第三話 予言する者
二十七歳の春、フィルウは自分の予測モデルに、新しいパラメータを組み込んでいた。
「博士。これ、見てください」
カリルが画面を覗き込む。フィルウのシミュレーションには、地球へ接近してくる無数の点があった。
「これが、君の言う『銀嵐』」
「はい。誤差はまだ大きいですが、到達は今世紀の後半です。あと数年データを積めば、年単位まで絞れます」
「『来る』というのは、観測される、ってこと? それとも──」
「接触するかもしれません」
フィルウは、即答した。
「言えるのは、彼らが減速していることと、進路を三回修正していることだけです。地球の公転位置を織り込んでいるように見えます。偶然で説明するには、精度が高すぎます」
カリルは黙って、頬杖をついた。
「……目的地が、地球だってことは、確かだと」
「何をしに来るのかは、わかりませんが」
フィルウは、そこで少しだけ言葉を切った。
「証拠は」
「集めています。観測データと、軌道修正のパターン。それと──交信、らしきもの」
フィルウの白い指が、別のウィンドウを開く。ノイズだらけのスペクトル画像が現れた。
「自然現象では説明がつかない、規則性のあるパルスです。発信源は、『セオ』の軌道を変えた小天体群と同じ場所。解析はまだ途中です」
「読めそう?」
「二層目までは。周期の入れ子構造があります。三層目からは、まだ何も」
彼はそこで、ごく普通の調子で付け加えた。
「あと、返してみました」
カリルの手が、止まった。
「……ごめん、なに?」
「返信です。こちらからも、パルスを送りました。先月」
「フィルウ君」
「はい」
「それ、僕に言った?」
「いま言いました」
カリルは、椅子の背に体を預けて、天井を見上げた。それから、両手で顔を覆った。
「君ねえ」
「怒りますか」
「怒らないけど、心臓に悪いよ」
「送ったのは、素数列です。二から、五十三まで。意味のある情報は何も含めていません。『こちらに、規則を扱うものがいる』ということだけです」
カリルは、顔を覆ったまま、指の隙間からフィルウを見た。
「……返事は」
「ありません」
フィルウは、画面に視線を戻した。
「ただ、送信の四日後から、十一日間、パルスが止まりました。そのあと再開しましたが、周期が変わっています」
部屋が、静かになった。
「それが何を意味するのかは、僕にはわかりません。わからないので、記録だけ、しています」
カリルは、しばらく何も言えなかった。
この子は、宇宙の向こう側に手を伸ばして、何かに触れて、その手をそのままの温度で引っ込めてきた。恐怖も、興奮も、そこにはない。ただ、記録だけがある。
やがて彼は、ゆっくり口を開いた。
「フィルウ君。これ、僕たちだけで抱えるのは無理だよ」
「わかってます」
「イーシャに連絡するけど、いい?」
「……博士、待ってください。彼女には、家族がいます」
「うん。でも、彼女の頭脳がいる」
二人はしばらく黙った。
窓の外では、桜が咲いていた。研究センターの中庭に、何年か前にカリルが日本から取り寄せて植えたソメイヨシノが、ようやく満開を迎えていた。
「……博士」
「うん」
「僕が、彼女に話します」
「ええ?」
「先に予測したのは僕です。彼女の人生を壊しに行くなら、博士じゃなくて、僕がやります」
カリルは何かを言いかけて、やめた。フィルウの覚悟を、無神経に踏み荒らすつもりはなかった。
ただ、その瞬間、彼は思った。
──ああ、この子は本当に、僕の知らないところで、もう大人になっていたんだなあ、と。
このあと、フィルウはイーシャに電話をかけた。
「悪いけど、断るわ」
イーシャの声は、研究室で聞いていた頃よりも温かかった。けれど、芯にある冷たさは、そのままだった。
「私、息子が中学に上がるところなの。夫の仕事も忙しくなってる。今、家族から離れる選択肢はないのよ、フィルウ」
「……わかります」
「証拠が揃ったら、また聞かせて。リモートで手伝うのは構わない。夜なら、時間は作れる」
「それで十分です。ありがとうございます」
電話を握りしめたまま、フィルウは頭を少し下げた。
見えないとわかっていて、それでも下げた。
「……フィルウ」
「はい」
「あなた、最近ちゃんと食べてる?」
「博士よりは食べてます」
「それ、何の安心材料にもならないわよ」
電話を切ったあと、フィルウは机に突っ伏した。
イーシャは、方舟とスペースコロニーの設計を引き受けると言ってくれた。実際、彼女ほどの工学者は、世界に数えるほどしかいない。
世界を救う、一歩目。
ユールにも、フィルウは連絡を試みた。返信は、簡潔だった。
『証拠が政府の科学顧問団を説得できるレベルに達したら、私が動く。それまでは私を巻き込まないで』
一見、冷たい文面のように見える。
だが、動くと、彼女は言ってくれた。あの人が「動く」と書くとき、それは検討する、という意味ではない。
世界を救う、二歩目。
その夜、フィルウは研究室の灯りを落としてから、カリルの背中に向かって言った。
「博士。久しぶりに、僕たち二人になりましたね」
カリルは、机の上の書類を揃えていた手を止めた。
「うん」
「……ちょっとだけ、寂しいです」
彼は振り返らずに、片手だけ後ろに伸ばした。
位置は、見なくてもわかる。十六年、同じ高さにあった頭だ。カリルの手が、慣れた手つきで、くしゃくしゃとそれを撫でた。
フィルウは、されるままになっていた。
三秒ほど。
それから、その手を両手で包んで、頭から外した。
外して、下ろした。離しはしなかった。
カリルが、振り返った。
薄暗い研究室で、フィルウは目を伏せたまま立っていた。指は、まだカリルの手を包んでいる。彼の指はいつも冷たい。今夜も冷たかった。
「……フィルウ君?」
返事はなかった。
カリルは、包まれた自分の手を、少しだけ動かしてみた。フィルウの親指が、それを追って、押さえるように動いた。逃がすまい、という動きではない。ただ、そこにあることを確かめるだけの動きだった。
窓の外で、風が中庭の砂利を鳴らした。
誰もいない建物だった。廊下の灯りも、もう落としてある。この階で動いているものは、空調と、二人の呼吸だけだった。
カリルは、何も言わずに待った。
九年前の朝も、同じようにして待ったことがある。あのときも、この子は先に手を止めてから話し始めた。
フィルウが、ようやく顔を上げた。
「博士」
「うん」
「マリーさん、いい人ですよね」
「……誰?」
「先週、共同観測の打ち合わせに来た人です。ボルドーの」
「ああ、あの人。うん、優秀だったね」
「博士のこと、聞かれました」
カリルは、缶コーヒーを開ける手を止めた。
「何を」
「ご結婚は、って」
「君、なんて答えたの」
「事実を答えました」
「事実って……なに?」
「独身で、三十三歳で、部屋が汚いです」
「三つ目いる?」
フィルウは答えなかった。
「連絡先、渡しておきましょうか」
その言い方が、冗談の続きではなかった。
カリルは、缶を持ったまま、フィルウを見た。彼はまだ、片手でカリルの手を握っている。握ったまま、こんな話をしている。
「……いらないよ」
「なんでですか」
「なんで、って」
「理由を、聞いています」
カリルは、答えなかった。
「博士は、家族を作ったほうがいいと思います」
缶を置く音が、思ったより大きく響いた。
カリルの表情から、いつもの笑みが消えた。
「……なに? それ」
「僕は、あんまり、そういうことに向いてないので」
フィルウは、続けた。声の高さが、一定に保たれていた。保つように、努力しているのがわかる高さだった。
「でも博士は、向いてます。子供の相手も上手いし。僕が言うんだから、間違いないです」
「フィルウ君」
「はい」
「今日、それを言うために、僕を残したの」
フィルウは、答えなかった。
「イーシャに断られて、ユールに待てって言われて、二人になったねって言って。そのあとにその話をするの」
「……」
「順番、考えてきたでしょ」
フィルウの指先が、わずかに強張った。
カリルは、それを握り返した。今度は、彼のほうから。
「君ね」
声が、低かった。
「それ、けっこうひどい言い方だよ」
「ひどいですか」
「うん。すごくひどい」
フィルウは、しばらく黙っていた。
それから、少し考えて、言い直した。
「じゃあ、こう言います。博士には、僕以外にも、いてほしいです」
カリルは、答えなかった。
中庭の暗がりで、桜はもう葉ばかりになっている。どちらかが消し忘れた倉庫の窓の灯りが、砂利の上に細く落ちていた。
「フィルウ君」
「はい」
「それ、君がいなくなる前提の話でしょ」
フィルウは、答えなかった。
答えないことが答えだと、二人ともわかっていた。
「……君はいなくならないよ」
カリルの声から、いつもの調子が抜けていた。
「君が、僕の前から消えてしまうのが嫌で、何回やり直したと思ってるんだい」
フィルウの指が、わずかに動いた。握ったままの手の中で。
「君のために、何度、僕は──」
言葉が、そこで途切れた。
カリルは、息を吸い直した。
「フィルウ君。ひとつ、確認するよ」
「はい」
「君がいないと、これは、解けない」
声から、感情が抜けていた。
研究の話をするときの、彼の声だった。
「僕は理論しか出せない。それを、現実に落とし込めるようにできるのは君だけだ。イーシャは作る側で、ユールは通す側で、どっちも君の出した数字がないと動けない。──君も、知ってるよね」
フィルウは、目を伏せた。
「知っています」
「うん」
「僕が抜けたら、たぶん、遅れます」
「遅れるじゃない。できないんだよ」
カリルは、そこで少しだけ、間を置いた。
「……君、そんな謙遜するタイプじゃないよね。今日、どうしたの」
フィルウは、答えなかった。
握った手だけが、わずかに冷たくなっていた。
「君が『僕以外にも、いてほしい』って言うのはさ」
カリルは、続けた。
「僕の私生活の心配をしてるふりをして、要するに、その前提が崩れるって言ってるわけでしょ」
フィルウは、答えなかった。
「僕はね、フィルウ君。君に死なれると、地球を守る手段を失うの」
その言い方は、彼が意図した以上に、正確だった。
「切り離せないの。僕は、君にいなくなられるのが困る。業務上も、個人的にも」
フィルウは、しばらく黙っていた。
それから、ごく静かに言った。
「もう、あれは使わないですよね」
消灯した部屋の中で、その声は、驚くほどよく通った。
カリルは、動かなかった。
あれは封印した。五人で署名した。二重にした。取り決めは、この建物で最も強い拘束力を持っている。
だから、答えは決まっている。答えるだけでいい。
なのに、口が動かなかった。
「……フィルウ君。ちょっと怒るよ」
「はい」
「けっこう、怒るよ」
「はい」
カリルは、握られていた手を、そっと引き抜こうとした。
フィルウが、離さなかった。
「博士」
「なに」
「使っちゃ、だめですからね」
カリルは、答えなかった。
窓の外の、消し忘れられた倉庫の灯りが、ふっと消えた。
中庭が、完全な暗がりになった。
目が慣れるまでのあいだ、二人は同じ場所に立っていた。
やがて、輪郭が戻ってくる。机の角。椅子の背。停止したモニタの、うっすらとした光。十六年見てきたものが、順番に、暗がりの中から浮かび上がってくる。
「……今日は、休もうか」
カリルが、ようやく言った。
「はい」
フィルウが、手を離した。
二人は並んで研究室を出て、廊下の灯りを落とし、いつもどおりの距離で歩いた。中庭を横切るとき、フィルウが一度だけ立ち止まって、葉ばかりになった桜を見上げた。
春になれば、また咲く。
それだけの話だった。
この夜のことを、二人はその後、一度も話題にしなかった。




