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第六話 観測されなかった軌道

 パン、と。


 乾いた音がした。



 同じ瞬間、二つの画面が、天井を映していた。


 カメラが、誰かにぶつかったのだろう。角度が変わって、蛍光灯と、配管と、剥がれかけた塗装が映っていた。それが、十数秒続いた。


 映像は、何も伝えなかった。

 音声だけが、拾われ続けていた。


 椅子の倒れる音。走る足音。「救急車」と繰り返す誰かの声。


 それから、遠くのほうで、男の声がした。


 名前を、呼んでいた。


 二度、三度、四度。同じ名前を。


 イーシャには、それが誰の声か、すぐにわかった。九年間、毎日、研究室で聞いていた声だ。

 ただし、その声で、その呼び方をしているのを聞いたことは、一度もなかった。


 彼女は、椅子の脚に膝をぶつけて、立ち上がった。紅茶のカップが、テーブルの上でひっくり返った。


「ママ?」


 息子が、リビングから顔を出した。


「ママ、どうしたの。何かあったの」


 イーシャは、息子を見た。

 息子の顔の向こうに、リビングのテレビが見えた。試合が、まだ続いていた。選手がゴールを決めて、両腕を上げて、笑っていた。


 彼女のノートパソコンの中では、カメラが天井を映したまま、男が名前を呼び続けていた。


 二つの世界が、同じ部屋の中に、同時にあった。


「……なんでもないの」


 彼女は、そう言った。


 彼女は、蓋を閉じなかった。

 画面の前に、まっすぐ座り続けた。


 処理が、追いついていなかった。



 ワシントンで、ユールは、立ったまま動かなかった。


 乾いた音の正体を、彼女は知っていた。九年前、至近距離で、同じ音を聞いている。あのときは、そのあと三日間、何も聞こえなかった。


「顧問……?」


 若い職員が、画面を覗き込んで、息を呑んだ。


「これ、何が」

「静かに」


 彼女は、音声だけを聞いていた。


 救急という単語。制止する声。それを振り払う声。

 そして、同じ名前が、何度も。


 やがて、配信が切れた。


 黒くなった画面を、ユールは、しばらく見ていた。


「顧問、これは、事故ですか」

「……いいえ」


 彼女は、そう言った。


 ユールは、椅子に座り直した。左の脚が震えていた。低気圧の痺れではなかった。


 九年、名簿を作った。八年目に渡した。一年半、二人はそれを持って世界中を回った。断られ続けた。それでも、あと三件のところまで来ていた。


 誰が、どこで、それを漏らしたのか。


 考えることは、彼女のもっとも得意な仕事だった。考えて、考えて、考え抜いて、最も自分に有利な道を選ぶ。それが、ユール・ウォードという人間の生き方だった。


 今、彼女は、どれだけ考えても、有利な道が見えなかった。

 たぶんもう、自分の中に、自分のための道は、残っていなかった。



 小さな音だった。マイクのハウリングと聞き違えた人間が、たぶん半分はいた。


 カリルには、その音が聞こえた。

 なぜなら、その瞬間──


 フィルウの体が、ほんの少しだけ、後ろによろめいたから。


 ──え。


 悲鳴が上がったのは、一拍遅れてからだった。誰かが立ち上がり、椅子が倒れ、そこから会場全体が崩れた。二百人が、いっせいに出口へ向かった。


 カリルは、逆に走った。


 壇上の段差を駆け上がる。誰かが腕にぶつかった。振り払った。三段。二段。


 フィルウは、まだ立っていた。

 立って、いた。立って、いる、はずだった。


 でも、彼の白いシャツの、左胸のあたりに、赤い染みが、ゆっくり広がっていた。


 ──え。


 青い瞳が、カリルを見つけた。

 その表情に、世界で一番わかりにくい、ほんの少しの驚きが浮かんだ。


 ──え。

 ──え。

 ──え。


 彼が口を開いた。何かを言おうとした。

 マイクが、口元からずれた。

 膝が、折れた。


 演壇にもたれかかるようにして、体が傾いていった。白銀の髪が、照明の下で、振り子みたいに揺れた。


 カリルは、その体を受け止めた。

 床に、二人で倒れ込むようにして、座り込んだ。


 演壇の上から、鞄が落ちた。


 明日の面会用のファイル。付箋は三色。想定質問と、その回答と、断られた場合の次の一手。その下に、講演のスライドの控え。


 誰かが、それを拾った。


 カリルは、顔を上げた。


 上着の男だった。会場の全員が出口へ向かっているなかで、その男だけが壇上に上がってきていた。彼はカリルを一度も見ずに、床の鞄を拾い、演壇のノートパソコンのケーブルを抜き、それも脇に抱えた。


 慣れた手つきだった。

 二十秒ほどで、彼は舞台袖の暗がりへ消えた。


 カリルは、追わなかった。

 追えなかった、という言い方のほうが、たぶん正しい。


 腕の中で、フィルウが、彼の名前を呼んだからだ。


「博士……」

「うん、ここにいるよ、ここにいるよ──」


 抱き寄せた。温かい液体が、スーツに滲んできた。白いシャツが、もう、ほとんど赤いシャツに変わっていた。


「博士……鞄、が──」

「いいよ、もう、いいから、フィルウ、しゃべらないで──」

「明日の……資料が……」

「いいよ、もう、いいから──」


 唇の端から、赤いものがこぼれた。カリルは、それを親指で拭った。


「博士……ごめん、なさい……」

「謝らないで、お願いだから、謝らないで──」

「僕……最後の、ところ……原稿に、なかったのに……」

「うん」

「余計なこと、言いました……ね……」

「言ってない。言ってないよ、フィルウ」


 会場では、まだ人が動いていた。誰かが救急車を呼んでいる声がする。前列にいた自治体職員が、こちらへ駆け寄ってこようとして、途中で足を止めた。


 彼らは、何が起きたのかを見ていた。

 見ていたが、意味がわからなかった。洪水の講演で、講師が撃たれた。それ以上のことは、この場の誰にも、生涯わからない。


 カリルには、それらがもう、ほとんど聞こえなかった。


 彼の手が、ゆっくり上がってきた。血で濡れた細い指が、カリルの頬に触れた。


 その指は、いつものキーボードを叩く指ではなかった。血と、汗と、震えでぐちゃぐちゃの、ただの人間の指だった。


 でも、その指が、頬を撫でた。


「博士……」

「うん」

「今、博士……ちゃんと、僕を、観てて、くれます、か……」

「うん、観てる、ちゃんと、観てる、ずっと、観てる──」


 彼が、ほんの少し、笑った。


「……よかった……」

「うん」

「博士……」

「うん」

「……」


 指が、頬から滑り落ちた。力なく、床に垂れた。


「フィルウ、ねえ、フィルウ」

「……」

「フィルウ、目、閉じないで」

「……博士……」

「うん、ここにいる、ねえ、ここにいるから──」

「……愛して、ます……」


 その言葉が、最後だった。


 青い瞳が、ゆっくりとピントを失った。すぐそこにあった視線が、ゆっくり、天井のほうへずれていった。

 その先の、たぶん、この建物の屋根のほうへ。

 その先の、たぶん、彼が観測したかった、あの空のほうへ。


 長い睫毛が、伏せられた。


 ──え。


「フィルウ」


 頬を撫でた。まだ、温かかった。まだ、温かい、はずだった。


「フィルウ、ねえ、起きて」


 白銀の髪を、指で梳いた。血と汗で濡れていた。照明が、その髪を金色っぽく染めていた。


「フィルウ、お願い、フィルウ、起きて」


 ようやく、救急隊が到着した。誰かが肩に手をかけた。「先生、離してください」と、誰かが言った。振り払った。


「離さない」


 カリルは、その体を、もっと強く抱き寄せた。


「離さない、絶対に、離さない、離さない、離さない──」


 救急隊員が何かを叫んでいた。たぶん「処置を」とか、「離れてください」とか、そういう言葉。でも、ほとんど聞こえなかった。


 左胸の赤い染みは、もうシャツ全体に広がっていた。床にも赤い水たまりができていた。


 誰かが、上着のポケットから、二つ折りの紙を落としていった。


 三ヶ月間、ポケットからポケットへ移され続けていた手紙だった。

 血の水たまりの中に、それが落ちた。赤い染みが、紙にゆっくり滲んでいった。彼の丁寧な筆跡が、封筒の表から、血の色に染まっていった。


 カリルは、それを拾った。

 拾ってから、自分の上着の左胸のポケットに入れた。そのポケットも、もう、彼の血で赤かった。


 照明が、上から、白銀の髪を照らしていた。

 会場では、まだ人が動いていた。誰かが泣いていた。誰かが、通報の電話で「講演会場です」と繰り返していた。


 でも、床の上の、二人の周りだけは、不思議と静かだった。


 誰ひとり観測しなかった、二人の最後の時間が、その静寂の中にあった。


 ──観測者は、最前列にいた。

 ──ちゃんと、いた。

 ──彼が話す間、ずっと観ていた。

 ──彼も、ときどき、こちらを観てくれた。

 ──だから、彼が最後に見たものは、ちゃんと、こちらだった。


 それだけが、この夜、唯一達成されたことだった。


 明日の朝、ミュンヘンで始まるはずだった面会は、キャンセルされた。

 三件のうちの一件目。九年と、一年半が、そこに繋がっているはずだった。


 鞄は、二度と見つからなかった。

 彼が最後に話した「予測は、伝わらなければ、存在しないのと同じです」という言葉は、配信のアーカイブに残ったが、洪水の話として記録された。


 「銀嵐」という単語は、その夜、世界のどこにも出なかった。


 カリル・ラセールの世界は、その夜、照明の下で、白銀の髪の彼と一緒に、終わった。


 観測されなかった軌道は、観測者の腕の中で、静かに消えていった。

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