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【十三話】聖域の境界紛争(示談交渉編)+


大古の樹々がざわめき、深い森の静寂を切り裂くようにして、サトウの低く冷徹な声が響き渡った。


対峙するエルフの最高責任者———長たるエルミアは、透き通るような白銀の長髪を冷たい夜風にたなびかせていた。その切れ長の瞳は、森の深淵をそのまま映し出したかのように深いエメラルド色に輝いている。


数百年を生き、この聖域のことわりそのものである彼女は、息を呑むほどの圧倒的な美しさと絶対的な威圧感を全身から放ちながら、静かに、諭すように説いた。

「……愚かな人間よ、聞こえぬか。この地を渡る風の嘆きが。お前たちが大地に打ち込んだ不浄な杭のせいで、森の精霊たちが激しく泣いているのだ。これ以上の無礼は、森全体への宣戦布告と受け取るぞ」


「精霊が泣いてる? はっ、笑わせるな。泣いてるんじゃない、地盤が限界を迎えて悲鳴を上げてるんだよ」

 サトウは、そのおおせつかで神秘的な演説を、鼻で笑って一蹴した。


エルミアの端正な眉が、あからさまな不快感によって中央に険しく寄せられる。


言葉なき侮蔑を宿した切れ長の瞳がサトウを射抜くが、サトウはそんな彼女の冷ややかな反応を完全に無視し、泥と油のついた『境界確定図』を、彼女の美しい顔の前にバサリと容赦なく叩きつけた。


「いいか、よく見ろ。このあんたらが祀っている祠の背後だ。等高線が異常な密度で密集してるだろ。おまけに数日前の強風のせいで、上流の自然排水ルートに倒木と土砂が詰まってやがる。行き場を失った伏流水が全部、この裏山の斜面に流れ込んで、土壌の含水率が危険域に達してるんだよ。精霊の加護だか何だか知らんがな、重力と流体力学ってやつは、あんたら長命種を特別扱いしちゃくれない。このまままともな排水対策もせず、あと三回大雨が降れば、あんたらの言う聖域は物理的な土砂崩れで消滅するぞ」


「……我らの一世代、数千年の歴史を、貴公のごとき短命な人間が保証すると言うのか」

エルミアは美しい目元に鋭い険を乗せ、不遜極まりないサトウを冷徹な眼差しで見下ろす。


だが、どれほど周囲に馴染めず社会から爪弾きにされようとも、自分が「正しい」と確信した設計・構造理論だけは一歩も譲らないサトウの眼差しは、微塵も揺るがない。

「保証なんかしない。俺が言ってるのは、施工(お仕事)の話だ。放置して全滅するか、俺の言う通りに境界を確定させて排水工事を入れさせるか。――示談か、崩落か。好きな方を選べ」


さて、いよいよ本格的な実務交渉が始まるという段になって、サトウが面倒そうに背後のカレンを振り返った。

「おいカレン、そこに突っ立って遊んでないで、さっさと議事録を取れ。お前、聖騎士団時代に戦果報告書だの始末書だのを書いていただろう。あとで『言った言わない』の泥沼のトラブルになるのは御免だ。そこに積んである野帳フィールドノート石筆せきひつを使え」


「なっ……! 貴公、この私に、書記をやれというのか!? かつて王宮の大調印式において、国王陛下のすぐ隣に栄誉ある護衛として控えていた、この私に!」

カレンは誇り高い顔を真っ赤にして猛然と反論した。


しかし、サトウの「仕事の邪魔をするな、使えない奴は現場から去れ」と言わんばかりの、どこまでも冷ややかで事務的な視線に射抜かれ、ぐっと言葉を飲み込んだ。ここで現場を追い出されれば、今夜のデザートが消滅する。

「……ええい、ままよ! 書けばいいのだろう、書けば!」


カレンは騎士としての誇りと栄光を一旦伸縮三脚の脇に置き、ゴツゴツとした石筆を慣れない手つきで握り締め、耐水性の野帳を広げた。

そうして始まったのは、この世で最も奇妙な交渉だった。


エルミアが厳かに語る「森の数千年の神聖なる歴史と精霊の権利」という抽象論と、サトウが淡々と突きつける「来月の平均雨量予測と斜面の最大摩擦係数」というガチガチの現実論。あまりにも噛み合わない二人のやり取りを、カレンは必死の形相でガリガリと野帳に書き留めていく。


(……私はかつて、大陸の運命を左右する三大国の和平条約に立ち会った。……それが今、なぜ森の入り口で、エルフを相手に『不法占拠の示談金』と『法面のりめん補強工事の坪単価』の記録をつけているのだ……!)


サトウが最後に突きつけた「損害賠償および施工見積書」を、エルミアは白く細い指先でつまみ、見たこともない複雑な数式の羅列に困惑した表情を浮かべた。


「……サトウと言ったか。あいにくだが、我ら森の民には貴公らの言う『通貨』という概念は存在しない。この白き紙切れに並んだ数字に、一体何の意味があるというのだ」

資本主義のルールが、根本から通用しない相手。


これにはサトウも手詰まりか、とカレンが「(……詰んだか!?)」と息を呑んだその時、それまで後ろで測量機を守っていたリノが、待ってましたとばかりに元気に身を乗り出した。

「サトウさん! お金が無理なら、得意の『材料現物支給』で手を打ちましょう! ———エルミアさん、その衣服の装飾に使われている、透き通るような輝きの『精霊銀ミスリルの原石』。あれを今回の賠償金、兼、裏山の排水工事の着工材料費代わりに、まとまった量で譲ってくれませんか?」


「……精霊銀か。あれは我らにとっては、加工が少々面倒なだけの、ただの硬い石だが……。そんなもので貴公らの気が済むというのか?」


リノのその素晴らしい提案を聞いた瞬間、サトウの目が、冷徹な現場監督のそれから、極上のジャンク品を見つけた時の「変態的な職人」のそれへとギラリと変わった。


超高硬度でありながら、魔導回路の伝導率が極めて高い伝説の金属、ミスリル。


サトウの頭脳の中で、その素材を【万物再利用リユース】して生み出せる、新たな最強の工具や重機パーツの設計図が秒速で何十通りも組み上がっていく。


交渉の主導権は、一気にサトウのフィールドへと舵を切った。

「交渉成立だ。精霊銀の現物支給で手を打とう。その代わり、上流の排水ルートの土砂撤去と、祠の裏手の法面補強は、俺の現場チームが完璧に施工してやる」


(サトウ、貴公……ついにこの世界の誰もが恐れるエルフの長を相手に、恐喝まがいの『公共事業』の営業を成立させたのか!?)

カレンは内なる戦慄を抑えきれなかったが、それでもその驚天動地の交渉内容を、無駄に美しい騎士団流の流麗な筆致で野帳に克明に刻み込んだ。


もはや、サトウという男の辞書に「不可能」という文字はないようだった。



張り詰めた緊張の交渉がようやく終わり、エルミアたちが資材調達のために森の奥へと引き上げていった後、カレンは完全に精根尽き果て、森の入り口の切り株にドサリと座り込んでいた。


「本当にお疲れ様です、カレンさん! はい、約束の、頑張ったカレンさんへの特別ご褒美です!」

駆け寄ってきたリノが差し出してきたのは、油がじっとりと染み込んだ茶色い紙に包まれた、ずっしりと重く、熱々の塊。

———現場一番人気の伝説の飯、『揚げマフィン』だった。

 サクッ……。


夢中でかぶりついた瞬間、小気味よい音が静夜の森に響く。


上質なラードで限界まで高温で揚げられた表面は、信じられないほどに軽やかでサクサクとした歯触り。


しかしその直後、中に閉じ込められていたふっくらとした生地から、じゅわりと濃厚な脂の旨味と、これでもかとまぶされたシナモンシュガーの暴力的なまでの甘みが、疲弊しきった舌の上へと溢れ出してきた。


(……ああ、脳が、脳の芯が溶けていく……!)

全身の細胞が一瞬で糖分と脂質を吸収し、歓喜の悲鳴を上げている。

騎士の誉れも、宮廷の栄光も、エルミアのあの世にも美しい美貌すらも、今この瞬間、俺の口内を支配している「一切れの圧倒的な脂」の前では、文字通り塵に等しかった。


「美味すぎる……。美味すぎるぞ、サトウ……!」


揚げマフィンの激しい脂で少し汚れてしまった、しかし完璧に役目を果たした議事録の野帳を大切そうに脇に抱えながら、カレンは静かに、だが獲物を貪る猛獣のような力強さで、幸福の二口目を大きく頬張るのだった。


第13話までお読みいただき、ありがとうございます


ついにエルフとの出会いまで辿り着きました。

続きが気になる方は、ぜひブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。


明日はキララ

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