第十話 図面
この世界のイーシャ・バラットは、何も知らなかった。
九年前、「セオ」を逸らしたあの三年間の記憶は、彼女の中に、ちゃんとある。カリルが何をしていたか、何度やり直したか、最後にそれが全員の前で明かされたことも、覚えている。あのときは、彼女自身も、その中にいたからだ。
だが、今回は違った。
フィルウが撃たれてから、地下で装置が崩壊するまでの、六十七回。
彼女は、そのどの回も、覚えていない。
覚えていないまま、六十七回、同じところに立った。
カリルは、それを全部見ている。彼女は、一度も知らない。
その朝、彼女が最初に見たのは、息子が突き出してきたスマートフォンだった。
「母さん。これ、母さんの知り合いじゃないの」
画面に、白銀の髪の男が映っていた。
研究センターの正面玄関。階段の上。マイクスタンドもない場所に、ただ立って、数百のカメラに向かって喋っている。
イーシャは、皿を洗っていた手を止めた。
濡れた手のまま、それを受け取った。
『今日から五十年、これを引き継いでください』
音は、割れていた。誰かのカメラを、誰かが転載して、それをまた誰かが切り抜いた画質だった。
それから、乾いた音がした。
彼女は、最後まで見た。
途中で止めることも、目を逸らすこともできなかった。
白銀の髪が、階段の上で傾いて、その下に、もう一人の男が滑り込むのが見えた。
九年ぶりに見た背中だった。
映像が終わってから、しばらく、何も言えなかった。
最初に湧いてきたのは、悲しみではなかった。
(あの、馬鹿)
(あの馬鹿二人)
殴り倒したかった。
二人まとめて、順番に、思いきり。
なぜ相談しなかった。なぜ一言も寄越さなかった。私は、九年間、あなたたちの計算を検算してきた人間よ。設計を引いたのも私。不可能だと言ったのも私。それを、あなたたちだけで決めて、あなたたちだけで出て、あなたたちだけで──
殴れる相手は、もう、片方しかいない。
もう片方は、馬鹿なことをしたせいで、死んだ。
イーシャは、濡れた手を、エプロンで拭った。
それから、ようやく、指が震えていることに気づいた。
「……母さん?」
息子が、こちらを見ていた。
「知り合い、なんでしょ。この人」
イーシャは、答えなかった。
「母さんが五年、家にいなかったときの、仕事の人でしょ」
十九歳の息子は、もう、母の顔色を読める年齢になっていた。
夫が、リビングから出てきた。彼も、テレビをつけていた。同じ映像が、別の局で流れていた。
三人とも、しばらく、何も言わなかった。
やがて、夫が言った。
「イーシャ」
「……なに」
「君の名前、出てないね」
彼は、そう言った。
イーシャは、夫を見た。
この人は、いつも、いちばん先に、いちばん怖いところを見る。
「……出るわ」
彼女は、そう答えた。
「三日か、四日で。あの子の九年分のデータが公開されたのよ。設計図も入ってる。私のメモ、全て消しきれる量じゃない。あの図面には全部残ってる。見る人が見れば、一日で割れる」
息子の顔から、血の気が引いた。
「え、待って。それって」
「……」
「また、いなくなるの」
その一言が、いちばん痛かった。
五年。
この子が四歳から九歳になるまでの、五年。声が低くなり始めた時期を、彼女は見ていない。写真は毎年送った。返事は、一度も来なかった。
やっと、九年かけて、ここまで戻ってきた。
「ヴィシュヌ」
「なに」
「まだ、決まってない」
「決まってるみたいな顔してるじゃん」
彼女は、答えられなかった。
政府の人間が来たのは、三日後の夕方だった。
二人。スーツ。玄関先で身分証を出して、丁寧に頭を下げた。丁寧すぎるほど、丁寧だった。
「バラット博士。少し、お時間をいただけますか」
「用件は」
「先日公開された論文の、付録Cの設計図について」
早かった。
彼女の予測より、一日早い。予測屋の隣で九年働いていたわりに、自分の見積もりは甘い、と彼女は思った。
「少々、お待ちいただけますか」
イーシャは、そう言って、扉を半分閉めた。
振り返ると、廊下に、夫と息子が立っていた。
二人とも、何も言わなかった。
言えば、彼女が行けなくなると、二人ともわかっていた。
イーシャは、上着を取った。
それから、息子の前に立った。
背は、とっくに追い越されている。見上げる形になるのが、いまだに慣れない。
「ヴィシュヌ」
「……」
「聞いて」
彼女は、そう言った。
「お母さんはね、また、世界を救ってくる」
息子の顔が、歪んだ。
「なにそれ」
「言ったとおりの意味よ」
「そんな言い方で──」
「他に言い方がないの」
彼女は、笑った。
九年ぶりに、あの顔で笑った。三年間、あの研究センターで、不可能な要求ばかり突きつけてくる二人の男を叩き落とし続けていたときの顔だった。
「五年前、あなたに何も言えずに出ていったのは、私の落ち度。今度は、ちゃんと言っていく」
「……」
「行ってきます」
「母さん」
「なに」
息子は、少しのあいだ、言葉を探していた。
「……ちゃんと、帰ってきてよ。世界救ってさ」
それから、目を逸らして、続けた。
「俺、夢叶えたいんだ。生きてたいよ。地球がなくなるなんて、嫌だから」
イーシャは、息子の頭に手を置いた。
置いてみて、届く高さだったことに、少し驚いた。
「善処するわ」
「そこは嘘でもいいから、うんって言ってよ」
「工学者に、嘘の見積もりを出させないで」
夫が、玄関まで来た。
彼は、何も聞かなかった。ただ、上着の襟を直した。
「イーシャ」
「なに」
「あの人たちに、負けるなよ」
「誰に」
「全員に」
彼女は、笑った。
それから、扉を開けた。
二人のスーツが、そこに立っていた。彼らは、玄関の中に何があるのかを、見ようとしていた。
イーシャは、その視線を、体で塞いだ。
「行きましょうか」
彼女は、そう言って、先に歩き出した。
彼らが、慌てて後ろについてくる。
連行される人間の歩き方ではなかった。
車に乗る直前、彼女は一度だけ、家を振り返った。
玄関に、二人が立っていた。
イーシャは、手を上げた。
振らなかった。ただ、上げた。
九年前、空港で息子の手を握ったときと、同じ手だった。
取調室で、彼女は、淡々と答えた。
「付録Cの設計は、あなたの手によるものですね」
「ええ」
「なぜ」
「頼まれたからです」
「誰に」
「フィルウ・ブランシャール。もう死にました。あなた方がご存じのとおり」
取調官が、ペンを止めた。
「バラット博士。あの論文は、現在、各国で検証が進んでいます。結論が出るまで、この件は──」
「結論なら出てるでしょう」
イーシャは、そう言った。
「出てるから、私を呼んだんでしょう。間違いだと思ってるなら、放っておけばいい」
沈黙が落ちた。
「ご家族のことも、お考えください」
「……」
「ご主人と、ヴィシュヌさん。ヴィシュヌさんは今年、大学三年でしたか」
その言葉に、イーシャは初めて目を上げ、取調官を見た。
「息子の名前を、あなたの口から出さないで」
声は静かだったが、取調官は思わず顔を背けた。
彼女は、解放されなかった。
代わりに、ある「契約」が提示された。
──あなたほどの工学者を遊ばせておくのは惜しい。表向きは招請されたことにする。家族は守る。その代わり、あなたが今後設計するのは、方舟ではない。
軍事兵器だ。
「……なぜ、兵器なんですか」
イーシャは聞いた。
「銀嵐に、撃ち返すためですか」
「いいえ」
相手は、あっさりと否定した。
「地上のためです」
イーシャは、ペンを置いた。
「もう、始まっています。博士。あの論文が出て、まだ十日です。三つの国で暴動が起きました。備蓄物資の買い占めが始まっています。ある国の政府は、非常事態宣言の草案を回覧しています」
彼は、書類をめくった。
「五十年後に人類が滅ぶかもしれない。そう聞かされた人間が、次に何をすると思いますか」
「……」
「奪い合いです。食料。水。燃料。軌道上の資源。そして、船の座席」
彼は、顔を上げた。
「銀嵐が来る前に、我々は、我々で殺し合います。そのときに必要なものを、あなたに作っていただきたい」
部屋が、静かになった。
イーシャは、しばらく黙っていた。
筋は通っている。忌々しいほど、通っている。九年前、フィルウとカリルが公表を避け続けた理由が、そのまま目の前に置かれていた。あの子たちが恐れていたものを、この国は、恐れた上で、そこに賭けている。
それから、彼女は言った。
「お断りします」
取調官の手が、止まった。
「……博士」
「二回言わせないで。断ります」
「立場をご理解いただけていないようですが」
「理解してるわよ。ここから出られないんでしょう。出さなければいいじゃない」
彼女は、椅子の背にもたれた。
「そのかわり、私は何も作らない。以上」
沈黙が落ちた。
やがて、彼女は、身を乗り出した。
「──と、言いたいところだけど」
テーブルに、両肘をついた。
「私、こう見えて、働くのが好きなのよ。専門を遊ばせておくのは、あなた方と同じくらい、私も嫌」
「では」
「条件を出すわ」
彼女は、指を三本立てた。
「ひとつ。私が設計するのは、地球に向かってくるものに向けた兵器だけ。地上の人間を撃つものは、一枚も引かない」
「それは──」
「二つ。完成しても、図面はあなた方に渡さない。私が管理する。運用が必要になったとき、必要な範囲だけ出す」
「博士、それでは意味が」
「三つ」
彼女は、遮った。
「方舟も、並行して引く。フィルウ・ブランシャールの観測も、私が引き継ぐ。設備と、計算資源と、時間を寄越しなさい」
「……全部、ですか」
「全部よ」
イーシャは、そう言った。
「兵器も、方舟も、観測も、全部やる。あの子の九年分も、私が継ぐ。できるかどうか聞かれたら、できるって答えるわ。私、それができる人間なの。この星に、たぶん、三人もいない」
「……」
「私の技術はね」
彼女は、まっすぐに相手を見た。
「人を救うためのものなの。二十五年、そのためだけに使ってきた。今さら、殺すほうには使わない」
取調官は、答えなかった。
彼が退室してから、二時間が経った。
戻ってきたとき、彼の後ろには、別の男が二人いた。より階級の高い人間だった。
彼らは、三十分かけて、彼女を説得しようとした。
彼女は、三十分、同じことを繰り返した。
最後に、いちばん階級の高い男が言った。
「──条件のうち、二つを飲みます」
「三つよ」
「二つです。図面の管理権は、渡せません」
「じゃあ、駄目ね」
「博士」
男は、そこで、ため息をついた。
「あなたにはご家族がいるでしょう。彼らまで、どうなってもいいんですか」
部屋の空気が、止まった。
イーシャは、動かなかった。表情も、変えなかった。
ただ、椅子を引いて、立ち上がった。
「……座ってください」
「私、今から、ここを出るわ」
彼女は、そう言った。
「止めても無駄よ。出て、二時間以内に、ある場所に着く。そこに何があるか、教えましょうか」
「博士」
「セオの軌道を逸らすとき、私が設計したものの、余りがあるの」
三人の男の顔から、余裕が消えた。
「あのとき、私たちは、必要量の三倍を用意した。一度きりで失敗が許されない仕事だったから。使ったのは、三分の一。残りは、廃棄された──ことに、なってる」
「……なっている、とは」
「書類上は、ね」
イーシャは、腕を組んだ。
「あれ、私が設計したのよ。処分の工程も、私が考えた。どこに何を紛れ込ませるかくらい、書ける立場にあったの。九年前から、ずっとよ」
「ブラフですね」
「そう思うなら、私を帰しなさい。二時間で答え合わせができるわ」
彼女は、一歩、前に出た。
「起爆させたら、どうなるかは、あなた方より私のほうが正確に見積もれる。だって、私が計算したんだもの。あれは、小惑星の軌道を数センチ動かすために作られたものよ。地上で炸裂させたら、どうなると思う?」
「……」
「五十年、待つ必要なんてないの。今日、私はこの星を終わらせられる」
誰も、答えなかった。
彼女は、いちばん階級の高い男を、まっすぐ見た。
「私はね、二十五年、人を救うためだけに技術を使ってきた」
イーシャは、そう言った。
「一度も、逆に使ったことがない。使い方を知らないから、じゃないわよ」
彼女は、テーブルの上で、指を組んだ。
「知ってるからよ」
「……博士」
「技術って、そういうもの。アレがもたらす被害も知ってる」
男の額に、汗が浮かんだ。
「私の家族に、二度と触れないで」
彼女は、そう言った。
声を張らなかった。むしろ、さっきより低かった。
「一度目は聞き流したわ。二度目は、こうなる。三度目はないから、覚えておいて」
「……」
「触れたら、私は、あなた方が守ろうとしているらしい五十年ぶんの何もかもを、今日、なかったことにする。技術者の脅しは、感情論じゃないの。見積もりよ」
長い沈黙があった。
やがて、階級の高い男が、隣の男に、何かを耳打ちした。二人は席を立ち、部屋を出ていった。
残された最初の取調官と、イーシャだけになった。
彼は、しばらく何も言わなかった。それから、小さな声で聞いた。
「……本当に、あるんですか」
「さあ」
イーシャは、少しだけ笑った。
「あったら困る?」
彼は、答えなかった。
三人が戻ってきたのは、四十分後だった。
「バラット博士」
「なに」
「図面の管理権について、上と協議しました」
男は、書類を置いた。
「結論から申し上げます。原案どおりは、通せません」
「じゃあ──」
「ただし」
彼は、遮った。
「代案があります。以前のセオの軌道修正計画の際と同じ手法です」
イーシャは、口を閉じた。
「設計図は、あなたが保管する。政府は、その所在と、あなたが保管しているという事実だけを記録する。閲覧は、あなたの同席のもとでのみ。製造は分散させ、各工場にはパーツの図面だけを渡す。完成図も、用途も、誰も知らない」
彼女は、その条件を、頭の中で三回組み立て直した。
実質、管理権は自分にある。同席が必要ということは、彼女が生きているかぎり、誰も勝手には見られない。九年前、あの三年間を回した仕組みが、そのまま持ち出されている。
あの方式を設計したのは、ほかでもない、自分だった。
「……よく考えたわね」
「あなたのやり方です」
「知ってるわ」
彼女は、書類を引き寄せた。
「ひとつ、抜けてる」
「なんでしょう」
「私が死んだあとの扱い」
部屋が、また静かになった。
「私が死んだら、あの図面は、私が指名した人間に渡る。そう書きなさい」
「それは──」
「書きなさい」
彼女は、そう言った。
「あなたたちは、私が邪魔になったら殺すでしょう。それはいいの。想定内よ。でも、殺したあとに図面が転がり込んでくると思わないで。そんな安い設計、するわけないでしょう」
男は、長いこと、彼女を見ていた。
それから、ペンを取って、条項をひとつ、書き足した。
「……指名者は」
「カリル・ラセール」
イーシャは、そう答えた。
あの馬鹿二人のうち、片方は死んだ。
もう片方が生きているという証拠は、どこにもない。
それでも、書ける名前は、ひとつしかなかった。
こうして、彼女は、契約書にサインをした。
三つのうち、二つは、そのまま通った。
残りの一つは、形を変えて、彼女の手に残った。
(フィルウ)
彼女は、心の中で呼びかけた。
(あなた、そこまでは予測してなかったでしょう)
(伝わったのよ。伝わって、それで、人間はこうなったの)
(──だから言ったじゃない。あなたは、人間の相手をするがめっぽう弱いのよ)
それから、もう一人の顔が浮かんだ。
カリル・ラセール。
あの映像のあと、彼女は何度も連絡を試みた。全部、届かなかった。研究センターは閉鎖され、彼の所在を知る者は、どこにもいなかった。
噂すら、立たなかった。
生きているのか、死んでいるのかさえ、誰も言わない。あれだけの男が、この十日で、世界から完全に消えていた。
(カリル。あなた、どこにいるの)
答えは、返らなかった。
(──いいわ。どうせ、あなたもやってるんでしょ)
彼女は、ペンを置いた。
(私も、やるから)
その日から、イーシャ・バラットの、二十年が始まった。
軍事施設の一室で、彼女は三つの図面を、同時に引き続けた。
地球外へ向けた迎撃装置。
方舟。
そして、フィルウが残した観測系の再構築。
睡眠は、削った。あの二人と同じ生き方を、四十代の半ばになってから始めることになった。自分でも笑ってしまった。
人類のため、という言葉だけは、使わなかった。
それは、自分に禁じた。
あの言葉は、九年前、あの三人が使い果たした。
かわりに、彼女は、こう考えることにした。
──ヴィシュヌの夢が、何なのか、まだ聞いていない。
──聞くまでは、この星をなくすわけにはいかない。
それでも、家を出るとき、息子に言った言葉だけは、取り消さなかった。




