【十二話】境界線の攻防(三脚無双)+
深い霧が、大古の樹々がうっそうと生い茂る森の境界線を覆い隠していた。
昼なお、暗いその場所は、湿った土と青臭い苔の匂いに満ちており、外界の喧騒を拒絶するような重苦しい静寂が支配している。
「無知なる人間よ。ここは古き精霊の息吹が宿る聖域である。我らが森が拒絶した呪わしき杭を、再び大地に打ち込もうとは……。その身の死を以て、聖域を穢した罪を贖うか?」
霧の向こうから音もなく姿を現したのは、透き通るような白肌と鋭い耳を持つ、エルフと精霊たちだった。
鈴を転がすような鈴鳴りの声は美しいが、そこに込められた響きは凍りつくほどに冷酷だ。
その背後には、完全に気配を消した十数名のエルフと精霊たちが、抜き身の細剣と、限界まで弦を引き絞った大弓を構えて一糸乱れぬ陣形を敷いている。
並の人間であれば、その森の軍勢の威圧感に気圧され、命乞いでも始めるところだろう。
だが、現場の指揮を執る男━━━サトウは怯むどころか、泥と指紋のついた『境界確定図』を乱暴に広げ、不機嫌そのものといった様子でフンと鼻を鳴らした。
「精霊の息吹? 悪いが、こちらの公的台帳にそんな文言は一切記載されていない。法的に測定不可能なエネルギー体に、土地の所有権や占有権を主張する根拠はないぞ。この杭は、王国政府の都市計画および国土開発法に基づいた、正当な『境界標』だ。これをお前ら、引き抜いてこちら側の敷地に不法投棄したな? 刑法第二百六十二条の二、境界損壊罪の疑いで告発してもいいんだぞ、あぁ?」
「……サ、サトウ、貴公。なぜ神聖なる精霊の民を相手に、聞いたこともない法律と役所の論理で真っ向から殴りかかっているんだ……!?」
サトウの斜め後ろで、元聖騎士のカレンが顔を引きつらせて戦慄している。
エルフは、サトウの放った「キョウカイソンカイ」という未知の単語の意味は理解できなかったが、それが自分たちを侮辱する言葉であることだけは察したらしい。完全に交渉決裂と判断し、細い指をパチンと鳴らした。
「狂人が。森の塵となれ」
直後、大気が激しく振動した。
地面から急速に這い出てきた茨の蔦が、まるで意思を持つ蛇のようにうねりながらサトウの足元を狙って急襲する。同時に、エルフの放った鋭い突風の魔法が、視界を遮るように吹き荒れた。
「リノ! レベル(オートレベル・測量機)を死守しろ! 衝撃で気泡管の軸がズレたら工期が飛ぶぞ! カレン、作業エリアの安全を確保しろ、要するに不審者の警備だ!」
風圧で作業着の襟をパタパタと鳴らしながら、サトウの非情かつ的確な現場命令が飛ぶ。
「了解ですっ!」と、後方で魔導書を抱えた見習い魔導士のリノが、必死の形相で三脚の上の測量機を庇った。
カレンは反射的に「ハッ!」と腰の剣へ手を伸ばした。
だが━━━そこに差し込まれていたのは、
昨夜、サトウから「道具の手入れを怠るな」と渡され、夜通し磨き続けていた『鉄製ワイヤーブラシ』しかなかった。
本物の剣は、サトウの「現場への武器持ち込みは施工主への心象が悪い」という謎のポリシーによって、資材搬送車の中に置いてこさせられていたのだ。
「……ええい、ままよ! サトウ、貴公はそのまま測量を続けろ! ここから先は、たとえ精霊の軍勢であろうとも一歩も通さん!」
カレンは、足元に置いてあった資材搬送用の『アルミ製・伸縮式三脚』を、ひったくるようにして両手で掴み取った。
(私は一体、何をプロフェッショナルとしてやっているのだ!? かつては聖騎士団の副長として、不退転の覚悟で巨龍を屠ったこの私が、なぜ今、見たこともない銀色の測量機材を武器にしてエルフの精鋭を追い払おうとしている……。だが、待て。この三脚……サトウが万物再利用で調整しただけあって、重心のバランスが絶妙すぎる。驚くほどに、我が手の延長のように馴染むぞ……!)
シュッ、と風を切る鋭い音が鳴る。カレンが三脚を槍のように旋回させた。
襲いかかる茨の蔦に対し、彼女は三脚の脚を固定するロックラッチを親指で弾き、瞬時にスライドさせて間合いを倍に伸ばした。
━━━━━ズバァンッ!
伸縮機能を利用した、間合いの測れない変則的な一撃。
三脚の強固なアルミ合金の脚が、肉厚な茨の蔦を容赦なく叩き潰し、千切り飛ばした。
それはエルフの剣士たちの戦闘経験には存在しない、あまりにも予測不可能な軌道を描く打撃だった。
「な、なんだあの鈍色に光る奇妙な長槍は!? 魔法の蔦を物ともしないだと……!?」
動揺するエルミアの射手が、続けざまに三発の精霊の矢を放つ。
しかし、カレンは動じない。三脚の先端にある、地面に突き刺すための尖った金属部分「石突」を最小限の動きで突き出し、飛来する矢をピンポイントで次々と弾き飛ばした。
カレンの動きは、もはや伝統的な騎士剣術の域を完全に超越していた。
現場の機材を極限まで使いこなす、異世界唯一の「三脚術」の開祖として、その動きは洗練を極めていく。
「カレンさん、ナイスガードです! そのままエリアを死守しきれたら、今夜の現場デザート、私がリクエストして『揚げマフィン』を特製ラードで作っちゃいますからね!」
後方から、リノの弾んだ、しかし確実に胃袋を刺激する声が戦場に響き渡った。
カレンは三脚でエルフの細剣を受け止め、強引に押し返しながら叫んだ。
「リノ、今なんと言った!? 揚げ……マフィンだと!?」
「はい! マフィンを良質なラードで表面がカリッカリになるまで揚げて、仕上げにシナモンシュガーをこれでもかってくらい、たっぷりまぶすんです! 外はサクサク、中はふっくらジューシー。サトウさんの現場で肉体労働をした後に食べると、脳が溶けるほど美味いっていう、現場一番人気の禁断のハイカロリーおやつですよ!」
ゴクリ、とカレンの喉が派手な音を立てて鳴った。
(……表面がサクサクで、中はふっくら、だと? 確かに、昨日の泥まみれの重労働と、サトウの細かい指示による精神的疲弊で、私の肉体と脳は今、糖分と脂質を何よりも欲している……!)
「━━承知した! 現場の平和と、工期の厳守、そして揚げマフィン……いや、サトウの背中は、この私が命に代えても死守するッ!!」
カレンの瞳に、かつて魔王軍の幹部と対峙した時ですら見せなかった、凄まじいまでの餓狼の如き決意の炎が宿った。
彼女は伸縮三脚を天高く掲げ、そのアルミボディに膨大な聖なる魔力を流し込んだ。キィィンと金属が鳴動する。
「シマを荒らす不審者は、全員退場だぁぁぁッ!」
カレンは一歩踏み込み、三脚を一気に真横へと薙ぎ払った。
アルミ合金の圧倒的な剛性と、聖騎士の魔力が生み出した凄まじい衝撃波が霧を吹き飛ばし、襲いかかっていたエルフの斥候たちを「殺さぬよう、しかし確実に骨を折る手応え」を以て、十数メートル後方へと一網打尽に吹き飛ばした。
「……よし。視準、よし。ポイントの再固定完了。測量誤差、許容範囲内につきゼロ。杭の打ち直し、施工完了だ」
火花が散り、衝撃波が吹き荒れる戦闘の真っただ中。サトウは髪の毛一本すら乱さず、完全に微動だにしないまま、カレンが命がけで死守した三脚の上に据えられたレベルの覗き穴から目を離さなかった。
その、周囲の命のやり取りすら「ただの現場の雑音」として処理する異常なまでのプロ意識(職人気質)に、生き残って地面に倒伏していたエルフたちが、恐怖を通り越してガタガタと戦慄する。
━━━━━━その時だった。
森のさらに奥深い闇から、周囲の空間そのものを押し潰すような、圧倒的な魔力のプレッシャーが漂い出してきた。
ひときわ濃い霧を割り、長い銀髪を厳かに揺らして姿を現したのは、この大森林の絶対的な主たる「エルフの長」であった。その瞳には、数百年を生きた深い智慧と、冷徹な絶対者の威厳が満ちている。
「……傲慢なる人間よ。この我が森の理を乱し、精霊の土地を侵した対価、高くつくぞ」
カレンが再び三脚を構え直して身構える。
だが、サトウはため息をつきながら、手元の図面をパサリと綺麗に折り畳むと、胸のポケットから一本の油性マジックペンを取り出した。
「あんたがこの施工エリアの最高責任者か。ちょうどいい、話が早くて助かる。はいこれ、境界標の不当占拠、および敷地内への廃棄物の不法投棄。さらには正当な公務(施工)執行妨害による工期遅延の賠償金、ならびに再測量にかかった追加人件費だ。概算の見積書を作っておいたからな。さあ、突っ立ってないで、落ち着いて話ができるお前らの村の会議室(長老殿とか)へ案内しろ」
サトウがエルフの長に向けてパシィィンと突きつけたのは、請求書という名の、一切の妥協を許さない冷徹な宣戦布告だった。




