17
ゆっくり開けられたドアから、普段とは違う、寛いだ格好の陛下が入って来られた。湯浴みも終えられて、ゆったりとしたガウンを羽織っている。普段なら見えることのない、鍛えられた胸元も見えてしまい、顔が熱くなるのが分かった。
「お、お待ちしておりました、陛下」
「あぁ」
付いてこられた護衛騎士に目配せをし、護衛騎士は礼をして下がっていった。ティナも一礼して下がり、ドアが閉められた。扉の前に護衛騎士が控えてはいるだろうけれど、これで部屋の中は私と陛下だけだ。二人きりで過ごすことなんて、ここに来てからは初めてのことで、余計に緊張が高まってしまう。
「あの、お、お酒はお召しになられますか?」
「そうだな。一杯貰おう」
「畏まりました」
陛下がソファに腰掛けたのを横目に、ティナが用意してくれていたお酒をグラスに注ぐ。そこではたと気付く。このお酒の毒味はどうすべきなのだろうかと。
私はまだお酒が飲めないし、飲んだこともない。今ここで毒味として口にしたところで、何も判断ができなそうだ。それともここに来る前に毒味は済んでいるのだろうか…。
「毒味の心配はいらないから、そのままもってこい。そしてお前も座れ」
「は、はい」
どうぞとお酒を渡すと、すぐに陛下は一口煽った。ゴクッという音と共に喉仏も動き、思わず息を飲んだ。
「いつまで突っ立ってるつもりだ。早く座れ」
「は、はい…」
どこに座るか少し悩み、恐る恐る陛下の隣に座った。いつもの陛下とは違う、湯浴み後の匂いにやはりドキドキしてしまう。
「何もとって食べはしない。そんなに固くなるな」
「あ…」
お酒を持つ手とは逆の手で頭を撫でられ、またもドキドキが強まる。恐る恐る目線を上げると、優しい瞳をした陛下と目があった。
「まさか、あの時の娘がお前だったとはな」
陛下の目が細められた。
「大きくなった」
「……はい」
少し目が潤んできた。陛下の顔が歪んでしまう。
「少し、昔話をするか」
そう言って陛下は残っていたお酒をグイっと飲み、私の頭から手を離し、テーブルに置いてあったお酒を注いだ。流れるような動作に惚けた後、お酒を注ぐのは私がしなければならないことだったことを思い出して慌てると、気にするなと頭を撫でられた。
「お前と出逢った時、あともう少しでこの馬鹿げた争いに終止符を打てるという時だった。いくら戦況が優勢といえど、兵士たちは疲労していたし、俺も…疲れていた。だが、それは味方にも悟られてはいけなかったから、気を抜ける時はなかった。しかし、自分で選んだこととはいえ、罪のない民が命を奪われて道端に転がされているのを見るのは辛かったし、殺戮を繰り返した俺も、兵士たちも、気が狂う寸前だった。だから、本当はお前のいた町で足を止める予定はなかったんだ」
「そう…だったのですか」
「足を止めれば、気を保てなくなると思っていたんだ。…お前を殺そうとしていた兵士は、自国のものだっただろう?」
「…はい。そうだったと、思います」
そう、私の母を殺したのも、私を殺そうとしたのも、自国の兵士だ。気が狂い、私たちに、剣を向けた。私達だけではなく、町の他の人も、自国の兵士に命を奪われた。それを陛下が諌めてくれたのだ。
「だが、お前を助けた後、お前は声もなく縋ってきたな。あの時、張り詰めていたものが緩んだ。一度ゆっくり休み、体制を立て直そうと思えた。それに、お前を捨て置くのは、さすがに気が引けた。両親を亡くしたばかりで、気が触れてもおかしくない状況で、ただ涙を流しながら俺にしがみついていたな。こいつを守らなくて、何を守るんだと、そう思ったんだ。そして、自分達が何のために戦っているのかを、考え直すことができた。あの時の俺たちに必要だったのは進軍を急ぐことではなく、立ち止まって休息する時間だった」
陛下は琥珀色のお酒が入ったグラスをじっと見つめていた。あの時のことを思い出して、自分を戒めているんだろう、そう思った。グラスを握る手に、すごく力が篭っていたから。
「お前と過ごした時間は、忘れていたものを思い出させてくれた。あの時お前に出会わなければ、俺はこの国も、何もかもを守れていなかったかもしれない」
「そ、そんな…私は…」
「お前は、あの時も今も、俺を怖がらないな」
「…陛下は…いつも優しいです…から…」
「そんなことを言うのは、お前くらいだ」
「でも…初めて会った時から、優しくしてもらったことしかありません…。魘されている時は優しく頭を撫でてくれましたし、熱で苦しんでいる時は何度も冷たいタオルで汗を拭ってくださいました。夜が怖いといえば、一緒に眠ってくださいました。陛下は、いつも、いつも優しかったです」
「そうか…」
陛下は、少し照れたように笑ってお酒を口にした。グラスを握っていた手が、少しだけ緩んだように見える。
「…あの時の私は、父も母も死んでしまって、一人になってしまって、生きる希望も何もなくしかけていたんです。でも、陛下に助けてもらって、たくさん優しくしてもらって、この国にこの人がいるのなら、生きていけると思いました。助けてもらったんだから、生きなければ、と。でも、生きるのは思っていたよりも辛くて、苦しくて、でも、…でも、投げ出すなんてできなくて」
この国で黒目黒髪は忌み嫌われるから、謂れのない中傷を受けることは多かった。神父様やシスターが守ってくれていても、四六時中一緒にいてくれるわけではない。町で、酷い扱いを受けることは一度や二度ではなかった。
孤児院でも、初めはいい目では見られなかった。年下の子には怖がられ、年上の子には嫌悪された。見た目を変えることはできないし、変えたくもない。大好きな母が残してくれた、大好きな母と一緒の色だから。
だから、自分にできることを一生懸命した。できる仕事は率先してやったし、下の子たちがお腹が空いたと言えば、自分のご飯を分けた。頑張って、頑張って、孤児院での自分の居場所は確立した。
でも、その先が、どうにもならなかった。孤児院の外で生きる方法を見つけられなかった。気まぐれな貴族の方がマナーを教えてくれても、いろいろな仕事を身につけても、町の人は私を受け入れてはくれなかった。ただの穀潰しにしかならない事実が、重たかった。辛かった。
「そんな時に、ドルガ伯爵がいらっしゃったんです」
ゴクリと、陛下がお酒を飲んだ音がし、グラスをテーブルに置いた。陛下の視線を感じたけれど、私は両手を胸の前で握り、そのグラスを眺めた
「孤児院が救われるなんて…私にとって、大義名分でしかなかったんです」
「大義名分?」
「……孤児院を出たかったんです」
「前も言っていたな」
「それから…陛下に……会えるかもしれないと……思いました…」
誰にも言っていなかった、私の、下心。
「孤児院の妹と弟達に、もっといい思いをさせてあげたいと思ったのは本当なんです。でも、陛下に会えるかもしれないと思ったのも、事実で。…私は…、ずるい人間です。本当の望みは、どちらだったのか…自分でも分かりません。…分かりたくないのかも…しれません…。私が、ドルガ伯爵を、利用したんです。私は、ずるい…」
人身売買なんかじゃ、なかった。私は買われていないし、売られていない。自分の意思で、自分の目的のために、ここに来た。私は、かわいそうなんかじゃない。
「だが、お前は、俺の前に姿を現さなかった」
痛いほどの視線を感じるけれど、自分がずるいことをしている自覚があるからか、私の視線はどんどん下がっていく。
「…怖気…づきました…」
「何故?」
「特段美しくもない、棒っきれのような女が、陛下の前になんて…と。怖くなって、隠れました」
あの時助けて貰った娘が、こんなにズルくなってしまったなんて、知られたくなかった。嫌われたら、もう生きていけなくなりそうで、怖かった。
「俺に、会いたかったか?」
「…会いたかった…です。毎日、焦がれていました」
「お前はズルくなんてない。ただの可愛い女だ」
「え?」
そう言って陛下は、私の身体を抱きしめた。




