第8話 その癖は、誰のものですか
翌朝、マリウス様は登録簿を持って第七班の教室に来た。
登録簿は本来、教務室から出さないものだ。監督生の権限で閲覧はできても、持ち出せるとは思っていなかった。
「席についてくれ。全員」
五人が座った。ニナ様が、昨日の紙を膝の上で握っている。マリウス様は登録簿を開いて、机の上に伏せた。中は見せない。
「まず、規則の確認だ。学園規則第九条。代筆、写し、他人名義の提出は退学。ここまではいいね」
「はい」
「では、こういう場合はどうなる」
その人はわたしを見た。
「Aが内容を全部考え、Bがそれを紙に書いた。提出者はB。字はBのもの。中身はAのもの。これは第九条にあたるか」
誰も答えなかった。
「答えは、あたらない」
マリウス様は続けた。
「第九条が禁じているのは筆跡の偽装だ。中身の出所は問うていない。だから、君が第七班の全員に考えを与えて書かせるのは、規則上は白だ」
テオ様が「なんだ」と息を吐いた。
「ただし」
マリウス様は登録簿を開いた。
「逆は黒だ。中身がBのもので、字がAのものなら、これは完全に第九条だ」
わたしの膝の上で、指が丸まった。
「それで、こちらが本題なんだが」
その人は登録簿を回して、わたしのほうへ向けた。入学の日に書いた、わたしの見本。
――われらは、記されたものによって、記した者を知る。
「これが君の見本。二百人ぶん見たが、君のものだけ、妙なんだ」
マリウス様は「し」の字を指した。
「跳ねていない。それはいい。だが、跳ねる直前まで筆が上がって、そこで急に落ちている」
わたしは何も言わなかった。
「跳ねない人の『し』は、最初から上がらない。君のは、上がって、途中でやめている。癖を抜いた跡だ」
教室の全員が、わたしを見ていた。
「オルコット様」
わたしは言った。声は落ち着いていた。落ち着いているように聞こえるように、喉の奥を締めた。
「わたくしの字が、わたくしの字であることは、その見本が証明しております」
「ああ、そうだ。証明している」
その人はあっさり認めた。
「僕が言っているのは、君がその字を作ったということだ。癖を抜くというのは、抜く前の癖を持っているということだからね」
窓の外で、鳥が鳴いた。この人は、正面から来る。廊下で聞こえよがしに言うのでも、教官へ耳打ちするのでもなく、当人の前に登録簿を開いて置く。十年ぶん人の顔色を見てきたわたしには、それがどれだけ珍しいことか分かった。
珍しいというのは、扱いにくいということでもある。
「では、うかがいます」
わたしは顔を上げた。
「その癖は、誰のものですか」
マリウス様の指が、登録簿の上で止まった。
「わたくしが十年、他人の字を書いてきたと、そうおっしゃりたいのでしょう。けれど、癖が残っているというのは、逆から言えば、いまのわたくしがその癖と違う字を書いているということです」
わたしは、自分でも意外なほど滑らかに言葉が出た。
「わたくしが提出したものと、登録簿の見本。この二つが一致しているなら、規則の上で問われることは何もございません。違いますか」
沈黙は長かった。それから、マリウス様は登録簿を閉じた。
「――正しい」
その人は言った。
「規則上は、君の言うとおりだ。僕は君を第九条で問えない」
テオ様が小さく「よし」と言った。
「だが、君は今、僕の質問に答えなかった」
マリウス様は立ち上がった。
「僕が訊いたのは規則のことじゃない。その癖は誰のものか、と訊いた。君はそれに、規則の話で返した」
登録簿を小脇に抱える。
「規則の話で返す人間は、規則が自分に不利だと知っている人間だ」
扉のところで、その人は一度だけ振り返った。
「中間審査は六週間後だ。第七班の提出物は僕が最初に読む。楽しみにしている」
昼、渡り廊下でセドリック殿下とすれ違った。殿下は立ち止まって、こちらを見た。書庫の日から、話していない。
「オルコットに絡まれていると聞いた」
「絡まれてはおりません」
「あれは絡んでいるつもりがない人間なんだ。そこが厄介でね」
殿下は手すりに手を置いた。
「彼は三年の首席で、次の学年末までその席を守らないといけない。守れなかったときに何が起きるかを、僕は少し知っている」
わたしは訊かなかった。訊けば、知りたいと思っていることになる。
「ヴァレンティ嬢」
殿下が言った。
「この前の返事は、あれでいい。無理に言わせるつもりはない」
わたしは頭を下げた。
「ただ、ひとつだけ教えてほしい」
殿下は、手すりの木目を見ていた。
「三年前の手紙を書いた人は、あの返事を書いたことを、後悔しているだろうか」
わたしは顔を上げた。上げてしまってから、しまったと思った。殿下はこちらを見ていなかった。ずっと木目を見ていた。
「いえ」
気がつくと、言っていた。
「していないと思います」
殿下は木目から目を離さないまま、少しだけ笑った。
「そう」
それだけ言って、行ってしまった。わたしは廊下に残された。手すりの木は、幾年ぶんも手が触れたところだけ色が濃くなっている。殿下がずっと見ていたのは、たぶんその色の境目だった。
話しにくいことを話すとき、あの人は人の顔を見ない。顔を見ないでいてくれるから、こちらは答えてしまう。二度、同じことをしている。あの人は、答えを引き出す言い方を知っている。
そして、それに気づいたときには、いつも答え終わっている。
次話、姉の提出したレポートを、エルシャは読みます。




