第9話 去年の下書き
第二研究班の中間提出物が、閲覧に回された。
上位班の提出物は、下位班の参考として写しが図書室に置かれる。良いものを見て学べ、という建前で、実際には見せびらかしの制度だと、ルカ様が言っていた。
わたしはニナ様と二人で、それを取りに行った。
「見たって書けませんけど」
「書き方は見られます」
「ヴァレンティ様って、そういうこと言いますよね」
ニナ様は写しの束を抱えた。抱え方が、両手だった。図書室の閲覧机で束を広げると、いちばん上が第二班のものだった。題は「王領における十年の穀倉配分について」。筆頭にロザリー・ヴァレンティの名前がある。
わたしは一枚目を読んで、二枚目の途中で手を止めた。三枚目まで飛ばして、また戻った。
――知っている。
この文章を、わたしは知っている。去年の冬、父から「穀倉の件で意見を書け」と言われて、屋敷の書斎で書いた。父が領地会議で使うためだった。父は結局それを使わず、書斎の抽斗にしまった。
構成が同じだった。三つの村を並べて比較し、四つ目に王領を置いて、最後に「配分は量ではなく時期の問題である」と結ぶ。言い回しは変えてある。けれど、句読点の位置まで似ている箇所が二つあった。
あの下書きは父の書斎の抽斗にしまわれたきりだった。姉が自分で開ける場所ではない。父が渡したのだ、と思ったら、そのほうが筋が通った。
字は姉の字だった。姉が、自分で書き写したのだ。清書だけは自分でやったということで、それはつまり、この十年ではじめて姉が自分の手を使ったということでもある。
書き写しながら、姉は何を思ったのだろう。他人の考えを、自分の字で、一枚ずつ。わたしがずっとやってきたことの、ちょうど裏返しだった。
わたしは束を閉じた。
「ヴァレンティ様?」
「なんでもございません」
閉じた束の上に、手を置いた。告発できる。証拠はある。去年の下書きは屋敷の抽斗にある。父の筆記記録もある。あの下書きの紙は、屋敷の紙だ。学園の紙とは漉きが違う。並べれば誰にでも分かる。
姉は退学になる。そこまで考えて、次の段が来た。
――誰が書いたのか、と問われる。
わたしだ。父の命令で、屋敷で、公爵家の紙に。学園の規則は学園の外までは届かない。だから退学にはならないだろう。けれど、姉が問い詰められれば、姉は言う。姉は必ず言う。あの子が書いたのです、と。十年ぶん全部。
そのとき困るのは、姉ではない。わたしは束を返却棚に戻した。
「返さないんですか。参考にするって言って借りたのに」
「参考になりましたので」
ニナ様は首を傾げたが、それ以上訊かなかった。この子は、訊かないでいるのが上手だ。訊かれ続けて育った人の癖だと思う。
なぜ書けないのか、いつになったら書けるのか、努力が足りないのではないか。そう訊かれ続けた人は、他人に同じことを訊かなくなる。
その日の夕方、第七班の教室で、わたしたちは自分たちの提出物の割り振りを決めた。三十四冊を五人で分ける。読むのはテオ様とイレーヌ様。数を拾うのがルカ様。要約の骨をわたしが組んで、ニナ様が書く。
「わたしが書くんですか」
ニナ様が青くなった。
「十枚ですよ。わたし、一枚書くのに半日かかります」
「四週間あります。一日一枚で足ります」
「無理です」
「傾けてお書きになれば足ります」
テオ様が机に伏せたまま笑った。
「言い切ったな」
「ヴァレンティ様が書いたほうが早いじゃないですか」
ニナ様が言った。悪気はなく、たぶん、いちばん現実的な提案として言った。
「早いです」
わたしは認めた。
「三日で終わります」
教室が黙った。
「けれど、それでは、この班が中間審査を通ったことになりません」
わたしは要項の紙を机の真ん中に置いた。
「通るのは、五人の名前です。五人ぶんの筆跡が照合されます。わたくしがまとめて書けば、五人の名前でひとつの筆跡が出ます。それは、退学です」
ルカ様が「うわ」と言った。
「じゃあ最初から無理じゃん」
「無理ではありません。全員が自分の字で書けばよいのです」
イレーヌ様が本から目を上げた。この人がわたしを見たのは、たぶんはじめてだった。
「あなたは」
声が低い。
「書かないの」
「わたくしは、骨を組みます」
わたしはそう答えた。答えながら、指の先が冷たくなっていた。骨を組むのは書くことではない。書くことでなければ、わたしは何もしていないのと同じかもしれない。この教室で、わたしはいちばん何もしない人になる。
――書かなくなったら、あなた、この家でなんなの。
姉の声が、はっきり戻ってきた。夜、寮の小部屋で、わたしは机に向かった。机の下の物入れには、姉の課題の束が入ったままになっている。
もう二週間、手をつけていない。姉は催促に来ない。来ないのが、かえって重い。わたしは紙を出して、第七班の要約の骨を書き始めた。
誰の名前も付かない紙だ。提出もされない。ニナ様たちが自分の字で書き写したら、この紙は捨てられる。書いても、どこにも残らない。
それでも、ペンが進んだ。窓の外が白みかけた頃に、骨が十枚ぶん出来た。わたしはその束を揃えて、いちばん上に何も書かずに置いた。
ペンを置いてから、しばらく手を動かさずにいた。書き上げた十枚には、題も、日付も、署名の欄も無い。誰の紙でもない紙というものを、わたしは生まれてはじめて作ったことになる。
窓のほうが、もう白い。
次話、公開討論会が開かれます。壇上に立つのは、姉です。




