第四話 九年と一年半
九年が経った。
その間に、フィルウのモデルは三度、書き直された。誤差は年単位まで縮み、最後には季節を指し示すまでになった。銀嵐の到達予測は、二〇八八年頃。あと、およそ五十年。
もう、予測ではなかった。
二年目に、彼が返信したパルスの周期変化が観測された。四年目に、減速の第四段階が始まった。六年目には、光学望遠鏡が、点を捉えた。カリルの理論が予測し、フィルウのモデルが年月を指定し、実際の観測がそれを裏づけた。三つが揃った時点で、それは仮説ではなくなる。
ただし、確定させたのはフィルウひとりではない。
五年目の春、二人はイーシャに、もう一度助けを求めた。
今度は、リモートで。
時差の関係で、彼女が通信に入るのはいつも深夜だった。画面の向こうは自宅の書斎で、ときどき背後を息子が横切り、ときどき夫が飲み物を置いていく。イーシャはそれを隠さなかった。
「見えてるでしょ。これが私の作業環境よ」
「はい。でも、どうしてビデオ通話なんですか?」
「文句ある?」
「別に、僕見てないんですけど……」
「見なさいよ。同僚の家族、気にならないの」
「……なりません」
「なりなさい」
フィルウは、画面から目を逸らしたまま黙り込もうとして、結局、気まずさに負けて視線を戻した。
その時、書斎の入口で、少年が一人、こちらを覗き込んでいた。
目が合うと、慌てて引っ込んだ。
「……大きくなりましたね」
「十四よ。声変わりも終わったわ」
「僕の記憶では、まだ九歳でした」
「毎年写真送ってるの見てないの?」
「いや、見てますけど。直接お会いした時は九歳だったじゃないですか」
カリルが、画面の外で小さく笑った。
「イーシャ博士、相変わらず容赦ないなあ」
「あなたには言ってないでしょう、カリル。あなたはもう手遅れだから」
「ひどい! いいも〜ん、結婚するつもりなんてないしぃ」
「ひどいのはそっちよ。九年ぶりの連絡が仕事の依頼って、どういう神経してるの」
「元気だった?」
「今聞くの?」
夫が、後ろを通りかかって、画面に向かって軽く手を挙げた。イーシャは振り返りもせず、片手を上げて返した。
九年前、彼女がこの部屋に帰るために、あの三年があった。
「……それで」
イーシャは、カップを置いた。
「送ってもらった情報は全部見たけど。本当なの、あれ」
「信じないですか?」
「信じるわよ。もちろん」
彼女は、こともなげに言った。
「あなたが導き出した、未来でしょう」
フィルウは、何も言えなかった。
そして、彼女は椅子を引き直した。
「私は家族がいて忙しいの。早速始めましょう。質問責めにするから、覚悟しなさい」
三人での研究は、九年前の続きだった。カリルが理論を出し、フィルウが数値で殴り、イーシャが「それ、作れないけど」と両方を叩き落とす。あの三年間と、まったく同じ手順で、まったく同じ速度で、それは進んだ。
深夜のフランスと、早朝のインドを、九年ぶりに同じ問題が繋いでいた。
カリルは、その時間だけ、いつもよりよく喋った。
そして、一年半かけて、彼らは結論に辿り着いた。
──不可能だった。
迎撃案は、必要な質量投射量が現行の打ち上げ能力を三桁上回った。
退避案は、居住可能なコロニーの建造に、最短で三十年。使用する軌道資源の総量は、既存の宇宙産業全体の生涯生産量を超えた。
どちらの案でも、必要な予算は、単一の国家の国防費では桁が足りなかった。
イーシャは、その夜の通話を切る最後に、こう言った。
「私たちが三年でやったことは、五人でできることだったのよ。これは違う」
画面の向こうで、彼女は煙草に火をつけようとして、やめた。
「人類、みんな使わないと無理」
誰も、すぐには返事をしなかった。
「フィルウ。あなたの計算、私も検算したわ。何回も」
「はい」
「間違ってなかった。残念ながらね」
「……はい」
「だから、次にやることは、研究じゃない」
彼女は、まっすぐカメラを見た。
「政治よ」
七年目の冬、フィルウはユールに連絡した。
九年前のメールの返信を、彼はまだ保存していた。
『証拠が政府の科学顧問団を説得できるレベルに達したら、私が動く。』
達しました、と、彼は書いた。
添付した資料の量は、彼女以外なら開いた時点で投げ出すだろう、というくらいになった。
返事は、三日後に来た。
本文はなく、暗号化されたファイルが一つだけ添付されていた。開くと、そこには彼女がこの九年で作り上げた名簿があった。各国の宇宙機関の局長級。航空宇宙企業の技術決定権者。政府系ファンドの運用責任者。査読の通る学術誌の編集長。そして、彼らに面会を通せる人間の一覧。
彼女は、待っていたのではない。
九年、準備していた。
最初の通信で、フィルウは真っ先に、それを尋ねた。
「これ、いつから作っていたんですか」
「九年前の、あなたのメールを読んだ日から」
「……信じていたんですか」
「まさか」
ユールは、即答した。
「私はいまだに、あなたの資料の八割が理解できない。三日かけて読んで、わかったのは結論だけ」
画面の中で、彼女は書類の束を持ち上げてみせた。付箋が、数えきれないほど貼られている。
「でも、あなたたちは九年前、私が一行も理解できない紙束を根拠にして、地球を救ったのよ。理解できないものが正しかった実績が、私には一件ある」
「……はい」
「だから作った。外れたら、ただの人脈整理よ。無駄にはならない」
フィルウは、少し黙ってから言った。
「僕、あなたのこと、ずっと苦手でした」
「知ってる」
「知ってたんですか」
「顔に出るのよ、あなた。無表情なのに」
ユールは、書類を置いた。
「私も、あなたが苦手だった。何を考えているのかわからないし、こっちの都合を一切考えないし、締切という概念がない」
「……すみません」
「でも、あなたは嘘をつかない」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「だから、読んだ」
フィルウは、何と返せばいいのかわからなかった。
礼を言うのは違う気がした。恐縮するのも違う。この人は褒めたのではなく、判断の根拠を述べただけだ。彼女はいつもそうだった。九年前、研究センターで彼が最も理解できなかったのは、この、感情の一切乗らない正確さだった。
画面の向こうで、ユールが小さく咳をした。
左肺の後遺症だ。九年経っても、それは治っていない。彼女は口元を押さえたまま、片手で「続けて」という仕草をした。
「……あの」
「なに」
「体調、大丈夫ですか」
「あなたに心配される日が来るとはね」
彼女は、水を一口飲んだ。
「大丈夫よ。最近、また煙草を吸っただけ」
「吸わないでくださいよ……」
フィルウは、手元の資料に目を落とした。
それから、いちばん上の一枚を裏返して、本題に入った。
「ウォードさん。ひとつ、判断を仰ぎたいことがあります」
「どうぞ」
「これを、公表するべきだと思いますか」
ユールは、コップを置いた。
「駄目よ」
これも、即答だった。
「『セオ』のときと同じ。表には出せない」
「五十年あります。準備の時間を作るには、早く知らせたほうが──」
「地球が壊れるより先に、人間同士で社会が壊れるわ」
ユールの声は、静かだった。
「五十年後に人類が滅ぶって、明日世界中に流れたとしなさい。翌週には、避難船の乗員枠の話が始まる。誰が乗るのか。どの国が何席取るのか。どこの誰が金を出すのか。そこから先は、私の専門よ。断言する。船が一隻できる前に、戦争が起きる」
「……」
「それに、機密扱いになったらなったで、悪用されるか、陰謀論に飲まれるか、どっちかね。九年前と同じことになる。あなたたちは、いくつもの世界の中で、研究を全部取り上げられたでしょう」
九年前、彼が最も強くその制度に噛みつき、そして最も静かに屈服した。ユールは、そのことを知っている数少ない人間のひとりだった。
「じゃあ、どうすれば」
「政府より、正しい情報を持っている協力者を作るの」
彼女の描いた道筋は、こうだった。
名簿の相手を、一つずつ、非公開で当たる。技術的裏づけを見せ、五十年の枠組みへの参加意思を取りつける。十いくつの署名が集まった時点で、初めて外に出す。
そのときには、もう、握りつぶせない。
「政府には、一言も入れないんですか?」
「入れない。制度の外側で数を作ってから、制度に持っていく。順番を間違えたら終わり」
「あなたは、政府の人間ですよね」
「そうよ」
ユールは、顔色ひとつ変えなかった。
「だから、どこで止まるかがわかるの。内側にいる人間が、いちばん内側を信用していない。当然でしょう」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「言っておくけど、これは一度失敗してもやり直すつもりはないから」
「はい。わかってます」
彼女は、また少し黙った。
「……必ず、一回で成功させる。そのためなら、できる限りの精一杯を尽くすわ。あの時と同じか、それ以上にね」
フィルウは、しばらく答えなかった。
やがて、画面に向かって、深く頭を下げた。
「やめて。そういうの、いらない」
「はい」
「頭を下げる時間があるなら、資料の三章を書き直しなさい。あそこ、私が理解できない。私が理解できないものは、局長級も理解できないから」
「……はい」
その後の一年半、二人は世界中の扉を叩いて回った。
誰も、フィルウの計算を疑わなかった。
二時間の説明を終えると、たいてい相手は黙り込み、そして低い声でこう言った。先生方のデータに、疑義はありません。
そのあとが、いつも同じだった。
彼らが興味を示したのは、銀嵐ではなかった。九年前に「セオ」を逸らした軌道操作技術と、カリルの時空エネルギー理論のほうだった。実装可能で、収益化でき、五十年待たなくていい。
「その理論の、非軍事応用について、別途お話を」
「共同研究のスキームであれば、社内を通せると思います」
「五十年後の件は──社としても、重く受け止めております」
重く受け止めます、という言い回しを、フィルウはその一年半で数十回聞いた。
中東の資産家がひとり、真剣に検討すると言った。
南米の宇宙機関がひとつ、内部の作業部会に上げると言った。
欧州の企業がひとつ、退避船の与圧区画の設計だけなら受注可能だと言った。
それが、一年半の成果だった。
十いくつには、遠かった。
断り方の質だけが、少しずつ変わっていった。
最初の半年は、丁寧だった。次の半年は、事務的になった。最後の半年、いくつかの相手は、面会そのものを途中で切り上げるようになった。
どこかで、情報が回っている。
二人とも、それには気づいていた。
三ヶ月前から、玄関のドアに、小さな傷がつけられるようになった。
郵便受けの位置が、朝と夕方で微妙にずれていたこともある。
それでも、止めるという選択肢は、なかった。
二人の体は、静かに削られていた。
カリルは四十歳になっていた。三年間のDAWNプロジェクトと、そのあとの九年。睡眠を削ることを覚え、それを美徳と勘違いしたまま生きてきた人間の体は、正直だった。年に何度か、彼は前触れもなく倒れるようになっていた。
フィルウは三十五歳になっていた。いつ頃からか、彼は朝と夜に何かを飲むようになっていた。サプリメントらしい。彼が言っていた。
「あと、三件です」
その夜、フィルウは手帳を閉じて言った。
「三件のうち、二件は感触があります。二件取れたら、南米の作業部会が正式に動きます。そうしたら、連鎖します」
「連鎖するかな」
「します。人間は、二番目からは、乗るのが得意なので」
カリルは笑った。
「君、たまにすごく人間に詳しいよね」
「予測屋なので」
最初の一件は、ミュンヘンだった。
先方の都合で、面会は水曜の朝に設定された。
同じ週の火曜の夜、フィルウには、まったく別の予定が入っていた。
地域の防災学会が主催する、公開講演。
テーマは「都市型洪水の短期予測」。彼が十一歳から続けてきた、天文とは何の関係もない仕事のほうだ。半年前に受けた依頼で、断る理由もなく、しかも渡航の口実としてちょうどよかった。
聴衆は、二百人ほど。自治体の防災担当者と、大学の学生と、近隣の住民。オンラインでの配信も行うと聞いている。
どこにでもある、平日の夜の講演だった。
火曜の朝。ホテルの部屋で、カリルはフィルウの正面に立って、首元を覗き込んだ。
「ちょっと、貸して」
フィルウの手を払いのけて、ネクタイを結び直す。彼の指は、いつもより少しだけ固かった。
結び終えてから、カリルはフィルウの目を見て、笑った。
「ちょっと曲がってるね」
「博士が結んだのに」
「わざと曲げといた」
「……なんでですか」
「親しみやすく見えるように。これ、コツだよ」
「そんなコツ、聞いたことないです」
「あるの。君、放っておくと完璧に結ぶから、余計に人を寄せつけないんだよ」
フィルウは鏡を見た。
言われてみれば、左が二ミリほど下がっている。直そうとして、やめた。
「明日、何時に出ますか」
「八時半でいいでしょ」
「八時にしましょう。渋滞の分散が読めません」
「君ね、そういうところだよ」
「なんの話ですか」
カリルは笑って、フィルウの頬に唇を寄せた。
いつもと同じ長さだった。
「今日、来なくてよかったんですよ」
「なんで」
「洪水の話です。博士、寝ますよ」
「寝ないよ」
「三年前、寝てました」
「あれは時差」
フィルウは、鞄に資料を詰めた。
いちばん上に、明日の面会用のファイルを入れる。付箋の色は三色。想定質問と、その回答と、断られた場合の次の一手。移動中に見直すためだ。
そのファイルの下に、講演のスライドの控えがある。
彼にとって、今日はそういう順番の日だった。
上着を羽織るとき、左胸のポケットで、紙が小さく鳴った。
二つ折りの手紙。三ヶ月前に書いたものだ。
あの頃、玄関の傷に気づいて、面会がひとつ流れて、体の数値がひとつ悪くなった。
その週に、なんとなく書いた。書いてから、渡す機会がなかった。
鞄に入れると忘れる。捨てるのも違う気がした。
だから、上着を替えるたびに、ポケットからポケットへ移している。
三ヶ月、そうしている。
明日の朝、ミュンヘンで、三件のうちの一件目が始まる。
九年と、一年半が、そこに繋がっている。
そのための、今日はただの前日だった。




