第11話 馬車に乗せられた姉
馬車が来たのは、討論会の三日後の朝だった。
ヴァレンティ家の馬車は正門ではなく、東の通用門に着けられた。人目につかない側だ。その手配をしたのが誰なのかは、考えるまでもない。
わたしは寮の窓からそれを見て、外套を掴んで階段を降りた。朝の坂道はまだ濡れていて、下りてくる荷車の轍が二本、はっきり残っていた。
通用門の脇で、使用人が荷を積んでいた。姉の荷は多い。学園に持ち込んだ衣装箱が三つ、書物の箱がひとつ。書物の箱は、たぶん一度も開けられていない。
「お姉様」
姉は馬車の横に立っていた。旅装で、髪をきつくまとめている。
「あら」
こちらを見て、姉は少し笑った。
「見送りに来たの。感心ね」
「お父様が、お呼びに」
「呼ばれたのではなくて、連れ戻されるのよ。言い方をきれいにしなくていいわ」
姉は手袋をはめ直した。片方だけ、指の先が汚れている。
「学園は退学ではないの。休学。体調不良ということになっているわ」
「……そうですか」
「一年経ったら戻れるそうよ。戻る気があればね」
使用人が最後の箱を積み終えて、頭を下げた。
「ロザリー様、そろそろ」
「ええ」
姉は馬車の踏み段に足をかけて、それから、降りた。こちらへ二歩、近づいてきた。
「エルシャ。ひとつだけ訊いていいかしら」
「はい」
「あの日、あなた、立とうとしたでしょう」
わたしの喉が、詰まった。
「膝が動いていたわ。三列後ろから見えたの」
姉は、責める顔をしていなかった。
「立たなくて正解よ。立っていたら、わたくしはあなたを恨んだと思う」
風が門の間を通った。姉の後れ毛が、頬に張りついた。
「助けられるのって、屈辱なのよ」
姉は自分の指を見ていた。討論会で壇の縁を掴んだ、あの手だ。
「わたくしね、あの壇の上で、はじめて自分が何も持っていないことを人に見られたの。今まではずっと、あなたが先回りして隠してくれていたから」
わたしは何も言えなかった。言えることが無かったのではない。言えることが多すぎて、どれを言っても嘘になる気がした。
「お姉様。わたくしは、隠していたつもりは」
「つもりの話をしていないわ」
姉は遮った。声は静かだった。
「あなたは、わたくしが書けないことを、十年間ずっと知っていた。知っていて、代わりに書いた。それは親切だと思っていたでしょう」
姉は顔を上げた。
「わたくしにとっては、毎日、書けないと言われ続けているのと同じだったのよ」
門の向こうで、馬が足を踏み替えた。
「エルシャ。あなたは、書けない人の気持ちを知らないでしょう」
その言葉は、思っていたよりずっと静かに落ちてきた。わたしは、第七班の教室を思い出していた。両手でインク瓶を押さえる子のことを。書かなくていいと言われたら何もできない人になってしまう、と言った子のことを。
あのとき、その言葉が刺さった理由が、いまようやく分かった。
「お姉様」
わたしは言った。
「お姉様は、なぜ書かなかったのですか」
姉の目が、はじめて揺れた。
「……なぜ、って」
「お姉様は、覚えるのがお得意です。数字も、順序も、間違えたことがありません。あれだけ覚えられる方が、書けないはずがないと思っておりました」
姉はしばらく黙っていた。それから、短く言った。
「六つのときにね」
声が、少し違った。
「わたくしの書き取りの紙を、あなたが埋めたでしょう」
「はい」
「お父様が笑ったの。なるほど、エルシャに書かせればいい、って」
姉は手袋の指を、もう一度直した。
「あの日から、わたくしの部屋にペンが置かれなくなったのよ」
わたしは、そこで息を止めた。六つの日のことを、わたしはずっと、自分が親切をした日として覚えていた。困っている人の紙を埋めた日として。姉が泣きやんで、家庭教師が助かって、父が笑った日として。
同じ日を、姉は、ペンを取り上げられた日として覚えていた。
「わたくしが書かなかったのではないの。書くものを取り上げられたの。それから十年、誰もそれを返してくれなかった」
馬車の御者が、遠慮がちに咳をした。姉は踏み段に戻った。今度は降りなかった。
「馬鹿にしないでちょうだいね。可哀想だと思われるのが、いちばん嫌だから」
扉が閉まる前に、姉は付け加えた。
「学園の課題の束、置いていくわ。捨てて」
馬車が動き出した。東の通用門から、坂を下っていく。角を曲がるまで、わたしは見ていた。部屋に戻ると、机の下の物入れに束が入ったままだった。
わたしはそれを取り出して、紐を解いた。いちばん下に、見覚えのない紙が一枚まぎれていた。姉の字で、途中まで書かれた数論の解答だった。
第一問の途中で止まっている。線が乱れて、二度書き直した跡がある。右上がりで、「し」が跳ねている。跳ね方が、わたしの真似ているものより浅い。真似のほうが、本物より癖が強くなっていた。
――わたしが真似てきたのは、この字だ。
わたしは十年、この字を書いてきた。書いてきたのに、この字が誰かの手から出てくるところを、ほとんど見たことがなかった。
次話、三年前の手紙の中身が、殿下の口から出ます。




