でも、動く頃には、もう遅いです」
彼は、画面を閉じた。
「六時間だけ、時間を稼げれば、勝ちです」
当日の朝。ホテルではなく、研究センターの寝室だった。
カリルは、フィルウの正面に立って、首元を覗き込んだ。
「ちょっと、貸して」
手を払いのけて、ネクタイを結び直す。
「ちょっと曲がってるね」
「博士が結んだのに」
「わざと曲げといた」
「……なんでですか」
「親しみやすく見えるように。これ、コツだよ」
「そんなコツ、聞いたことないです」
「あるの。君、放っておくと完璧に結ぶから、余計に人を寄せつけないんだよ」
フィルウは鏡を見た。左が二ミリほど下がっている。直そうとして、やめた。
「博士」
「うん」
「今日、隣にいてくれますか」
カリルは、手を止めた。
六十八回目にして、初めて、彼のほうから頼まれた。
「……いるよ」
「ずっと、観ててくれますか」
「うん」
「僕も、ときどき、博士を観ます」
カリルは、うまく返事ができなかった。
「約束です」
フィルウが、そう言った。
記事は、午前六時に公開された。
最初の三十分、何も起きなかった。
七時を過ぎたあたりから、リポジトリのアクセス数が跳ね上がった。八時に、大学の物理学系のアカウントがいくつか引用した。九時前に、最初のメディアが記事にした。
九時十五分に、研究センターの代表番号が鳴り始めた。
十時には、鳴りやまなくなった。
十一時、正門の外に、最初の中継車が停まった。
カリルが二階の窓から見下ろしたとき、そこにはもう、十数台のカメラと、五十人ほどの人間がいた。昼過ぎには、その倍になった。
中庭のソメイヨシノの向こうに、脚立が並んでいた。
「フィルウ君」
「はい」
「すごいことになってる」
「はい」
「君、こうなるって知ってた?」
「予測はしました。少し、上振れてます」
彼は、画面を見ていた。ミラーサイトの数を数えていた。
「三百二十六です」
「……何が」
「複製されたデータの数です。もう、消せません」
彼は、そこで初めて、椅子の背にもたれた。
「勝ちました」
午後二時、フィルウは、正面玄関前の階段に出た。
演壇はなかった。マイクスタンドもなかった。彼は、ただ、階段の上に立った。
その瞬間、フラッシュが、一斉に弾けた。
カリルは、その半歩後ろにいた。
「ブランシャール博士! 記事の内容は事実ですか!」
「地球外生命体ということですか!?」
「なぜ九年間、公表しなかったのですか!」
「ラセール博士! あなたも同じ立場ですか!」
声が、波のように押し寄せた。
フィルウは、それが静まるのを待たなかった。
待っていたら、日が暮れる。彼は、そういう計算をする男だった。
「フィルウ・ブランシャールです」
声が、通った。
通ったことに、カリル自身が驚いた。この男は、二百人の会場でも、二人の研究室でも、同じ声で話す。数百人が怒鳴っている場所でも、同じだった。
「本日午前六時に公開した論文について、三点、申し上げます」
いくつかのカメラが、静かになった。
「第一に、記載したデータは、すべて事実です。改竄も、誇張もありません。すべての生データを、同時に公開しています。誰でも、検証できます」
メモを取る音が、走った。
「第二に、到達はおよそ五十年後です。明日でも、来年でもありません。五十年あります」
彼は、そこで一度、息を吸った。
「第三に──」
カリルは、その背中を見ていた。
六十七回、この瞬間を潰してきた。監禁に近いこともした。研究から引き離したこともある。それでも、彼は、必ず、ここに着いた。
軌道は、必ず、同じ場所に戻る。
だから今日、彼は、止めなかった。
「──私たちだけでは、対処できません」
フィルウは、はっきりと言った。
「迎撃も、退避も、一国では不可能です。必要な資源は、既存の宇宙産業全体の生涯生産量を超えます。私と、ラセール博士は、九年かけて、それを確認しました」
彼は、顔を上げた。
「ですから、これは、依頼です」
カリルは、そこで、彼が一度だけ、こちらを振り返ったのに気づいた。
目が合った。
フィルウは、ほんの少しだけ笑った。
カリルも、軽く頷き返した。
彼は、向き直った。
「今日から五十年、これを引き継いでください」
その声が、届いたかどうかは、わからない。
届いていた、と、カリルは思う。少なくとも、その瞬間の玄関前は、静かだった。数百人の人間が、一斉に黙る、その数秒があった。
だから、乾いた音は、よく聞こえた。
パン、と。
フィルウの体が、ほんの少しだけ、後ろによろめいた。
悲鳴は、一拍遅れた。
カリルは、半歩の距離を、詰めた。
それは、六十七回、体が覚えた動きだった。
彼は、その体を受け止めた。
白いシャツの左胸に、赤い染みが広がっていた。
六十七回、見た場所だった。
階段の下で、カメラが、まだ回っていた。
「博士……」
「うん、ここにいるよ」
「言え、ました、か……」
「言った」
「全部……?」
「全部。三つとも」
フィルウは、少しだけ笑った。
「よかっ、た……」
唇の端から、赤いものがこぼれた。カリルは、それを親指で拭った。
「博士……」
「うん」
「今、ちゃんと、僕を、観てて、くれます、か……」
カリルは、その顔を見た。
六十七回、この問いを聞いた。六十七回、同じ返事をした。
でも、今日だけは、意味が違う。
「観てるよ」
彼は、そう答えた。
「観てる。逸らさなかった。一回も」
フィルウの目が、ゆっくり、こちらを向いた。
「……約束、ですね……」
「うん」
「博士……」
「うん」
「……愛して、ます」
カリルは、答えた。
「うん。知ってる」
フィルウが、少し、目を見開いた。
それから、笑った。
「博士の隣で、目覚める、朝が……僕の、人生で、一番──」
彼は、そこで、息を吸った。
「……一番、好きでした」
言い終わった。
二度目だった。
長い睫毛が、伏せられた。
カリルは、彼を抱いたまま、動かなかった。
周りでは、人が走っていた。誰かが救急車を呼んでいた。カメラの何台かは、それでも、回り続けていた。
この光景は、その夜、全世界で流れた。
六十七回のうち、一度もなかったことだ。
どの回でも、彼の死は、誰にも観測されなかった。
今回だけ、数百のレンズが、それを見ていた。
カリルには、それらが、ほとんど見えていなかった。
腕の中の体が、ゆっくり、冷えていった。
六十七回、これを止めようとした。
六十八回目に、止めなかった。
結果は、同じだった。
いや──ふたつだけ、違った。
この回のフィルウは、言い終わった。
自分で選んだ方法で、自分で選んだ言葉を、最後まで、言い終わった。
そして、世界が、それを見た。
それが、六十七回分の失敗の、唯一の成果だった。
カリルは、彼の白銀の髪に、額を押し当てた。
「……ちゃんと、観たよ」
誰にも聞こえない声で、そう言った。
「全部、観た」
地下に、装置はない。
次の死を、巻き戻すことは、できない。
これが、最後の死だった。
──観測者の絶望は、ここで、終わった。
──観測者の、本当の観測が、ここから、始まった。




