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私の記憶の中のあの人は、どこかとても寂しそうで、辛そうで、消えてしまいそうな人。そして、とても優しい人。私に、とても優しくしてくれた人。全てを失った私に、大切なものをくれた人。
ずっと、ずっと会いたかった人。でも、手が届くはずのなかった人。
なのに。
「へ、陛下…、今何と…」
目の前で真剣な顔をしている陛下に、無礼を承知で聞き返した。先程陛下が私に言った言葉が、余りに信じられなすぎて、聞き間違いかと思ったのだ。
「お前を妃にすると言った。もちろん皇妃としてだ。それから側妃をとるつもりはない。俺の妃は1人で十分だ」
「………」
聞き間違いではなかった…ようです。
思わず口をぽかんと開けて陛下を見つめる。普段ならはしたないと叱ってくれるティナも、驚いて口元に手を当てて立ち尽くしていた。陛下の後ろに仕えているディル様も目を丸くしている。
「ユーシェ、今度は聞こえたか」
「……は、はい。は…い…。え、え…?」
私が、陛下の妃に…?しかも皇妃?私が、陛下の隣に立つ…というの?私が?
混乱状態に陥った私に返事を急かすでもなく、陛下はただ、じっと私を見つめていた。
「あの、わた…私…ですか?」
「そう言っている」
「その…、私では…身分とか…色々と釣り合わない…と、思うのですが…」
「そんなことはどうでもいい。あぁ、だがドルガの養女というのは面倒だから、勝手で悪いと思ったが、お前とドルガとの養子縁組は白紙撤回した」
「え!では…」
「お前は今はただの孤児だ。貴族ではない」
「……」
貴族になりたかったわけではなかったけれど、貴族で無くなってしまうと今度は私がここにいる意味がなくなってしまう。誰よりも身分が低くなってしまった今、ティナとさえ口をきけなくなってしまう。だって、ティナは私と違って本物の貴族なのだから。たまたま私に付いてくれていただけの、貴族の令嬢なのだから。
「変なことばかり考えるな。後宮に入るのに必要なのは身分ではない」
「ですが、貴族でないのなら、私に…価値など…」
「ふざけた事を言うな」
「…っ!」
怒気をはらんだ、けれども静かな声が聞こえ、私の身体はビクリと跳ねた。
「俺は言ったはずだ。お前には俺の隣に座るだけの価値があるのだと。俺の隣にいる存在を卑下するのは許さない。それがお前本人でもな」
「…も、申し訳ありません」
怒りを感じさせる鋭い瞳に射抜かれ、身体が硬直してしまう。なんとか謝罪をしたものの、頭を下げることが出来ず、視線を落とすのが精一杯だった。
「身分が気になるというのなら、ディルの家に養子縁組をさせる」
「え!?」
「あいつの家なら申し分ない。ドルガよりはるかに格上だ」
「…え…」
ディル様を見ると、初耳だったようで目を丸くしていた。
「俺のところだと権力が集中しすぎるだろ」
「どうせ元々独裁だ。何を今更。それに、他のところに行かれた方がはるかに面倒だ。独裁の方がマシだろ」
陛下は後ろにいるディル様を見る事なく、淡々と告げた。ディル様は軽く頭に手を当て、「検討する」と言い、ため息をついた。
なんだかもうどんどん話だけが進んでしまって、私は置いてけぼりの気分だ。喉はカラカラで、でも握った拳の中は汗が滲んでいて。
たまらずにティナを見ると、しっかり立ってはいるものの、同じように混乱している目をしていたので、少しホッとした。
「いいか、ユーシェ。俺が求める妃への条件は、二つだ。俺とディルを見分けられることが一つ、もう一つは、俺が気に入ること、だ」
「…陛下と…ディル様を見分けられる方は…他にもいらっしゃるのではないのですか…?」
「ティナ。お前は気付いたか」
「申し訳ありません。私は気付けませんでした」
「気にするな。ディル、俺とお前を見分けられる奴は他にいたか?」
「俺の知る限りいませんね。さっきユーシェ殿に言いましたが、親以外見分けられる人はいないんですよ。この国の大臣も、この後宮にいるあなた以外の誰も」
まさか私だけではないだろうと進言したというのに、陛下にあっさりとそれをかわされ、ディル様にもなんだか大変なことを言われ、冷や汗が出てきてしまった。そういえば確かに先程ディル様はそんなことを言っていた。こんなに大事だとは思っていなかったので、あまり気に留めていなかったというのに…。
「あの…今日が…たまたま…だったとしたら…どうなるのでしょうか…」
親以外に見分けられないと改めて言われ、もともとさほど持っていなかった自信が崩れかけていた。
さっきは全然違うと思ったけれど、次も同じように気付けるのか、自信が持てなかったのだ。
「ディル」
「入れ替わりの可能性を知らされずに気付いた時点で、たまたまなどはあり得ないと思います。俺が部屋に入った時点で気付いていたでしょう。そして迷う事なく誰かと尋ねてきた。顔を見ず声だけでも気づくことはできると思いますよ」
「だ、そうだ。ディルの言うことなら間違いないだろう。そして俺はお前の直感を信じる。それと、俺が気に入っているのはお前だけだ、ユーシェ」
さっきとは違う、まっすぐな瞳で見つめられ、心臓がドクンと跳ねた。
これは、逸らしてはいけないと、直感で思う。けれど、何か話そうと口を開いても、声が出てこない。何か話さなければと思うけれど、ただ息を吐くことしかできない。
陛下が私を気にいってくださっている。その事はとても、とても嬉しい。ずっと、ずっとお慕いしていたから。傍にいたいと、何度も思ったから。けれど、私は…。
「ユーシェ」
耐えきれずにぎゅっと目を瞑り、俯いてしまった私に、陛下の声が落ちてくる。衣擦れの音がし、陛下の香りがすぐ隣から届いた。
「今夜、ここにまた来る」
「…!」
「意味が、分かるか」
「へい…か?」
声のした方をゆっくりと見上げると、陛下が私の横に立って、見下ろしていた。陛下の澄んだ空のような瞳に映る私は、不安でたまらないという顔をしている。陛下の姿が揺らいで見えるのは、私の瞳に涙が溜まっているから。
「一夜を共にすれば、お前はもうここから出られなくなる」
「……」
涙がこぼれてしまいそうで、また下を向こうとした私の頬に、陛下の手が当てられる。ごつごつした、暖かくて、大きい掌だ。
「今ならお前は人生を選ぶ事ができる。お前は、自由だ。ここを出る事ができる。だが、今夜、ここで俺と過ごせば、お前は一生ここで過ごす事になる。どちらを選ぶかはお前の自由だ。ユーシェ、お前はどうしたい」
優しいこの人は、考えを押し付けてこない。私に選ばせてくれる。けれど、それが辛いと思ってしまうのは、私が贅沢だからだろう。
「私は…陛下の事を…心からお慕いしております…。ですが……」
陛下の顔が歪んで見える。頬に当てられた指に目の下を拭われて涙がこぼれたのだと気付いたが、気付いたところで止められるわけもなく、陛下がどんな顔で私を見ているのかも分からなかった。
目を閉じるかわりに、私は私を抱きしめるように、右肩をぎゅっと掴んだ。
「わ…、私は…、陛下には……っ!」
頬に当てられていた掌がゆっくりと動き、私の右肩を掴む手に重ねられた。その動きに、思わず身体がピクリと跳ねそうになる。
「へ…いか…?」
「お前と出会った時のことは、よく覚えている。その後お前と過ごした時も、忘れてはいない。お前が何を気に留めているのかは、分かっているつもりだ。そして俺はそれを気にしていない。分かるか?」
「で、ですが…」
「お前にとっては辛いことかもしれないが、俺はそれを大した事だと思わない。全部分かった上で言っているんだ、ユーシェ」
「……」
「選べ、ユーシェ」
ポロポロポロポロ、涙は止まらない。
私の記憶の中のあの人は、どこかとても寂しそうで、辛そうで、消えてしまいそうな人。そして、とても優しい人。私に、とても優しくしてくれた人。全てを失った私に、大切なものをくれた人。
ずっと、ずっと会いたかった人。でも、手が届くはずのなかった人。
そして今、手を伸ばせば届く人。
「…今宵、此処でお待ちしております」




