第10話 壇上で、姉は説明できなかった
公開討論会は、学園の年中行事のひとつだ。
中間提出物のうち上位のものを壇上で説明させ、教官と生徒が問う。全学年が大講堂に集まる。第七班のような下位班にとっては、座って見ているだけの半日だった。
「眠い」
テオ様が言った。
「寝るなよ、目立つから」
ルカ様が肘で突く。わたしは後方の席にいた。姉は前から三列目の、発表者の席に座っている。第二班の筆頭として壇に上がる予定だった。
二番目に呼ばれた。
「第二研究班。ロザリー・ヴァレンティ嬢」
姉は立ち上がって、壇へ向かった。所作は完璧だった。裾のさばき方、階段の上がり方、壇上での立ち位置。あれを見ている限り、この人が何かに失敗するとは誰も思わない。
「王領における十年の穀倉配分について、申し上げます」
姉は原稿を持っていなかった。暗記してきたのだ。最初の三分は、よどみなかった。三つの村の名前、収穫量の推移、王領の位置づけ。数字も正確だった。姉は覚えることが得意だ。それはずっと知っている。
「よって、配分は量ではなく、時期の問題であると結論いたします」
拍手が起きた。わたしは膝の上で手を握った。その一文を最初に書いた夜のことを、覚えている。書斎の燭台が短くなって、二度取り替えた。
「質問を」
教壇の司会役が言った。手が挙がった。三年の席からだった。マリウス・オルコット様が立っていた。
「ヴァレンティ嬢。三つの村のうち、東の村だけ第七年の数字が飛んでいます。理由は」
姉が微笑んだ。
「東の村は、第七年に記録の様式が変わりました。それで数え方が変わっております」
「では、様式が変わったのは何月ですか」
姉の睫毛が、一度だけ動いた。
「……年の途中とだけ、記録されております」
「記録にはありませんね。僕も同じ帳面を見ました」
講堂の空気が薄くなった。
「では別の問いを。あなたの結論は『量ではなく時期の問題』です。ではその時期とは、播種から収穫までのどの時期を指しますか」
姉は答えなかった。一拍が長すぎた。
「――収穫の、時期でございます」
「収穫の時期に配分を変えると、翌年の播種が遅れます。あなたの論の三枚目にそう書いてある。だからあなたは播種の時期を指しているはずだ」
マリウス様は淡々と言った。
「僕は責めていません。ただ、書いてあることを訊いているだけです」
姉の手が、壇の縁を掴んだ。わたしは、その手を見ていた。姉があの手で書いたのは、清書だけだ。中身は読まなかった。読まなくても書き写せる。わたしがそうだったから、分かる。読まずに書ける人間は、書いたものの中に入っていない。
「もう一度だけ」
マリウス様が言った。
「四枚目の最後に、こう書いてあります。『時期の問題である以上、量を増やす政策は逆に働く』。これはどういう意味ですか」
姉は口を開いた。開いたまま、何も出てこなかった。講堂が、はっきりと静まった。二百人が、いま何が起きているかを理解した音だった。
わたしは膝の上で、両手を強く組んでいた。立ちたい、と思った。立って、その一文の意味を言えばいい。三十秒で終わる。立てば、姉は救われる。
立てば、この十年が全部、二百人の前に出る。わたしは立たなかった。
立たない理由なら、いくらでも並べられた。姉が自分で選んだことだ、とか、ここで庇えばこの先ずっと庇い続けることになる、とか。並べているあいだに、時間のほうが過ぎていった。
結局のところ、わたしは怖かったのだと思う。立たなかったことを、たぶん一生覚えているのだろうと思いながら、座っていた。
「――結構です」
司会役の教官が言った。助け船のつもりだったと思う。けれど、助け船が出た時点で、講堂の全員に答えが渡っていた。姉は壇を降りた。降りるときの階段の足元が、わずかに乱れた。所作が崩れたのを、二百人が見た。
姉は席に戻らなかった。そのまま扉へ向かった。扉が閉まる直前、わたしのほうを見た。目が合った。姉の目は、怒っていなかった。責めても、恨んでもいなかった。ただ、この結果をずっと前から知っていた人の目だった。
それが、いちばんこたえた。討論会が終わって、生徒が散っていく。わたしは席を立てずにいた。ニナ様が横で何か言っていたけれど、うまく聞き取れなかった。
前方で、マリウス様が教官と話しているのが見えた。それから、その人は講堂の中央へ戻ってきて、まだ残っている生徒たちのほうを向いた。
声を張ったわけではない。ただ、届く声で言った。
「ひとつだけ、皆に考えてほしいことがあります」
残っていた生徒が足を止めた。
「今日の論文は、よく出来ていました。僕が読んだ中で、今年いちばん構成が良かった」
誰かが「え」と言った。
「四枚目のあの一文は、政策論として正しい。書いた人間は、穀倉の実務を知っています。学生の書くものではない」
マリウス様は、講堂をゆっくり見渡した。
「では、書いたのは誰ですか」
わたしの隣で、ニナ様が動きを止めた。
「僕はこれを、告発として言っていません。純粋に知りたいだけです。あれを書ける人間が、この学園のどこかにいる」
誰も答えなかった。マリウス様は書類を抱え直して、それから付け加えた。
「――なお、この件は既に学外へ報告されています。王妃付き女官長のドラクロワ様が、学園の筆跡照合について調査を命じられたそうです」
講堂のどこかで、椅子が鳴った。
「今年から照合が始まった理由を、僕はずっと考えていました」
その人は扉のほうへ歩き出した。
「制度は、誰かが必要としたから作られます。必要としたのが誰なのか、僕はまだ知りません」
次話、姉の荷物が馬車に積まれます。




