第十三話 沈黙
彼女は、報道で知ったのではない。
彼女の国では、その報道が、そもそも流れなかった。
あの国の声明は、国内では、ほとんど報じられなかった。触れたいくつかの媒体も、翌日には記事を差し替えた。名指しされていない以上、事実関係が不明であり、報道は慎重であるべきだ──という説明が、どこからともなく共有された。
彼女が最初に気づいたのは、通信が来なかったことだった。
毎月第二週の水曜、深夜。三年間、一度も欠けたことがない。回線は傍受されている。だから内容は当たり障りのない話ばかりだった。それでも、その時間だけは、必ず繋がった。
その週、繋がらなかった。
ユールは、二時間、画面の前に座っていた。
施設側の都合だろう、と自分に言い聞かせた。あの女のことだ。図面に没頭して、時間を忘れているだけかもしれない。三年前まで、そういうことは何度もあった。
翌週も、繋がらなかった。
三週目に、彼女は、担当窓口に照会をかけた。
回答は、二日後に来た。
──当該人物の状況について、現在お答えできる情報はありません。
その一文を、彼女は三回読んだ。
「情報がありません」ではない。「お答えできる情報はありません」だ。
二十年、この種の文章を書いてきた人間には、その差がわかる。
ある。あるが、言わない。
言わない、と決めた人間が、上にいる。
ユールは、端末を閉じた。
それから、しばらく、机の上の教科書を見ていた。四十三から始めて、三年やった軌道力学の教科書だ。イーシャが選んだものだった。あなたが読んでるそれ、二十年古いから、と言われて、送りつけられた。
その表紙に、指を置いた。
──ああ。
彼女は、そこで、理解した。
悲しみではなかった。
最初に来たのは、業務上の判断だった。
あの女が死んだなら、次は私だ。
それまでに、やることを決めなければならない。
彼女は、調べ始めた。
二日で、あの国の政府の声明の原文に辿り着いた。国営通信のアーカイブから、直接。国名は伏せられていたが、伏せ方に癖があった。二十年、この手の文書を読んできた人間なら、どこを伏せたかで、何を持っているかがわかる。
彼らは、持っている。
持っていて、出さずにいる。出せば戦争になるから、ではない。出すタイミングを選んでいるからだ。
三日目に、殺害された科学者の氏名が非公表であることを確認した。
非公表であることを、彼女は逆に手がかりにした。名前を出せない理由がある人物は、限られている。
四日目に、判明した。
その作戦を主導したのは、彼女の国だった。
承認は、三つの部署を経由していた。そのうち二つは、彼女が過去に所属していた系統だった。書式に見覚えがあった。項目の並び順に、彼女が二十年前に整えた雛形の名残があった。
彼女は、そこで、次の問いに移った。
──どうやって、彼らはイーシャの居場所と、保管庫の位置を知ったのか。
イーシャ・バラットの身柄は、完全にあの国の管理下にあった。所在は秘匿されていた。家族との面会も、手紙も、電話も、三年間、一切なかった。外部との接触は、遮断されていた。
例外は、ひとつだけだった。
自分との、月一回の通信だ。
五日目の夜、彼女は、自宅を調べた。
寝室の火災報知器の中に、ひとつあった。
リビングの電源タップに、ひとつ。
玄関の郵便受けの裏に、ひとつ。
書斎の、彼女が教科書を広げていた机の、天板の裏に、ひとつ。
いちばん古いものは、六年前に設置されていた。
フィルウが死んだ年だ。
ユールは、床に座り込んだ。
六年前、彼女は、この国に嘘の報告書を上げた。
カリルを守るために。あの子の公開を、既存の枠組みの中に押し込めるために。
通した。世間は静かになった。計画は、水面下で動き始めた。
あのとき彼女は、自分が勝ったと思った。
その日から、この部屋は、聞かれていた。
三年間、彼女はここで、イーシャと話した。設計の進捗を。図面の枚数を。三百四十七という数字を、たぶん、口に出した。保管庫の話も、どこかで一度はした。位置を言った覚えはない。だが、三年分の断片を繋げば、足りる。
繋げたのは、自分の国だった。
繋がる材料を渡したのは、自分だった。
彼女は、その夜、一睡もしなかった。
考えていたのは、ひとつだけだった。
──なぜ、殺す必要があったのか。
イーシャ・バラットは、二十五年、人を救うための技術だけを作ってきた。三年前、脅されて、それでも兵器を断った。地上の人間に向ける武器は、一枚も引かなかった。引いたのは、地球外へ向けた迎撃装置と、避難船だけだ。
彼女がやっていたのは、平和のための仕事だった。
拘束されて、家族と引き離されて、三年間、部屋から出ることも許されず、それでも、彼女は引き続けた。何のために引いているのかを、一度も見失わなかった。
それを、殺す。
彼女が唯一無二でなくなった、その瞬間に。
ユールは、天井を見上げた。
結局、九年前と同じだった。
あのときも、この国は、情報を統制した。四人を監視下に置いた。地球が救われたあと、彼らから研究の権限を全部取り上げた。
あのとき彼女は、それを職務として実行した側だった。
書けないものを、書けるように整えるのが、彼女の仕事だった。
そして今、同じ手つきで、彼女の同僚が処理された。
彼女は、自国の政府に対する信頼を、その夜、完全に失った。
失ってから気づいたのは、二十年前から、たいして持っていなかった、ということだった。
ただ、それでも、と思っていたのだ。
地球を救うという話になれば、この国は動く。九年前は、動いた。統制も、監視も、そのための必要経費だと、彼女は自分に説明してきた。
その説明が、この夜、成り立たなくなった。
彼女は、盗聴器を、外さなかった。
外せば、気づいたことが伝わる。伝われば、次は自分だ。
まだ、やることがある。
だから、彼女は、それらの前で、いつもどおりに暮らした。着替え、咳き込み、教科書を開き、独り言を言い、そして、考えた。
カリルに、連絡を取るべきかを。
二日、考えた。
公衆電話。国外の中継。使い捨ての端末。手段は、いくつも思いついた。若い頃なら、迷わず動いていた。あの三年間、彼女はそういう仕事で食べていた。
だが、彼女は、自分の脚を見た。
それから、部屋の四箇所を、順番に見た。
六年、気づかなかったのだ。
二十年この仕事をしてきた自分が、自分の寝室で、六年。
どこに目があるかわからない、ということは、どこにでもある、ということだ。
彼女が動けば、辿られる。
辿られれば、カリル・ラセールに繋がる。
あの男は、この世界で、最後に残った一人だった。
あの子の理論を継げる人間も、セオを逸らした技術を知っている人間も、もう、彼しかいない。
ユールは、その夜、決めた。
連絡は、取らない。
自分が最も嫌ったやり方を、最後に、自分がやることになる。
誰にも言わず、一人で抱える。
九年前、あの研究室で、それをやった男を、彼女はどれだけ憎んだか。
(……博士)
彼女は、天井に向かって、心の中で言った。
(あなたの気持ちが、ちょっとだけ、わかったわ)
(言わないけどね。絶対に)
彼女が、その二週間で組み立てた計画は、こうだった。
銀嵐は、来る。それは確定している。
だが、そこに至る前に、人類が自分たちで壊れる。それも、もう始まっている。
三年前、あの取調室で、誰かがイーシャに言った言葉を、彼女は報告書で読んでいた。
──奪い合いです。食料。水。燃料。軌道上の資源。そして、船の座席。
あの見立ては、正しかった。
正しかったのに、彼らは、それを止めるためではなく、それに勝つために動いた。
止められない、と彼女は判断した。
ならば、方向だけでも、決める。
彼女は、自国を、悪役にすることにした。
イーシャ・バラット暗殺の全経緯。作戦の承認系統。関与した部署。六年前の監視の開始時期と、その根拠となった彼女自身の虚偽報告。
そのすべてを、自分の名前で、外に出す。
ひとつの大国が、他国の科学者を、避難船の設計図のために暗殺した。
その一文が、世界に共有されれば、憎悪の先は、ひとつに集まる。
資源の奪い合いで、全方位が全方位を撃つよりは、はるかにましだ。
悪が一つあれば、残りは団結できる。
団結した先に、何かが残る可能性は、ゼロではない。
ゼロと一の間には、無限がある。
誰かが、そんなことを言っていた気がした。
自分は、当然、粛清される。
それは、計算に入っている。むしろ、粛清されたほうが、資料の真実性が上がる。
これが、彼女にできる、最後の仕事だった。
二十年、彼女の職務は、書けないものを書けるように整えることだった。
最後の一度だけ、逆をやる。
準備に、二週間かけた。
資料は、四つに分けた。それぞれ別の経路に置いた。時間差で表に出るように仕込み、どれか一つでも残れば成立するように組んだ。
九年前に作った名簿は、そのためにも使える形をしていた。作ったときは、そんなつもりはなかった。
最後に、彼女は、自宅の四箇所を、順番に見て回った。
六年間、聞かれていた場所だ。
外さなかった。
ただ、その前で、一度だけ、独り言を言った。
「──ねえ。聞いてるんでしょう」
答えは、当然、返らない。
「あなたたちに、ひとつだけ伝えておくわ。私、二十年、この国のために働いたの」
彼女は、杖をついて、寝室を出ながら言った。
「今日から、ちょっと違うことをするけど。理由は、たぶん、あなたたちが一番よくわかってると思うわ」
翌々日、ユール・ウォードは、安全保障会議の場で拘束された。
資料の一つ目は、その二日前に、外に出ていた。
当初の容疑は、機密指定文書の不正な取得および保管だった。
彼女の職位であれば、閲覧権限の範囲を争う余地がある。弁護士がつけば、数年かかる案件だ。
三日後、容疑が差し替えられた。
国家防衛情報の不正な開示。
外国勢力への通報の未遂。
これらの共謀。
最初の資料と、彼女の署名の照合が終わったからだった。
起訴は、されなかった。
起訴すれば、公判で資料の中身に触れなければならない。それができないことを、双方が理解していた。
彼女は、司法手続きの対象ではなく、保安上の身柄拘束の対象として、施設に移された。
弁護士は、最後までつかなかった。
彼女は、留置所の壁に背中を預けて、ぼんやり天井を見上げていた。
夫を奪われた日も、テロで瓦礫の下に埋まった日も、こんなふうに天井を見ていた気がする。
自分は、ろくな天井しか見ていない人生だな、と、彼女は珍しく自嘲的に笑った。
それから、目を閉じた。
地球は、まだある。
少なくとも、それだけは、あの三年間の仕事の結果だ。
やれることは、全部やった。
九年かけて名簿を作った。一年半、あの二人を走らせた。あの子が死んでからも、六年、訴え続けた。最後の二週間で、自分の国を売る用意をした。
届かなかったけれど、やらなかった日は、一日もなかった。
(イーシャ)
彼女は、心の中で呼びかけた。
(煙草、結局、吸えなかったわね)
(先に行ってるなら、一本、用意しておいて)
(私、あなたの銘柄、知らないのよ。二十五年、隣で吸ってたのに)
それから、もう一人の顔が浮かんだ。
(博士)
(会ったら、伝えたいことがあったんだけど)
(まあ、いいわ)
(どうせ、許してないし)
冷たい床の感触が、なぜか、あまり不快ではなかった。
彼女がこの床で目を閉じるのは、六十七回目だった。
そのことを、彼女は、知らない。
二十日後。
資料の二つ目が、外に出た。
その日の夜、ユール・ウォード死亡の一報が、施設から発表された。
発表は、二行だった。
拘束中の被疑者一名が、施設内で死亡した。持病の悪化によるものと見られる。
それだけだった。
彼女に持病があったのは、事実だ。爆破テロの後遺症で、肺は階段ひとつで悲鳴をあげた。四十五歳の女が、拘束の二十日で死んだとしても、説明はつく。
つくように、選ばれた説明だった。
誰も、続報を求めなかった。
求めた記者が、いなかったわけではない。載らなかっただけだ。




