第五話 最前列
その夜、その講演の配信。
地域の防災学会が持っているチャンネルの、事務的な記録映像だった。同時接続が三十人を超えたことは、これまで一度もない。
その三十人のうちの、二人。
ニューデリーは、夜の十時を回っていた。
イーシャ・バラットは、ダイニングテーブルにノートパソコンを開いて、リンクが正しく繋がるかを確かめていた。フィルウから、三日前に一行だけのメールが来ていた。
『火曜の夜、講演があります。洪水の話です』
用件は、それだけだった。
なぜ知らせてきたのか、彼女にはわかっていた。この男は、意味のないことは書かない。書いてよこしたということは、観てほしいということだ。
「ママ、何見てるの」
息子が、リビングから顔を覗かせた。十四歳になる息子は、最近、母の仕事に興味を持ち始めている。
「お母さんの同僚が、これから講演をするの」
「なんの」
「洪水の」
「ふうん」
息子の興味は、それで尽きた。彼はリビングに引き返して、試合の続きを見始めた。
イーシャは、それでよかった。
夫が、紅茶を運んできた。
「ブランシャール博士、だっけ」
「ええ」
「君が家を空けていた間、ずっと一緒に働いていた人」
「そう」
「観てあげなさい」
「ありがとう」
夫は、彼女の肩に軽く手を置いて、部屋を出ていった。
イーシャは、しばらくその温度を、肩の上に残していた。
ワシントンD.C.は、午後の遅い時間だった。
ユール・ウォードは、自分の机に、私物のタブレットを立てていた。省の端末では開かない。彼女は、そういうことに、九年前より慎重になっている。
「顧問。次の打ち合わせ、十五分後です」
「わかってる」
「……何をご覧に」
「洪水の講演よ」
「え」
若い職員は、二度、瞬きをした。
「ご興味が」
「ないわ」
ユールは、画面から目を離さずに答えた。
「でも、同僚だから」
どちらの画面にも、まだ誰もいない演壇が映っていた。
二千キロと、六千キロ。それぞれの距離を隔てて、二人の女は、同じ空席を見ていた。
最前列の、中央寄りの席。
カリルは、開演の三十分前から、そこに座っていた。
左胸のポケットに、彼が今朝くれたメモが入っていた。
『ありがとう。愛しています』
ネクタイを結んでもらっている間に、こっそり入れたのだろうか。ホテルを出てから、車の中で気づいた。何のお礼なのかは、わからない。ネクタイのことかもしれないし、明日の面会のことかもしれない。
カリルはそれを、上着の上から、何度も撫でた。
照明が落ちた。壇上だけが、明るく照らされた。
舞台袖から、フィルウが現れた。
白いシャツに、自分が結んだネクタイ。黒のスーツ。前髪を少しだけ上げて、白銀の髪をきちんとセットしている。照明を浴びて、彼の髪が、銀河みたいに光っていた。
演壇の前で、彼は軽くお辞儀をした。
まばらな拍手が起きた。
二百人の会場で、この男が世界で何番目の頭脳なのかを知っている者は、たぶん半分もいない。今夜の彼は、洪水の予測をしに来た講師だった。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。フィルウ・ブランシャールと申します」
声が、会場に響いた。
カリルは、その最初の一言で、少し笑った。
ちょっと緊張してる。
それはそうだ。彼は、人前に出てこないで有名な、シャイな研究者なんだから。
講演は、滞りなく進んだ。
過去二十年の観測データ。降雨強度と流出係数。旧市街の排水網の限界と、それを超える確率。避難勧告のタイミングを、何時間前倒しできるか。
前列の自治体職員が、二度、頷いた。学生が三人、熱心にメモを取っていた。後ろのほうで、誰かが小さく咳をした。
カリルは、内容の半分も理解していなかった。カリルにとっては、少し専門的すぎる。
それでも、一度も目を離さなかった。
三十五分が経過したところで、フィルウが一度、顔を上げた。
最前列の、中央寄りの席。
カリルは、そこにいた。
洪水の話をひとつも理解していない顔で、ただ、彼を見ていた。
フィルウは、ほんの少しだけ笑った。
誰も気づかない、一瞬の表情だった。
カリルも、軽く頷き返した。
そのときだった。
会場の後方の扉が、静かに開いた。
遅れてきた聴衆だろう、とカリルは思った。実際、そう見えた。上着を着た、どこにでもいる中年の男だった。彼は立ち見の位置で足を止め、演壇のほうを見た。
カリルが、その男を二秒以上見たのは、理由がある。
男が、腕時計を見たからだ。
遅れて入ってきた人間が、まず時計を見る。それ自体は、おかしくない。おかしかったのは、そのあとだった。彼は演壇を見て、それから会場をゆっくり見渡し、もう一度、時計を見た。
二十秒のあいだに、二回。
──あの人、何を待ってるんだろう。
カリルは、そう思った。
思ってから、壇上に視線を戻した。
フィルウは、次のスライドを出したところだった。
「──以上が、短期予測の現状です。最後に、限界についてお話しします」
彼は、そこで少し声の調子を変えた。
「予測は、外れます。私のモデルも、外れます。九九.九パーセントの精度は、千回に一回、人を死なせます」
会場が、静かになった。
「私は長いあいだ、その〇.一を潰すことだけを考えてきました。でも、最近は、少し違うことを考えます」
カリルは、顔を上げた。
原稿にない話だ、とすぐにわかった。この子が原稿から離れるときは、決まって声が半音下がる。
「予測は、伝わらなければ、存在しないのと同じです」
フィルウは、聴衆のほうを見ていた。
「どれだけ正確に未来を計算しても、それを受け取る人がいなければ、その未来は来ます。何もされないまま、そのとおりに来ます。だから──」
カリルは、その先を、待った。
男が、上着の内側に手を入れたのは、そのときだった。




