第十二話 最後の方舟
三年目に入って、状況が変わった。
変わったのは、彼女たちの側ではない。世界のほうだった。
フィルウが公開したデータは、あの十日で三百二十六箇所に複製された。各国は、それを回収して、自前の科学者に投げた。三年かけて、いくつかの国が、独自に検証を終えた。
結論は、同じだった。
到達は二〇八八年頃。規模も、性質も、フィルウの記述と矛盾しない。
どこも、公式には認めなかった。認めないまま、各国は、それぞれの計画に着手した。
そして、その時点で、イーシャ・バラットの価値が、変わった。
三年前、彼女は唯一無二だった。あの図面を引ける人間は、この星に三人しかいなかった。だから政府は、脅されても、条件を飲んだ。
三年後、他国が、それぞれの設計者を得ていた。
完璧ではない。彼女ほどではない。だが、「彼女しかいない」ではなくなった。
その差が、致命的だった。
イーシャは、その変化を、正確に把握していた。
届く資料の質が変わっていた。他国の進捗を示す断片が、以前より雑に扱われるようになった。会議に呼ばれる回数が減った。彼女の要求が、通らなくなった。
三年間、彼女は完全に管理下にあった。
施設の外に出たことは一度もない。家族との面会は、契約の時点で認められていない。手紙も、電話も、ない。夫と息子が今どこで何をしているのか、彼女は三年間、一度も知らされなかった。
外部との接触で許されていたのは、ただ一本だけだった。
国家安全保障会議特別顧問、ユール・ウォードとの、業務上の通信。
それだけが、彼女に残された、世界への窓だった。
彼女は、方舟の図面を、その頃から急いで書き始めた。
三年間、頭の中だけで組み立ててきたものだ。紙に起こせば、必ず見つかる。だから、起こさずにいた。
だが、時間のほうが、先になくなりそうだった。
彼女は、二ヶ月で、それを書き上げた。
記憶から紙へ、一行の余りもなく写し取った。三百四十七枚。最後の一枚を書き終えたのは、深夜の三時だった。
彼女は、それを封筒に入れ、契約書の条項に従って、施設の保管庫に登録した。
所在の記録は、政府に渡る。中身は、渡らない。
開けるのは、彼女の同席のもとだけ。彼女が死ねば、指名者に渡る。
三年前に、彼女がもぎ取った、たったひとつの条件だった。
登録の翌週。
イーシャ・バラットは、設計室で殺された。
当日、外部の技術監査が入っていた。名簿には四人。うち一人は、身分照会に該当する人物が存在しなかった。
彼は、彼女を殺したあと、保管庫を開けようとした。
三十分かかった。開かなかった。
三年前に、彼女自身が仕様を指定した扉だった。
こじ開けようとした痕跡が、扉の縁に残っている。工具の当たった跡が、七箇所。
警備が到着したとき、彼はまだ、そこにいた。
現行犯だった。
三日後、彼女の国は、それを公表した。
声明は、短かった。
自国の研究施設において、外国の情報機関に属すると見られる人物により、当国の科学者一名が殺害された。加害者の身柄は確保している。当国は、これを主権に対する攻撃と見なす。
国名は、伏せられた。
伏せることが、外交上の礼儀だったからではない。伏せたまま名指しできるだけの材料を、彼らが持っていたからだ。
声明のあと、その国は、動員の水準を一段階上げた。
各国は、そのニュースを、それぞれの角度から読んだ。
殺されたのが、誰か。
何を作っていたのか。
なぜ、その保管庫を開けようとしたのか。
答えは、三日で出回った。
この星に、五十年後を生き延びるための設計図があり、それを持っている国と、持っていない国がある。持っていない側の一つが、それを盗もうとして、失敗した。
三百四十七枚の紙が、その日から、国家資産として扱われるようになった。
市場が、先に反応した。
宇宙関連産業の銘柄が、二日で四割上がった。資源系がそれに続いた。保険会社が、複数の再保険契約の見直しを一斉に発表した。どの動きも、公式には「防衛関連需要の高まり」と説明された。
三ヶ月で静かになったはずの世界が、また、ざわつき始めた。
六年前、フィルウ・ブランシャールは、こう言った。
──伝えなければ、その未来はそのまま来る。
彼は、伝えた。
伝えた結果、来たのは、銀嵐ではなかった。
カリル・ラセールのもとに、その荷物が届いたのは、二週間後だった。
フランス南部の、海辺の小さな家。差出人は、インドの法律事務所。国際便で、通関の書類が異様に厚かった。
中身は、三百四十七枚の設計図だった。
同封されていたのは、事務的な一枚の書面だけだった。
──故イーシャ・バラット博士の生前の指名により、本書類の管理権が貴殿に移転しました。
カリルは、その一行を、三回読んだ。
それから、家の中を歩き回った。何をしていたのかは、自分でも覚えていない。気づいたら、電話の前に立っていた。
番号は、十二年前のものだった。繋がるとは思っていなかった。
繋がった。
『……はい』
男の声だった。イーシャの夫の声を、カリルはよく覚えていなかった。それでも、その人だとわかった。
「あの。カリル・ラセールと──」
そこで、通話が切れた。
切られた、というより、叩きつけられた音だった。
カリルは、受話器を持ったまま、しばらく動かなかった。
当然だった。
あの人にとって、自分は、妻を二度奪った男だ。
一度目は九年前、DAWNプロジェクトに引き入れたとき。二度目は六年前、フィルウの死のあと、彼女を巻き込み直したとき。
二度目のとき、彼女は「また、世界を救ってくる」と言って家を出たのだと、あとで聞いた。
誰から聞いたのかは、もう覚えていない。
三年、帰らなかった。
そして、遺体になって帰った。
名乗った時点で切られる。それが、この十二年の総決算だった。
カリルは、受話器を戻して、床に座り込んだ。
彼は、この回のイーシャを、助けに行かなかった。
彼女が三年目に殺されることを、彼は、六十七回のうちの多くの回で、すでに見ていた。時期も、方法も、回によって違った。だが、行き着く先は、いつも同じだった。
行けば、装置の存在を説明することになる。
説明すれば、彼女は必ず、こう言う。──それを、フィルウに使ったのね。
だから、行かなかった。
彼が救おうとしているのは、この世界の誰でもない。
そのことを、彼はもう、自分に隠していなかった。




