第二話 四つの場所
それから、数週間のうちに、彼らはそれぞれの場所に戻っていった。
救われた世界は、何も知らないまま、当たり前のように続いていく。
当たり前でなくなったのは、彼らのほうだった。
ニューデリーの空港。
イーシャ・バラットは三十三歳になって初めて、息子の手をしっかりと握っていた。九歳になった息子は、母の顔をまじまじと見つめてから、はにかむように笑った。
「ママ、ちょっと痩せた?」
「ええ、少しね」
「お仕事は?」
「終わったの。もう、ずっと一緒にいられる」
夫が荷物を運びながら、目元を拭っていた。五年だった。機密保持のために、家族と会えなかった五年。息子の身長は、自分が知っているより二十センチ以上伸びていた。
失った時間は二度と戻らない。それは事実だ。
それでも今、自分は生きていて、家族はそこにいる。
イーシャは深く息を吸った。インドの空気は、研究センターの空調とはまるで違う匂いがした。
ワシントンD.C.。
ユール・ウォードの机には、三年ぶんの不在が積み上がっていた。
国家安全保障会議への復命。国防省への報告。プロジェクト会計の最終監査。機密指定の解除申請と、解除しない項目の理由書。関係者の追跡調査計画。
どれも、彼女が三年間やってきた仕事の後始末だった。地球を救う船の上で、彼女に割り当てられていたのは、船が沈まなかったあとの帳簿を合わせる役目だ。
杖をつきながら、彼女はオフィスへ向かう自動ドアの前で一度立ち止まった。三十三歳。爆破テロの後遺症で左脚を引きずり、肺は階段ひとつで悲鳴をあげる。それでも彼女は、休職を続けるつもりはなかった。
現場には戻れないが、頭脳が必要な仕事はいくらでもある。
亡き夫の死の真相──あの三年のあいだに、全員の前で明かされてしまったあの真実は、まだ胸の奥に、冷たい棘として残っている。
けれど、引き金は引かない。
あの三年の終わりに、彼女は自分でそう決めた。
正確には、決めたことを、毎朝もう一度決め直している。
報告書のどこにも、あの三年に本当は何が起きたのかは、書かれていない。書けるはずがなかった。
書けないものを書けるように整えるのが、彼女の職務だった。
ユールはバッジをかざし、ドアの向こうへ消えた。
フランス、ラセール研究センターの地下。
タイムスリップ実験の装置は、完全に停止していた。
電源系統は物理的に切断され、冷却系は撤去された。制御コアは取り外され、施錠された保管庫に移されている。装置室の扉には、二重の封印。封印には、五人分の署名があった。
カリル・ラセール。フィルウ・ブランシャール。イーシャ・バラット。ユール・ウォード。
そして、アダン・シャルル。
あの三年の終わりに、カリルの隠してきたものは、すべて明るみに出た。何度やり直したか。何を切り捨てたか。誰が、そのために死んだか。全員が知った上で、それでも彼らは同じ船に残った。
封印されたのは、「セオ」最接近の、二日前だった。
退路を断ってから、彼らは最後の一日に臨んだ。そして、やり直しではない未来を、一度きりで掴み取った。
二度と、動かさない。
誰も、これを使わない。
次に何が来ようと、前を向いたまま解く。
封印の紙の余白には、フィルウの字で、その三行が書き添えられている。
署名の日、五人は装置室の前に並んだ。イーシャが「これで終わりね」と言い、ユールが署名欄の位置を細かく指定し、アダンが最後に名前を書いた。フィルウは、書き終えてから小さく息を吐いた。
カリルは、笑っていた。
いつもの、穏やかな笑顔で。
封印を二重にすることを提案したのは、彼だった。
一重で十分だと、そのときは全員が言った。カリルは「保険だよ」と答えて、それ以上は説明しなかった。
誰も、深くは聞かなかった。
同じ建物の、地上階。
封筒が出てきたのは、片付けの最中だった。
プロジェクトが終わって、フィルウはようやく自分のデスク周りを整理していた。三年分の紙が、床にも棚にも溜まっている。その山の下から、角の丸くなった封筒が一通、滑り出てきた。
産業医からの、定期健康診断の受診勧奨。二年連続で未受診だったぶんの督促も同封されている。開封はされていた。読んだ覚えは、なかった。
行かなくてもわかっている。睡眠時間、食事の回数、この三年間の生活。数字にすれば全部悪い。予測は得意だ。悪い結果が出るとわかっている検査に時間を使うのは、彼の感覚では非効率だった。
封筒を、そのまま資源ごみの束に入れようとした。
「あ、それ」
背後から、カリルの声がした。
「行っておいでよ」
「……いや、あの」
「行っておいでよ」
「三年前のですよ、これ」
「じゃあ三年ぶんの督促だ。すごいね」
その日のうちに、フィルウは街へ降りることになった。
三回言われたら行く、というのが、この十五年で身についた諦めのラインだった。
研究センターから街までは、路線バスで四十分かかる。外に出るのは三年ぶりだった。窓から見える景色は、記憶よりずいぶん新しくなっていた。知らない店が増え、知っていた店が消えている。三年というのは、そういう長さらしい。
病院は、坂の途中にあった。
正面の階段は、二十段ほど。
七段目。
息が、うまく入らなかった。
フィルウは足を止めて、手すりを掴んだ。左の胸の奥で、何かが順番を間違えたような、短い引っかかりがあった。痛みではない。もっと薄い、けれど確実にそこにある違和感。
彼は空いた手で、セーターの上から胸を押さえた。
十秒ほど、そのまま動かなかった。
背後から、母親と子供が階段を上ってきて、彼を追い越していった。子供が一度だけ振り返って、じっとこちらを見た。フィルウは、その視線から目を逸らした。
やがて、鼓動は元の間隔に戻った。
彼は手すりから手を離し、襟を直して、残りの段を上った。
診察室で、そのことは話さなかった。
診断書は、二週間後に届いた。
所見の欄は、彼の予測より、二行ぶん長かった。
九九.九パーセントを失敗と呼ぶ男が、自分の体についてだけは、桁の粗い見積もりで済ませていた。その粗さが、そこに二行で書かれていた。
彼はそれを、デスクの一番下の引き出しに入れることが、できなかった。
しまってしまえば、それは「あとで考えること」になる。
あとで、が来ないかもしれないと、その紙は書いていた。
フィルウは診断書を封筒に戻し、カバンに入れた。




