第7話 手が悪いだけの子
第七研究班の課題は、翌週に言い渡された。
教室に来たのは、監督生のマリウス様ではなく、教務の若い教官だった。腕に書類の束を抱えている。
「今年度の第七班の課題は、王都近郊三村の十年ぶんの収穫記録の整理と要約です。学年末に発表」
テオ・マルシャンが机に伏せたまま呻いた。
「十年ぶんって、何冊ですか」
「三十四冊」
「無理だろ」
「無理でしょうね」
教官はあっさり言った。
「言っておきますが、第七班は三年連続で発表に到達していません。中間審査で欠格になっています。今年もそうなるでしょう」
誰も反論しなかった。反論するだけの持ち合わせが、この教室にはない。
「ただし」
教官は書類を机に置いた。
「中間審査を通れば、五人とも進級です。通らなければ、五人とも留年。この班はまとめて扱う決まりですので」
扉が閉まってから、しばらく誰も動かなかった。
「まとめて、って」
ニナ様が言った。
「わたしのせいで、みんな留年するってことですか」
「そうは言ってねえだろ」
ルカ様が椅子を回した。
「俺だって字は書けるけど中身がねえし。テオは寝てるし。イレーヌは古語しかやらねえし」
「古語しかやらない」
窓際の席で、イレーヌ・ダゴベール様が本から目を上げずに言った。訂正ではなく、肯定だった。わたしは机の上の書類を引き寄せた。
紙の質が、上位班のものと違う。第一班に配られる要項は漉きの細かい厚紙だが、こちらは繊維の粗い安手の紙で、指で押すとインクが裏へ抜ける。誰も見ない書類だと分かっていて刷られたものだ、ということが、触るだけで分かってしまう。
中間審査の要項が挟まっている。提出物は要約十枚。全員の名前を連ねて出す。筆跡照合の対象。
――全員の名前で、十枚。
わたしの手が、勝手に段取りを組み始めていた。三十四冊を五人で割ると、一人七冊弱。読める人間が読んで、まとめる人間がまとめて、書ける人間が書く。書けるのはわたしだ。全部わたしが書けば、三日で終わる。
三日で終わって、五人とも進級して、それで。わたしは自分の指を見た。
――それは、この十年やってきたことと、何が違うのだろう。
「ボードワン様」
わたしは顔を上げた。
「先日の続きを、うかがってもよろしいですか」
ニナ様の肩が、少し上がった。
「……なんの話ですか」
「文字が二つに見えるという話です」
教室が静かになったのが分かった。テオ様が伏せていた顔を上げた。
「見えません」
「見えない、というのは」
「そういう話は、しないでください」
ニナ様は答案用紙を胸に抱えた。
「言うと、みんな親切にしてくれるんです。それで、書かなくていいですよって言われるんです。書かなくていいって言われたら、わたし、なんにもできない人になっちゃうから」
わたしはその言葉を、しばらく置いておいた。それから、机の上に紙を一枚出した。
「では、書きましょう」
「え」
「わたくしが読み上げます。ボードワン様が書いてください」
ニナ様がペンを持った。両手でインク瓶を押さえて、片手でペンを取る。わたしは、ゆっくり読んだ。
「――西の村、第一年、麦が二百二十袋」
ニナ様の手が動いた。線が二重に走り、「二」が三本になった。途中で止まる。書き直す。また二重になる。
「……ほら」
ニナ様の声が小さくなった。
「見えるんです。線が。書いてるそばから、下に、もう一本」
わたしは、その紙を横から覗き込んだ。二重になっている線には、規則があった。いつも、下側だ。しかも、右へ行くほど離れる。
「ボードワン様。この紙を、少し傾けてお持ちください」
「傾ける?」
「はい。左の端を、二寸ほど下げて」
ニナ様は言われたとおりにした。
「もう一度、同じ行を」
――西の村、第一年、麦が二百二十袋。
ニナ様の手が動いた。線が、一本になった。教室の全員が、その紙を見ていた。ニナ様は書き終えて、自分の書いた行を見て、それからもう一度見た。三度目に、紙を持ち上げて目の前に近づけた。
「……読める」
声が震えていた。
「わたし、自分の字が、読める」
ルカ様が椅子から立ち上がって、こっちに来た。
「なんで傾けたら直るんだよ」
「わたくしにも、なぜかは分かりません」
わたしは正直に言った。
「ただ、下側にずれるのなら、紙のほうを下げれば重なるかもしれないと思っただけです」
ニナ様は紙を抱えて、まだ見ていた。
「わたし、頭は悪くないんです」
もう一度、その台詞を言った。
「手が悪いんです。ずっとそう思ってました。でも、手じゃなくて」
ニナ様は顔を上げた。
「紙の角度だったんですか」
わたしは答えられなかった。答えられなかったのは、そのとき自分が何を考えていたのか、自分でもうまく言えなかったからだ。
十年のあいだ、わたしは困っている人の紙を代わりに埋めてきた。埋めれば、その場は片づく。片づいたぶんだけ、埋められた側は次も自分では書かなくなる。姉がそうだったし、父がそうだったし、たぶん母のときからそうだった。
――わたしがこの子の分を代わりに書いたら、三日で終わった。
――代わりに書かなかったら、この子は自分の字が読めるようになった。
その二つの違いを、わたしは今日はじめて、目で見た。その夜、教室の灯りを消して出るとき、廊下の突き当たりに人影があった。マリウス様だった。手に、今日ニナ様が書いた紙を持っていた。
いつの間に取ったのか分からない。
「オルコット様」
「傾けたそうだね」
その人は紙を灯りにかざした。
「面白い。だが、これは君の指示で書かれたものだ」
紙を下ろして、こちらを見た。
「指示して書かせたものは、誰の字だと思う?」
次話、監督生が登録簿を持ってきます。




