【第十四話】聖域の地質調査(あるいはエルミアの困惑)+
翌朝、昨夜の深い霧がまだ名残惜しそうに漂う森の入り口に、小鳥のさえずりをかき消すようなサトウの容赦ない怒鳴り声が響き渡った。
「カレン! 朝からボサッとするな、測量ポールをきっちり垂直に立てろ! ポールにくっついてる気泡管の丸をよく見ろと言っただろうが。赤丸の中心に気泡が収まってねえぞ!」
「……う、うるさい! 分かっている、分かっているのだサトウ! だが少しは手加減してくれ……。私は、昨夜の『揚げマフィン』のあまりの美味さに我を忘れて食べすぎてしまってな……少々、その、胃が鉛のように重いのだ……」
かつて数多の戦場で浮名を流した最強の聖騎士は、自慢の伸縮三脚ではなく、赤と白の鮮やかな縞模様に塗り分けられた『測量ポール(ピンポール)』を泥だらけの両手で握りしめ、青い顔をして地面を凝視していた。
しかし、そんな彼女の内情を知らない周囲のエルフの若手たちは違った。
カレンが少しでもその「赤白の棒状の物体」を構えたり、重心を移動させたりするだけで、「(ひ、悲鳴を上げる銀色の槍がまた来るのか!?)」「(あの三脚無双が始まるぞ、距離を取れ!)」と勝手に戦慄し、木々の陰へと大慌てで退避していく。
だが、今のカレンには、目の前のエルフたちと戦う意思など微塵も残されていなかった。
「おい、そこを退け。エルミア。そこに突っ立ってられるとボーリング調査(地質調査)の邪魔なんだよ」
サトウが、朝露に濡れた白銀の長髪を美しくなびかせて佇むエルミアを、まるで現場の隅に置かれた邪魔なカラーコーンか何かのように手でシッシと追い払う。
数百年の歴史を持つエルフの長が、そんなぞんざいな扱いを耐えられるはずがなかった。
エルミアはエメラルド色の美しい瞳を鋭く光らせ、サトウの目の前へと一歩踏み出し、その進路を塞ぐように立ちはだかった。その手にある大弓が、いつでも引き絞れるように低く構えられる。
「無礼な人間よ。昨日も言ったはずだ、ここから先は我が同胞たる精霊たちが眠る神聖な聖域。古の盟約により、何人たりともこの大地に鉄の道具を突き立て、土を穿つことは決して許されぬ。貴公が昨日語った水脈の理屈とやらが真実だとしても、数千年の平穏を保ってきたこの地の調和を乱す権利など、貴公らのような異邦人にはないはずだ」
「平穏、調和、ねえ……。お高くとまったお説教を垂れる前に、一度でいいから自分の足元を見て言えよ。この辺りの表層はな、雨が降るたびに数ミリずつ、確実に滑り落ちてんだよ」
サトウは、エルミアから放たれる圧倒的な上位種の威圧感に一瞥もくれなかった。彼は手に持っていた十字型の鉄製工具———土壌をサンプリングするための『ハンドオーガー(手動式穿孔機)』を、体重をかけて地面へとズボリと深く突き立てた。
「なっ……! 貴公、私の警告を無視して……!」
エルミアが驚愕と怒りで息を呑むのも構わず、サトウはオーガーを数回ねじ込み、強引に引き抜いた。
そして、螺旋状の刃の隙間にびっちりと挟まった黒赤調の「土の塊」を、彼女の美しい鼻先へと躊躇なく突きつけた。
「見ろ。この表面の薄い腐植土の下の層だ。粘土層が、あり得ないくらい不自然に水分を含んでグズグズになってやがる。あんたの言う『精霊の平穏』とやらはな、土木の世界じゃ平穏とは呼ばない。物理学的に言えば『崩壊前夜の限界平衡状態』って言うんだよ。今すぐここを詳細に地質調査して、適切な排水の逃げ道を作ってやらなきゃな、あんたのその自慢の白銀の髪も、数年後の大雨の時には泥水まみれで土砂の下に埋まることになるが……。それでもまだ、そのカビの生えた盟約とやらを守るって言い張るか?」
「……崩壊、だと? バカな。この森は、この聖域は、千年前から何一つ変わらずここに———」
「千年前と今じゃ、年間降水量も周辺の地殻変動も地形の風化具合も、全部変わってんだよ。昨日今日この現場に来た人間に言われたくないだろうが、こっちは毎日毎日、狂ったように土と鉄ばかり触って生きてんだ。あんたの主観的なスピリチュアル信仰より、俺の測る『N値(地盤の固さ)』の方がよっぽど信用できる」
サトウの、一切の迷いがない、どこまでも無機質で合理的な言葉に、エルミアは完全に言葉を失った。
これまで対峙してきたどんな人間の王や英雄とも違う。精霊の託宣を仰ぐわけでもなく、森の記憶を尊重するわけでもない。
ただ目の前にある「数字」と「引き抜いた土の感触」だけで、確定した最悪の未来を予言してみせるこの男の不遜さに、エルミアは激しい困惑に包まれ、その端正な顔を歪ませた。
「……エ、エヌ値……? 貴公は……大自然を統べる精霊の声ではなく、その泥にまみれた『紙の図面』と『鉄の棒』だけを信じろと言うのか」
「ああ、そうだ。目に見えねえ精霊は土砂崩れを止めてくれないからな。———リノ、火を熾せ。キリがいいから一度休憩だ。エルミア、あんたも頭が冷えるまでこれを食っとけ」
サトウのぶっきらぼうな号令とともに、後方で控えていたリノが「はーい!」と元気よく手際を動かし、使い慣れた魔導書を片手に焚き火の準備を始めた。彼女が魔法の火種でパチパチと薪を爆ぜさせ、その傍らから取り出したのは、布に包まれた昨夜の残りの揚げマフィンだった。
火を囲み、細い木の枝の先端に突き刺されたマフィンが、炎の熱で黄金色に炙られていく。表面にたっぷりとまぶされていたシナモンシュガーが熱でじわじわと溶け出し、香ばしいキャラメル状になって、辺り一面に暴力的なまでに甘く、香ばしい匂いが立ち込め始めた。
「こうして直火で焼き直すと、表面がさらにパリッとクリスピーになり、余分なラードが程よく下に抜け落ちて、香ばしさが一段と増している。……ふむ、美味い! これならいくらでもいけるぞ! むしろ、二日目の炙りの方が味が落ち着いていて最高ではないか!」
さっきまでの青い顔はどこへやら、恍惚の表情を浮かべてマフィンを頬張り始めるカレンを、エルミアは信じられないもの、あるいは未知の怪異でも見るかのような冷ややかな目で凝視していた。
「……ふん、下俗な人間の浅知恵め。見ただけで分かる、それは油と砂糖の塊ではないか。長寿なる我が身にとってはただの毒だ。そのような洗練を欠いた無粋な食い物など———」
「焼きたては本当に絶品なんですから!」
リノが、こんがりと完璧なキツネ色に輝く炙りマフィンを、エルミアの目の前へと満面の笑みで差し出す。
香ばしいキャラメルとシナモンの匂いが、エルミアの嗅覚を容赦なく誘惑した。
エルミアは不快そうに視線を彷徨わせた後、小さく鼻を鳴らした。
「……そこまで言うのであれば、異邦の食文化の『毒見』をしてやろう。我が誇り高き肉体が、その程度の油に屈することなどない」
エルミアは白く細い指先を伸ばし、マフィンを小さく受け取った。
そして、その完璧な容姿を崩さないよう、静かに一口、かじる。
サクッ……。
小気味よい、繊細な食感。しかしその直後、熱によって完全にキャラメライズされた砂糖のほろ苦さと、ラードのコクを吸い尽くしたマフィン生地の暴力的なまでの濃厚な甘みが、これまで清廉な木の実や湧き水しか口にしてこなかったエルフの至高の味覚を、容赦なく蹂躙した。
(……なっ、何だこれは……!? 精霊の祝福が宿る果実の雫よりも、ずっと、ずっと濃密で、脳の奥が痺れるような……!)
エルミアのエメラルド色の瞳が、かつてないほどに大きく見開かれる。
あまりの味覚の衝撃に、プライドも忘れて完全に思考をロックされてしまった彼女の美しい顔を見て、サトウは手元のハンドオーガーを地面に立てかけ、ふっと口元を小さく緩めた。
「どうだ。たまにはそういう体に悪いジャンクフードを胃に入れて、脳に糖分を回した方が、まともな判断ができるだろ」
その声には、先ほどまでの刺々しい冷徹さはなく、現場のトラブルを一つクリアした時のような、どこか不器用な温かさが混じっていた。
サトウは焚き火の爆ぜる音に紛れさせるように、少し声を和らげて続ける。
「これで、もう一箇所予定していた東側の斜面の地質調査も、許可をもらったということでいいな。あんたらの大事な森だ。泥水まみれにさせないように、きっちり良い仕事をしてやるよ」
サトウのぶっきらぼうながらも確かなプロとしての言葉を、もはや遮る者は誰もいなかった。
美しきエルフの長は、顔をほんのりと赤らめて視線を泳がせながらも、震える手でマフィンの二口目へとその小さな唇を運ぶのだった。
第14話までお読みいただき、ありがとうございます。
昨夜は遅い時間まで多くの方に読んでいただけて、とても驚き、そして嬉しかったです。
これからサトウとエルミアがどんな距離感で過ごしていくのか、見守っていただけると幸いです。
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明日はキララ




