第十一話 地下にて
最初の世界線の話を、先にしておく。
あの夜、ユール・ウォードは、地下五階の扉の前で、朝まで座っていた。
六時間後、地上の職員が彼女を見つけた。杖は、二メートル先に転がっていた。自力で取りに行けなかった、と彼女は説明した。それ以上のことは、報告書に書かなかった。
扉は、施錠されていた。
中に、人はいなかった。
装置は稼働した形跡があったが、ブースは空だった。生体反応も、遺体も、争った跡もない。ただ、上着が一着、床に落ちていた。左胸のポケットに、血で染まった紙が入っていた。
カリル・ラセールは、そこから先、二度と観測されなかった。
彼女は、それが何を意味するのかを、正確に理解できる、数少ない人間のひとりだった。
あの男は、別の世界線へ移った。
この世界線に、彼はもういない。
つまり、この世界には、フィルウ・ブランシャールも、カリル・ラセールも、いなくなった。
理論を出す人間と、それを数値に落とす人間。銀嵐と戦うために必要だった二本の柱が、九日のうちに、両方とも失われた。
四人で密かに進めていた計画は、その時点で、終わった。
残ったのは、彼女と、イーシャ・バラットだった。
ユールは、イーシャに連絡を取らなかった。
できなかったのではない。番号は知っていた。何度か、途中まで打ち込んだこともある。
伝えれば、あの人は動く。動けば、必ず捕まる。あの人には、夫と息子がいる。
それに──何を伝えればいいのか、わからなかった。
カリルが装置を使ったこと。彼が別の世界線に行ったこと。この世界の彼が、もう戻らないこと。
全部、証明できない。証明できないものを、あの合理的な工学者に伝えたところで、時間を奪うだけだ。
だから、彼女は、黙った。
それが正しかったのかどうかを、彼女は、四十年考え続けることになる。
彼女は、自分の戦線で、戦い続けた。
名簿は、まだ手元にあった。フィルウのモデルの最終版も、彼女が預かっていたバックアップに残っていた。それを持って、彼女は、あの一年半の続きをやった。
今度は、ひとりで。
技術的な質問に、彼女は答えられなかった。それが致命的だった。二時間の説明のうち、九十分は借り物で、残りの三十分だけが自分の言葉だった。それを、相手は見抜いた。
「ブランシャール博士に、直接うかがえませんか」
その質問を、彼女は、四年間で二百回以上聞いた。
五十歳で、特別顧問を解任された。
五十三歳で、機密漏洩の容疑がかかった。証拠不十分で不起訴になったが、以後、公的な場に呼ばれることは二度となかった。
六十歳で、私財を投じて小さな財団を作った。名目は、天体観測データの公開アーカイブ。実態は、フィルウの残したものを、少しずつ、誰にも気づかれない形で世界に配り続ける装置だった。
七十歳を過ぎても、彼女は続けた。
肺は、とっくに限界を超えていた。階段は、もう一段も上れなかった。それでも、椅子に座ってできる仕事は、いくらでもある。
八十一歳の冬、彼女は死んだ。
病室のベッドで、ひとりだった。
最後に見たのは、やはり、天井だった。
二〇八八年は、その七年後だった。
彼女は、それを見なかった。
見なかったが、来ることは、最後まで疑っていなかった。
死ぬ数日前、彼女は、財団の若い職員に、こう言ったという。
「ねえ。この星の最期って、たぶん、あんまり派手じゃないと思うのよ」
職員は、何のことかわからなかった。
「私たち、九年前に一度、それをやってるの。誰も知らないうちに、終わりかけて、誰も知らないうちに、救われた。あんな感じよ、きっと」
それから、彼女は、少し笑った。
「まあ、私はもう、見なくていいわ」
その言葉が、記録に残っている、彼女の最後の発言だった。
これが、一回目の世界線の、ユール・ウォードの一生である。
この世界のユール・ウォードは、そのどれも知らない。
九年前、「セオ」を逸らしたあの三年間の記憶は、彼女の中に、ちゃんとある。何度死んだか。何度カリルを撃ったか。最後に、全員で朝を迎えたことも。あのときは、彼女自身も、その中にいたからだ。
だが、今回は違った。
フィルウが死んでから、地下でカリルが装置が使うまでの、六十七回。
彼女は、そのどの回も、覚えていない。
一度目の彼女は、三日で飛んで、地下へ降りて、扉の前で朝まで座った。
二度目以降の彼女は、そもそも、フランスへ行っていない。
『またダメだった。またやってくる。』
決まって、その連絡が届いて。
決まって、行ってももう間に合わないと判断したからだった。
あの口論をしたのは、最初の一度きりだった。
彼女は、それを知らない。
銀嵐のことを、最後まで知らされない回もあった。時には自分の戦線で戦い、時には何が起きたのかもわからないまま、死んでいった。
彼女は、そのどれも、知らない。
この回の彼女は、あの映像を見た二日後に、フランスへ飛んだ。
弔いのためでもあった。それは、そうだ。
だが、飛行機の中で彼女が考えていたのは、そのことではなかった。
どうやって、あの男を叱るか。それだけだった。
到着したのは、深夜だった。研究センターの正門には、まだ中継車が残っていた。彼女は裏口から入り、地下まで降りて、そこで、床に座っている男を見つけた。
六年ぶりに見る顔だった。
「カリル」
「……ユール」
「立ちなさい」
「……」
「立って」
カリルは、立たなかった。
ユールは、杖をついたまま、彼の前まで歩いた。それから、その頬を、片手で張った。
乾いた音が、地下に響いた。
「なんで、私に言わなかったの」
彼女の声は、震えていた。
「あの子が公開するって決めたなら、なんで一言、寄越さなかったの。私が九年かけて作った名簿は何だったの。あなたたち、私を何だと思ってるの」
「……ごめん」
「謝らないで」
彼女は、そこで一度、咳き込んだ。
「叱ってるんじゃないの。私は、怒ってるのよ」
その夜、二人は、地下で朝まで話した。
カリルは、途中で二度、話せなくなった。ユールは、待った。急かさなかったし、慰めもしなかった。
夜明け前に、彼女は言った。
「博士。あの子のやり方はね、たぶん、正しかったのよ」
「……」
「私の方法だと、間に合わなかった。十いくつ集めるのに、あと十年かかった。あの子は、それを見抜いてたのね。だから、飛ばしたのよ」
「……うん」
「私の顔を立ててから死ぬ気なんて、最初からなかったんだわ、あの子」
彼女は、少しだけ笑った。
「腹立つわね」
責任追及は、三日後に始まった。
彼女とカリルが接触したことは、当然のように把握されていた。九年前の名簿の存在も、遅かれ早かれ割れる。
ユールは、それを見越して、先に自分から報告書を上げた。
内容は、こうだった。ブランシャール博士の公開は独断であり、ラセール博士は事後に知った。国家安全保障会議は、九年前から本件を把握しており、然るべき検証手続きを進めていた。今回の公開は、その手続きを逸脱したものである。よって、政府は、これを既存の枠組みの中で処理する。
半分は嘘だった。
もう半分は、彼女が九年かけて用意していた、本当の話だった。
「……顧問。これ、通しますか」
若い職員が、青ざめた顔で言った。
「通すわ」
「もし嘘だと割れたら」
「割れないわよ。だって、九年前から本当に把握してたもの。誰も見なかっただけで」
報告書は、通った。
世間は、三ヶ月で静かになった。
「検証中」という言葉は、便利な蓋だった。暴動は収束し、買い占めは落ち着き、非常事態宣言の草案は引き出しに戻された。
そして、蓋の下で、計画が動き始めた。
誰も表では言わない。予算項目には別の名前がつく。会議の議事録には残らない。
だが、動いていた。
「博士」
「うん」
「九年前、あなたたち、イーシャ博士に『次にやることは政治だって言われた』と言ってたわね」
「ああ。懐かしいね、それ」
ユールは、書類の山を押しやった。
「訂正するわ。次にやるのは、詐欺よ」
カリルは、笑った。
六年ぶりに、笑った気がした。
直しました。ユールの「勉強」の理由は、イーシャの説明を削って、彼女自身の目的(相手が誰かを見極める)に寄せています。そのぶん、二人のやり取りは軽口に集中させました。
そこからの三年が、彼らの、いちばん忙しい時期だった。
カリルは、フィルウのアカシア・プログラムの再構築に取りかかった。骨格しか復元できなかったが、骨格だけでも、各国の科学顧問団を黙らせるには足りた。
イーシャは、施設の中から、図面を出し続けた。表向きは兵器の設計だった。実際には、その部品のうち四割が、迎撃装置と共通していた。彼女は、二つの設計を、同じ図面に重ねて引いていた。
そして、ユールは──
勉強していた。
「……ねえ、イーシャ」
「なに」
「軌道力学って、四十三から始めて、間に合うと思う?」
深夜の通信で、ユールは、そう言った。画面の向こうのイーシャは、コーヒーを飲んでいた。
「無理ね」
「即答するのやめてくれない?」
「無理よ。あと二十年あっても無理」
イーシャは、そう言ってから、続けた。
「でも、あなた、なんでいきなり」
「相手が誰か、わからないの」
ユールは、机の上の教科書を、指で叩いた。
「五十年やるのよ、これ。私は途中で死ぬわ。次の人間に渡さないといけないのに、誰が本物か、私に判断できないの。九年前は、あなたたち三人に任せておけばよかった。今は、そうもいかない」
「……」
「一行も読めない人間が、後任を選ぶわけにいかないでしょう」
イーシャは、しばらく黙っていた。
「……そう」
それだけ言って、彼女はカップを置いた。
「じゃあ、しょうがないわね。教科書、私が選ぶわ。あなたが読んでるそれ、十年古いから」
「ちょっと」
「ページ数が四百切ってる時点で、疑いなさいよ」
しばらく、沈黙が流れる。お互い、手を動かしていた。
「ユール。あなた、あの子の交信記録、見た?」
「見たけど、開いて三秒で閉じたわ」
「賢明ね」
彼女は、髪をかき上げた。
「あの子が残したパルスの解析、なんかいい感じに進んでそうではあるのよ。でも、周期が、どこかで法則を変えてる」
「解けそう?」
「三ヶ月やって、一ミリも進んでないわ」
彼女は、そう言って、画面の外を見た。
「こーんな解析は専門外」
「……」
「あの子なら、たぶん、三日で入り口を見つけてたわ」
ユールは、答えなかった。
やがて、イーシャが、ため息をついた。
「フィルウが二十年かけてわかってなかったんだから、私たちには数百年かけてもわかんないわよ」
「まあ、それもそう」
ユールは、そう返した。
「あら、慰めないの」
「事実でしょう」
「そうだけど」
イーシャが、笑った。
「あなたのそういうところ、私、二十五年好きよ」
「気持ち悪いこと言わないで」
「本当のことじゃない」
「旦那さんに言いなさいよ」
「毎日言ってる」
二人は、しばらく黙った。
深夜のワシントンと、監視付きの軍事施設。回線は、当然のように傍受されている。だから、彼女たちは、当たり障りのない話しかしなかった。
「……ユール」
「なに」
「あなた、煙草やめたの?」
「やめたわよ。肺が、もう」
「そう」
「あなたは」
「政府に監禁されてるし、家じゃないから、もう思う存分吸ってるわよ」
「ずる」
また、沈黙。
「ねえ、ユール」
「なに」
「終わったら、一本だけ吸いましょうよ」
ユールは、画面を見た。
イーシャの顔は、疲れきっていた。たぶん、自分も同じ顔をしている。
「……いいわね」
「約束よ」
「ええ」
その約束は、果たされなかった。




