16
午前中のお茶の時間は、茶菓子に手をつけることはなかった。
昼食は、なんとか全部食べる事ができた。
午後のお茶は、どうしてもとお願いをして、ティナにも同席してもらい、なんとか茶菓子を食べた。
そしてついさっき、なんとか夕飯を食べ終え、湯浴みをし、身支度をしているところだ。
お茶の時間の茶菓子と、食事はきちんと摂るようにと、陛下に命じられていることは守らなければと必死だった。今夜は陛下がこの部屋にいらっしゃる。食べていないのに食べたなどという嘘をつく自信はなかったので、食欲はあるのかないのかいまいちだったけれど、ティナの応援もありなんとか食べていた。
必死になっていないと、混乱に飲み込まれてしまいそうで、怖かったというのもあるけれど。
「ねぇティナ、私貴族じゃなくなってしまったわ」
「そのようでございますね」
「…嫌じゃないの?」
「この間私がお伝えしたことに変わりはありませんよ。貴族でなくてもいいではありませんか」
「…ティナは…優しいのね」
「ユーシェ様が優しくしてくださるからですよ」
髪の毛を梳かしながら、鏡ごしに話していた。ティナの優しい手つきに、瞼が重くなってくる。
今日という1日はまだ終わっていないけれど、もうすっかり疲れてしまっていた。
「このままうとうとしていても大丈夫ですよ。陛下がいらっしゃる頃にはお声をお掛けしますから」
「ティナに髪の毛を触られるとなぜか眠くなってしまうのよね。でもせっかく気持ちいいから起きているわ」
「嬉しいお言葉でございます」
何度も何度も櫛で梳いて、ティナは私の髪を整えながら、微笑んだ。その微笑みが、いつもと変わらないことに、心の中で涙を流す。
私は貴族ではないから分からないけれど、貴族が自分より身分の低いものに仕えるなんて、嫌なはずだ。それも、平民の、孤児なんて。だから、女官長が何度勧めてきても、侍女を増やすことはなかった。
ティナから嫌だと一言でも言われれば、辞めて他のご令嬢に仕えることができるように女官長に言うつもりだったのだ。でも、ティナは私を叱ることはあっても、嫌そうにすることはなかった。後宮のことどころか、貴族としての務めも何も分からない私に、厳しくも優しく教えてくれたのはティナだった。
「ユーシェ様は、陛下にお会いしたことがあったのですね」
「そう…。覚えていてくださったなんて、驚いたわ」
「何か、特別なことがおありだったのですか?」
「特別…だったのかしら。私にとっては特別だったけれど、陛下にとってもそうだったのかは分からなくて」
助けられた私にとっては、特別なことであったのは当たり前で。ずっと胸の奥に大切にしまってきたこと。
「内緒よ。陛下に助けて頂いた後、何日か一緒にいたの」
「一緒に…でございますか?」
驚きでティナの手が止まった。驚いても手だけは止めないのがティナだから、余程だったのだろう。
「助けて頂いた時にはもう母は亡くなっていたの。私も怪我をしていて、動けなかったわ。それと、目の前で父と母を亡くしたショックからか、声が出なくなってしまっていてね。哀れに思ったのか、陛下はちょうど私の町を制圧したところで敵国の様子を窺うことになっていたからと、私を手当てして休ませてくださったの。お食事を頂いたり、怖い夢にうなされる私をなだめてくださったり…。お別れの日まで私の声は戻らなかったけれど、怪我をして帝都に戻ることになっていた軍人の方と一緒に、私を帝都の孤児院まで送り届ける事を約束してくださって、その通りになったわ。当たり前だけれど、そこで陛下と別れてから、ここでお会いするまで、一度だって会ったことはなかったの」
その時はその人が陛下だとは知らなかったけれど。身体のいたるところに血が付いていて、ギラギラとした目つきはとても怖かったはずなのだけれど、その時の私はなぜかそうは思わなかった。自由に動かない身体で、その人の身体に怪我はないかと、懸命に手を伸ばした。結果として、その人はかすり傷程度でほとんど怪我はしておらず、身体についていた血は返り血を浴びたのだと分かった。
私の両親が死んだことと、私の声が出ないのだと知ると、一層顔を顰めて、自分の野営テントに連れて行ってくれた。医師と思われる人に私の治療をさせ、熱を出して寝込んだ私の世話をしながら、そこで会議や何かをしているようだった。
お別れの日、声もなく泣く私の頭を撫で、すぐに戦争は終わるから、しっかり生きろと言って馬に乗って行ってしまった。その人とは、それきりになった。
「もしかして私が陛下とディル様を見分けることができたのは、10年前にお会いしたことがあったからなのかしら」
「それは違うと思います。昔から勤めている大臣や女官も見分けることができないと思います。それから、耳に挟んだだけで気にしていなかったのですが、ユーシェ様が陛下と会っている時間に、陛下が後宮を散策していたり、他のご令嬢方とお茶会をされているという話がありました。まさかと思っていたのですが、ディル様にお会いしてそれは本当のことだったのだと分かりました。陛下の代わりに、ディル様が他のご令嬢方のお相手をされていたんだと。そして、ご令嬢方はそれに気付いていらっしゃらなかったのでしょう。ユーシェ様は、ディル様のことを知る前から、ディル様は陛下とは違うと気付いていらっしゃった。ですから、ユーシェ様は、ご自分の目で陛下とディル様を見分けられているのだと思いますよ」
そう言いながら、ティナはまた私の髪を梳いていた。微笑みながら、優しく。
誰も、陛下とディル様を見分けることができない…。私だけ…?本当に、そうなのだろうか。ティナは嘘をつかない。けれど、自分だけが特別だとも…思えなかった。
「なんだか、嬉しいです。ユーシェ様とこんな風にお話しできることができて」
「え?」
突然話を変えた鏡の中のティナは、本当に嬉しそうに笑っている。そういえばこんな表情のティナを見るのは初めてだ。
「ユーシェ様はいつもどこか距離を取ってらしたでしょう?陛下とお会いするようになってからのユーシェ様は、緊張が解けたというか…、いろんなことをお話ししてくださるようになって、嬉しいです」
「ティナ…」
ティナは聡いと思っていたけれど、それは正しかったのだと実感する。そして鋭い。
あまり馴れ馴れしく話しかけてはいけないと思っていたのだ。貴族の養女になったとはいえ、所詮孤児だ。棒っきれのような身体の、何も秀でていない小娘が突然仕える主人として現れて、それを嬉々として受け止めるものなどいないと思っていたから。
当たり障りのない話を選んでしていたことも、分かっていて付き合ってくれていたのだろう。ティナには頭が上がらない。
「私ね、今すごく緊張しているの」
「はい」
「陛下がいらっしゃる事もそうだけれど、私のした選択が、本当に正しい事だったのかって、どうしても考えてしまうのよ」
今日は午前のお茶の後から、ずっと胸がドキドキしていた。考えないように違う話ばかりしていたけれど、もうタイムリミットは間近だ。ティナの髪を触る手にうっとりしながらも、迫り来る時間にどんどん胸の鼓動が煩くなっていた。
「皇妃になるだなんて考えた事もなかったし、自分にできるかも分からない。すごく不安だし、本当に私でいいのかって考えてしまうの」
「ユーシェ様がそうお思いになるのは当たり前のことですよ。そして、私はユーシェ様の選択を、心から嬉しく思っております」
「ティナ…、これからも側にいてくれる?」
「もちろんでございます、ユーシェ様」
「貴方が嫁ぐ時までには、もっとしっかりできるようにするから。貴方が安心してここを辞することができるように」
「何度も申し上げておりますが、私は末端貴族ですし、結婚の予定はございません。一生ユーシェ様にお仕えする所存ですので、ご安心ください」
「そ、それはダメよ。ティナは素敵なんだから、ちゃんとした人を見つけなくちゃ」
今夜をもって、私は一生ここから出ることはできなくなる。私の人生は、陛下のために。けれど、ティナはそうではない。
「でしたら、ユーシェ様が私に見合った方をご紹介してくださいませ。ここに仕える侍女の中には、主人の世話をしながら、結婚相手探しをしている者もたくさんいるそうですよ。むしろそちらが本命のようですけれど」
「…ティナもそうだったの?」
「実は、親にはそう言われております。私としてはどちらでも構わなかったのですけれど。ですが、ユーシェ様にお仕えするようになって、その気持ちは消えてしまいましたの」
「え、何故?」
「だって、結婚してしまったらユーシェ様のお側にいられなくなりますでしょう?」
「え、えぇ?」
知らなかった侍女の裏事情を知って驚いているところに、ティナの気持ちを重ねられて、ますます驚いてしまう。
「ですから、ユーシェ様がご紹介してくださらないうちは、私は結婚しないことにしますね」
「……私、ティナの事、何にも知らなかったのね」
少し意地悪く笑うティナを見て、眉を下げた。半年も一緒にいたのに、こんな風に話をするのは初めてで、新しく知ることばかりだ。
「これから、もっと知ることができますよ。時間はたくさんありますもの」
「そうね。ありがとう、ティナ」
いつの間にか髪の毛は軽く結い上げられていて、支度は済んでいた。
緊張しっぱなしだった私の身体も、ティナのおかげで少しほぐれていた。ティナは本当に優秀な侍女だと思う。
そして、ドアを叩くノックの音が響いた。
ティナとのイチャイチャ話になってしまった…。そんなつもりではなかったのに…。




