第七話 二重の封印
その夜のニュースは、短かった。
フランス人研究者が、防災関連の公開講演中に銃撃され、死亡。犯人は逃走。動機は不明。
三行の経歴がついていた。数学オリンピックの最年少金メダル。災害予測モデルの開発者。九年前に発表された論文の共著者。
「銀嵐」という語は、どこにも出なかった。
カリルは、その夜、ホテルの部屋に戻された。
「戻された」というのが、正しい。警察の聴取が終わったのは午前一時を過ぎていて、彼は自分がどうやって部屋まで帰ったのかを覚えていなかった。上着は、証拠品として押収されていた。
部屋には、荷物がそのまま残っていた。
二人分の。
窓際のデスクに、明日の資料の控えが置いてある。フィルウが昨夜のうちに印刷しておいたものだ。付箋は三色。想定質問と、その回答と、断られた場合の次の一手。
鞄のほうは、二度と見つからなかった。
カリルは、ベッドの端に腰かけたまま、朝まで動かなかった。
明かりは、つけなかった。
つけたら、この部屋にもう一人分の荷物があることが、見えてしまうからだ。
電話が鳴り始めたのは、空が白みかけた頃だった。
彼は、出なかった。
三度目で止まり、十分後にまた鳴った。四度目。五度目。六度目。
七度目で、彼はようやく手を伸ばした。
『博士』
ユール・ウォードの声だった。
『生きてる?』
「……うん」
『よかった』
それきり、しばらく、どちらも黙った。
回線の向こうで、彼女が息を吸う音がした。深く吸えていない。あの後遺症の吸い方だ、とカリルはぼんやり思った。
『観てたわ』
「……そう」
『最後まで』
カリルは、答えなかった。
『博士。今日、行きなさい』
「……」
『ミュンヘン。九時からでしょう。まだ、間に合う』
「向こうは、断ってくるよ」
『断らせなさい。断られたって、行ったという記録が残る。それが要るの』
彼女の声は、事務的だった。
事務的すぎて、カリルは、ようやく少し、息が吸えた。
「ユール」
『なに』
「僕は」
言葉が、続かなかった。
『博士』
「……」
『今、何も言わなくていいわ』
彼女は、そう言った。
『こっちで動く。三日以内に、そっちに行く』
「え」
『フランスに。会って話すことがある』
「君、立場が」
『あるわよ。だから急ぐの』
通話が切れる直前、彼女が付け加えた。
『博士。ひとつだけ』
「……なに」
『変なこと、しないで』
カリルは、その日、ミュンヘンには行かなかった。
九時を三十分過ぎた頃、先方から丁重な連絡が入った。事情は承知しており、心よりお悔やみを申し上げる、面会は改めて日程を調整させていただきたい。
その「改めて」は、来なかった。
残りの二件も、翌週までに、同じ形で消えた。
一年半で積み上げた三件が、五日で、ゼロになった。
葬儀に、カリルは出席しなかった。
教会の前まで行って、入れずに引き返した、という話が、あとになって関係者の間に流れた。誰も確かめなかった。
研究室にひとり残された夜、カリルはフィルウのデスクの前に座っていた。マグカップが二つ、冷たいまま残っている。フィルウが十一歳の時から作り続けていたアカシア・プログラムは、当然のように停止していた。何かを表示しようとして、最後にエラーログを残したまま、画面は真っ暗になっていた。
「……フィルウ君」
誰にも返事をされない名前を、カリルは小さく口に出した。
「君ね」
「君がいないと、コーヒー、誰が淹れてくれるの」
「君がいないと──」
言葉が、続かなかった。
カリルは、声を上げて泣くということを、長い人生の中で数えるほどしか経験していない。今夜は、その数少ない夜のうちの一つになった。
机の引き出しに、あの手紙が入っている。
フィルウの胸ポケットから出てきた、二つ折りの紙。返却された遺品の中に混じっていた。血を吸って、もう、ほとんど茶色い塊のようになっていた。
開けば、たぶん、読める。
彼の筆跡は丁寧だ。血に滲んでも、たぶん、読める。
カリルは、それを引き出しに入れて、閉めた。
開いてしまったら、あれは遺書になる。
開かないかぎり、あれはまだ、彼が渡しそこねた手紙のままでいられる。
三日後の夜。
カリルは、地下へ降りた。
装置室の扉には、二重の封印がある。
紙には、五人分の署名。カリル・ラセール。フィルウ・ブランシャール。イーシャ・バラット。ユール・ウォード。アダン・シャルル。
余白に、フィルウの字で、三行が書き添えられている。
二度と、動かさない。
誰も、これを使わない。
次に何が来ようと、前を向いたまま解く。
カリルは、その字を、しばらく見ていた。
それから、封印に指をかけた。
「やめなさい」
背後から、声がした。
振り返ると、階段の下に、ユール・ウォードが立っていた。
杖をついている。地上からここまで、階段で降りてきたのだ。呼吸が、ひどく浅かった。
「……君」
「三日以内に行くって、言ったでしょう」
彼女は、壁に片手をついたまま、荒い息の合間に言った。
「入館記録、見せてもらったわ。あなた、二日前から地下に降りっぱなし。何をしてるかなんて、考えるまでもない」
カリルは、封印から手を離さなかった。
「ユール」
「なに」
「今度は、誰も巻き込まないよ」
彼女は、一歩、前に出た。
「……やっぱり。私はそれを止めるために飛んできたの」
「君は」
カリルは、彼女を見た。
「君は、止める側じゃないだろう」
「どういう意味」
「今度は君の旦那さんも、助けられるかもしれない」
ユールの表情が、動かなかった。
「──それ、私に言う言葉?」
声が、低くなった。
「十六年よ」
彼女は、壁から手を離した。杖だけで、立っていた。
「私は、あの人が死んでから、十六年、あなたを許さないと決めて生きてきた。その十六年ぜんぶを、あなたは今、なかったことにできるって言ってるの」
「そうだよ」
カリルは、答えた。
「なかったことに、できる」
「──それを、地獄って言うのよ」
彼女は、階段を、もう一段降りた。
「私の十六年が消えるの。私が知らないうちに。私が同意もしないうちに。あなたが一人で決めて、私の人生が、勝手に別のものに書き換えられる」
「彼が生き返るんだよ」
「誰が」
「──君の、旦那さんが」
「フィルウでしょう」
沈黙が落ちた。
カリルは、答えなかった。
「私の夫を出しに使わないで」
ユールは、そう言った。
「あなたが今、あれに手をかけてるのは、私の夫のためでも、地球のためでもない。あの子のためよ。それはいいの。責めてない」
彼女は、そこで一度、息を継いだ。
「でも、装置を使わないで」
カリルの指が、封印の端で、止まった。
「あなた、九年前に、あそこに名前を書いたわよね」
「……」
「五人で書いたの。あの子は、あなたが一番先に破ると思ったから、二重にしましょうって言った」
ユールは、階段を降りきった。
彼女は、封印の前まで来て、そこに書かれたフィルウの字を、一度だけ見た。
「私は、あの子のことを最後までわからなかった。研究の話は一行も理解できなかった。でも、この三行は読めるわ」
彼女は、カリルを見た。
「読みなさいよ」
「──読んでるよ」
カリルの声が、割れた。
「読んでるに決まってるでしょ」
彼は、封印に指をかけたまま、額を扉に押し当てた。
「読んでるよ。九年前から、毎月、ここに降りて、読んでるんだ。最近は毎日、ずっと読んでる」
どれくらい、そうしていたか、わからない。
カリルは、封印から手を離した。
離してから、その場に座り込んだ。地下の床は、冷たかった。
ユールは、何も言わなかった。慰めもしなかった。ただ、杖をついたまま、彼が立ち上がるまで、そこに立っていた。
彼女が言ったのは、一言だけだった。
「──階段、手を貸して。ここ、上れないの」
カリルは、扉に額を当てたまま、動かなかった。
長い沈黙があった。
やがて、彼は、顔を上げた。
「ユール」
「なに」
「君の言うこと、全部、正しいよ」
彼は、そう言った。
いつもの、穏やかな声だった。
「君の十六年も、イーシャの家族も、アダン君のことも、あの子が書いた三行も。全部、正しい。反論できるところが、ひとつもない」
「じゃあ」
「うん。だからね」
カリルは、封印に、両手をかけた。
「聞かなかったことに、する」
「──博士」
「ごめんね」
紙が、裂けた。
乾いた音だった。九年前に貼られた封印は、思ったよりずっと簡単に破れた。二枚目も、同じだった。
「やめなさい!」
ユールが、杖を投げ捨てて、彼の腕に掴みかかった。
彼女は、走れない。階段も上れない。それでも、その手には、驚くほど力があった。上着の袖を両手で掴んで、体重ごと、後ろに引いた。
カリルは、振り払わなかった。
振り払わずに、そのまま、扉の取っ手に手をかけた。
「あなた──!」
「ユール」
彼は、彼女の手を、そっと外した。
外し方が、ひどく丁寧だった。
「君は、僕を殺しに来る権利があった」
「……」
「十六年ぶん、あったんだよ。でも君は、そうしなかった。地球のほうを優先した。あの子の予測を、信じてくれた。──君は、僕なんかより、ずっと、まっとうだった」
「そういうことを言って、逃げるな」
「うん、逃げてる。でも、事実でしょ」
「──ふざけるな」
ユールの声が、地下に響いた。
「今殺してもいいのよ……でも、そうしないって、この約束をした時に決めたの!!」
彼女は、床に落ちた杖を拾わないまま、壁に手をついて立っていた。
「知っているでしょう? もう、何度もあなたなんて殺してるのよ」
カリルは、動かなかった。
「銃で撃った。頭も、首も、胸も、足も、何度も、何箇所も、どこが一番痛いか、どこが一番楽に死ねるか、わかるでしょ。そのくらい、撃ったじゃない」
「……そうだね」
「火事に巻き込まれて死んだこともあった。裏の崖から突き落としたこともあったわね」
「……うん」
「覚えてるんでしょう」
「覚えてるよ」
彼女は、そこで一度、息を継いだ。浅い呼吸だった。
「私は、あの三年を何回もやったの。あなたへの復讐のために、イーシャも、フィルウも、アダンも。全員を殺した世界線も、何度も繰り返した。あなたが原因で。あなたのせいで」
「うん」
「それでも、最後、この世界線は、あなたを殺さなかった。全員生きて、朝を迎えたのよ。その世界線を、選んだ」
彼女の声が、震えた。怒りではなかった。
「あれが、どれだけのものだったか、あなたにわからないはずがないと思ってた」
「わかってるよ」
「わかってない!」
叫んだ瞬間、彼女は咳き込んだ。壁に手をついて、しばらく肩で息をした。
カリルは、動かなかった。助けにも行かなかった。
やがて、彼女は顔を上げた。
「あなたは、結局、あれから何も学ばなかった」
「……」
「何度死んだ? 何度、殺し合った? 私、あなたを何回撃ったか、もう覚えてないのよ。数えるのをやめたの。数えてたら、頭がおかしくなるから」
「……うん」
「あれだけ繰り返して、世界は、救われたはずだった」
彼女は、裂けた封印を指さした。
「そのために、これを貼ったんでしょう。いちばん最初に署名したの、あなたじゃない」
「……そうだね」
「なのに」
ユールは、そこで、一度言葉を切った。
それから、言った。
「──もう、彼は死んだのよ」
カリルの手が、取っ手の上で、止まった。
「フィルウは、死んだの。私も、あの映像を最後まで見たわ。音も、全部聞いた。あなたの声も、聞いた」
「……」
「何度やり直したって、同じよ」
彼女は、そう言った。
「あの子はね、博士。もう、そういうものなの。あの体で、あの生き方で、五十年もつわけがない。あなただって、計算できるでしょう。できないふりをしてるだけでしょう」
「──やめて」
「諦めなさい」
「やめてって言ってるでしょ」
カリルの声が、変わった。
地下で、彼が声を荒げたのは、それが初めてだった。
「じゃあ君は、諦めたの」
「なに」
「旦那さんのこと」
ユールが、黙った。
「君、諦めたの? 十六年、許さないって決めて生きてきたんでしょ。それって、諦めてないってことじゃないの」
「──それは」
「僕と、何が違うの」
彼は、扉に手をかけたまま、彼女のほうを向いた。
「君は、僕を憎むことで、あの人をまだ生かしてるんだ。僕は、装置を使うことで、あの子を生かそうとしてる。方法が違うだけで、やってることは同じでしょ」
「一緒にしないで」
「一緒だよ」
「一緒にするな!」
ユールが、叫んだ。
「──お前が語るな」
その声が、地下に反響した。
「この杖よ。何よりの証拠じゃない」
彼女は、床に転がった杖を見た。拾える距離ではなかった。
「あの人は、私をこの体にしたテロから、私を助けようとしたのよ。そのために、あなたの実験に協力した。そして帰ってこなかった。私は、夫を失って、この脚も、この肺も、元に戻らない」
「……」
「あなたが言ったんでしょう。あの人は、私のために戻ろうとして、戻れなかったって」
カリルは、答えなかった。
「この世界は、何度やっても、何も良くならない」
彼女は、そう言った。
「あの三年を、何千回もやった。最後に全員生きて、世界も救った。それで、九年経って、これよ。あの子は死んで、あなたはここにいて、私は、この地下で立ってるのがやっとなの」
「……」
「だから言ってるの。もう、やめて」
彼女は、壁にもたれたまま、彼を見た。
「私はね、博士。あなたを許してない。でも、あの三年の最後に、あなたがやり直しをやめたことだけは、認めてたのよ」
長い沈黙があった。
「……ありがとう」
やがて、カリルが言った。
「──やめて」
「本当だよ」
彼は、扉を開けた。
「じゃあね、ユール」
「待ちなさい」
「僕はね」
彼は、振り返らずに言った。
「君ほど、まっとうじゃないんだ」
それだけ言って、彼は中に入った。
ユールは、床に落ちた杖に手を伸ばそうとして、届かなかった。左脚が、言うことをきかなかった。
扉が、閉まった。
施錠の音が、地下に、短く響いた。
彼女は、冷たい床に座り込んだまま、その扉を見ていた。
叫んでも、届かない。走っても、追いつけない。彼女の体は、九年前に、そういうふうに壊されている。
だから、彼女は、叫ばなかった。
代わりに、扉に向かって、言った。
「──カリル・ラセール」
答えは、なかった。
「私は、あなたを、絶対に許さない」
答えは、なかった。
「何回やっても、許さないから」
地下の空調の音だけが、鳴っていた。
やがて、扉の向こうで、低い駆動音が鳴り始めた。
九年間止まっていた装置が、目を覚ます音だった。
ユール・ウォードが、その音を最後まで聞いた記憶は、この世界線には残っていない。




