最終話 残された一人
資料は、彼女が仕込んだ経路で、外に出た。
全部ではない。三割ほどだった。
それでも、足りた。
カリルがそれを見たのは、海辺の家の、古い端末だった。
一つ目の記事は、南米の小さな独立系メディアが出したものだった。二日で、十七の言語に翻訳された。三日目には、大手が追随した。
ひとつの大国が、避難船の設計図を得るために、他国の科学者を暗殺した。
その記事の中に、二つの名前があった。
イーシャ・バラット。
ユール・ウォード。
カリルは、画面の前で、動かなくなった。
イーシャが死んだことは、知っていた。二ヶ月前、法律事務所から届いた三百四十七枚と、事務的な一枚の書面で。
死因は、心疾患による急死、とだけ書かれていた。
違った。
殺されたのだ。設計室で。彼女が図面を保管庫に登録した、その翌週に。
殺した人間は、そのあと保管庫をこじ開けようとして、失敗して、その場で捕まった。
三年前、彼女が交渉でもぎ取った、たったひとつの条件。
あれが、彼女の死後、機能していた。
(……イーシャ博士)
彼は、心の中で呼びかけた。
(あなた、勝ってたんだね)
(僕が、何もしないうちに)
そして、もう一つの名前。
資料の提供者として、ユール・ウォードの名前が、明記されていた。
カリルは、その一行を、何度も読み返した。
国家防衛情報の不正な開示。外国勢力への通報の未遂。それらの共謀。
拘束から二十日後、施設内で死亡。持病の悪化によるものと見られる。
(ユール君)
彼は、画面に向かって、心の中で言った。
(君、これ、違うんでしょ。君は、まだあんなに元気だったじゃない)
(……無茶、しすぎなんだよ。そういうところ、本当に、君は)
言葉が、続かなかった。
記事には、彼女が残した資料の一部が、そのまま掲載されていた。
承認系統。関与した部署。作戦の日付。そして、六年前に監視が開始された記録と、その根拠となった一通の報告書。
その報告書を書いたのは、ユール・ウォード本人だった。
六年前、フィルウが公開した直後。彼女は、自分の国に、嘘の報告書を上げている。
──本件はブランシャール博士の独断であり、ラセール博士は事後に知った。
カリルは、その一行の前で、息が止まった。
六年前、彼女は、自分を庇っていた。
覚えていない。
いや、覚えていないはずがない。この回の自分は、あの三年間、彼女と一緒に走っていた。深夜に何度も通信をつないだ。ミュンヘンの面会を組み直したのも、彼女だった。
だが、この一文のことは、聞いていない。
彼女は、報告書のことを、一度も言わなかった。
言えば、自分が礼を言う。礼を言われるのが、あの人はいちばん嫌いだった。
そして、その報告書が、監視の入り口になった。
監視が、三年かけて、イーシャに繋がった。
彼女は、それを、途中で気づいたはずだ。
気づいたうえで、自分には、何も言わなかった。
連絡が来なかったのだ。
最後の二ヶ月、あの人からは、一度も。
(……そっか)
カリルは、椅子の背に、体を預けた。
(君に、守られたのか)
彼は、家の中を歩き回った。
何をしていたのかは、覚えていない。気づいたら、書斎の棚の前に立っていた。
いちばん下の段に、封筒が一つある。
中に、写真が入っている。
九年前、セオを逸らした翌週に、研究センターの中庭で撮ったものだった。
撮ったのは、広報の職員だ。「せっかくだから記念に」と言われて、四人が渋々並んだ。フィルウは写真が嫌いで、直前まで逃げようとしていた。イーシャが襟首を掴んで引き戻した。ユールは、そもそも記録に残ることを嫌がって、最初は写らないつもりでいた。
結局、四人で写っている。
カリルは、それを取り出した。
自分がいちばん左。その隣にフィルウ。白銀の髪が、逆光で飛んでいる。彼は、カメラではなく、少し下を見ている。
イーシャは、真ん中で腕を組んでいた。この人は、いつも写真の真ん中に立つ。二十五年、そうだった。
ユールは、いちばん右の端で、半歩下がったところに立っていた。杖は写り込まないように、体の陰に隠している。
背景に、ソメイヨシノがある。彼が日本から取り寄せて植えた木だ。
あの年は、桜の写り込みが少し早かった。
カリルは、その写真を、机の上に置いた。
四人のうち、三人が死んだ。
フィルウが三十五歳で。
イーシャが四十五歳で。
ユールが四十六歳で。
残ったのは、いちばん左の男だけだった。
(……もう一度、やり直したいなあ)
彼は、写真の中の二人に、心の中で言った。
(本当に、ごめん)
(救ってあげられなくて)
彼は、あることに気づいていた。
どの世界線でも、銀嵐への対策は、必ず、この四人から始まっていた。
誰かが引き継いでくれた回はない。他の誰かが独立に見つけた回も、なかった。フィルウが計算し、自分が理論を出し、イーシャが図面を引き、ユールが道を通す。始まり方はいつも同じで、それ以外の始まり方が、一度もなかった。
人類は、諦めが悪い。
だが、諦めが悪くなるためには、まず、知らなければならない。
知らせたのは、いつも、自分たちだった。
彼はフィルウが死んですぐ、世界を出ていた。
残された二人が、そのあとどうしたのかを、彼は知らない。
だが、たぶん、同じだったのだろう。
彼がいなくても、あの二人は、動く。動けば、必ず、こうなる。
そして、そこから先も、いつも同じだった。
フィルウが死ぬ。
イーシャが、それを引き継いで、殺される。
ユールが、それを追いかけて、殺される。
順番が入れ替わった回はある。死に方も、時期も違った。だが、行き着く先は、いつも同じだった。
彼女たちは、巻き込まれたのではない。
自分の足で、そこまで歩いた。歩けるだけの理由を、こちらが渡したからだ。
──いつも同じだった、というのは、嘘だ。
彼は、最後まで見届けていない。
たいていの回で、フィルウが死んだ時点か、そのすぐあとに、次へ移った。二人がどう死んだのかを、彼は、ほとんど観測していない。
わからないことを、わかったように言うのは、いちばんやってはいけないことだと、あの子が話たことがある。
それでも、彼はそう考える。
そのほうが、楽だからだ。
この世界は、あの三人が生き続けられるようには、できていなかった。
少なくとも、彼が観測した範囲では。
範囲の外に何があったのかは、もう、確かめようがない。
六十八回目は、ない。
押せる装置が、もう、なかった。
彼は、写真を裏返した。
裏に、日付と、四人の名前が、フィルウの字で書かれている。彼はそういう几帳面なことを、必ずやる人間だった。
その下に、一行だけ、走り書きがある。
『次は五十年後、同じ場所で』
カリルは、その一行を、長いこと見ていた。
九年前の、あの子の冗談だ。書いたとき、本人は、たぶん何も考えていない。
考えていたら、こんなことは、書かない。
彼は、写真を、元の封筒に戻した。
戻してから、しばらく、その封筒を手に持っていた。
彼は、家の外に出た。
地中海は、おそろしく静かだった。
あの朝、四人でコーヒーを飲んだ研究室の窓から見えた光と、同じ陽射しが、波の上で踊っていた。
彼は、波打ち際まで歩いて、しゃがみこんだ。
濡れた砂の上に、指で、小さな式を書いた。フィルウが十一歳のときに、カリルの理論を完璧に証明してみせた、あの最初の式。
波が来て、それを消した。
「フィルウ君」
カリルは、誰もいない海に向かって、語りかけた。
「僕さ、たぶん、間に合わないよ」
彼は、ふっと笑った。
「僕だけじゃ戦えないんだ。君と、イーシャ博士、そして、ユールがいないと。僕はね、夢しか描けないんだよ。昔から」
「理論は出せる。こうなるはずだ、っていう絵は描ける。でも、それだけ」
「君が数字にしてくれて、イーシャ博士が形にしてくれて、ユールが道を通してくれて、やっと、現実になるんだ」
波が、足首まで来た。
彼は、退かなかった。
「ねえ、フィルウ君」
次の波が、膝まで来た。
「このまま歩いていったらさ、どうなると思う」
水は、思ったより温かった。夏の終わりの地中海は、そういうものだ。
「僕、泳げないんだよ。知ってたっけ」
もう一歩、進んだ。
「あと十メートルくらい行くと、たぶん、足がつかなくなる」
服が、水を吸って重くなっていた。
「そしたらさ、君に会えるかな」
彼は、そこで、立ち止まった。
「イーシャ博士にも、ユール君にも、会えるかな」
海は、静かだった。
「……そう思ってる時点で、僕はもう、駄目だね」
彼は、自分の手を見た。
濡れた指先が、少し震えていた。
「僕さ、六十七回やったんだよ」
波が、腰まで来た。
「六十七回、君を助けに行った。君を救うための旅だって、そう思ってた。ずっとそう言ってた」
「でも、違うんだよね」
「僕は、六十七回、失敗しただけだった」
彼は、目を閉じた。
「君の最期を、何回、途中で切ったと思う?」
声が、少し掠れた。
「君が息を引き取る前に、装置に向かった回が、何回もあった。まだ君が呼吸してるのに、僕は、階段を降りてたんだ」
「イーシャ博士のときも、ユール君のときも、そう」
「行かなかった。見なかった。全部、次でやり直せると思ってたから」
「──目を、背けたんだよ」
彼は、そう言った。
「六十七回、君たちの最期から、目を背けた」
波が、また来た。
「みんな、頑張ってたのに」
彼の声が、初めて、揺れた。
「あの人たち、自分の足で歩いたんだよ。誰にも褒められないのに、最後まで」
「それを、僕は、毎回、書き換えた」
「積み上げたものを、ぜんぶ、なかったことにして、また最初から」
「六十七回」
「……何回、あの人たちの人生を、消したんだろうね」
彼は、そこで、少し笑った。
笑い方が、うまくいっていなかった。
「セオのときと、同じだ」
「僕、何も学ばなかったって、ユールに言われたよ」
「あの人、正しかったな。いつも正しいんだよ、あの人は」
海は、答えなかった。
彼は、しばらく、そこに立っていた。
あと数歩で、足がつかなくなる。
それは、計算するまでもなかった。
やがて、彼は、口を開いた。
「……でもさ、フィルウ君」
彼は、顔を上げた。
「君が、あの日、僕の論文を読んで、四十七個の天体で僕の理論を証明してくれた、あの瞬間──あれが本当だったってことだけは、銀嵐が来ても消せないんだよ」
「君が、僕を一人ぼっちじゃなくしてくれたっていう事実は、宇宙ごと壊れたって、消えないんだ」
彼は、そこで、少しだけ笑った。
「あれだけは、何回巻き戻しても、毎回、ちゃんと、そこにあった」
「六十七回、全部、あった」
「──だから、まだ、駄目だ」
彼は、そう言った。
「君に会いに行くのは、まだ、駄目だ」
「僕、まだ、君たちが遺した世界の最期を、一回も、ちゃんと観てないんだよ」
波が、引いた。
彼は、一歩、後ろに下がった。
「観てないんだ。一回も」
もう一歩。
「五十年後がどうなるかも、それまでに何が起きるかも、僕が見られる範囲は、全部、観る」
もう一歩。
「──それが、僕にできる、最後の観測だから」
彼は、砂の上まで戻った。
服から、水が滴っていた。靴の中も、砂と海水でいっぱいだった。
ひどく、みっともない格好だった。
「……ごめんね、フィルウ君」
彼は、そう言った。
「もうちょっとだけ、待ってて」
彼は、立ち上がった。
地中海の上を、白い鳥が、ゆっくりと、ひとつ、飛んでいった。
その軌道は、観測すれば、たぶん何の特別なずれもない、ただの普通の鳥の飛ぶ線だった。
それでも、カリルは、しばらくその鳥を、目で追いかけた。
夕方の光が、海面を、星のように細かく輝かせていた。
地球が、まだ滅びていない、四十六回目の夏のことだった。




