第12話 三年前の手紙の中身
姉が学園を去って、わたしの立場は宙に浮いた。
付き人は、主人がいなければ付き人ではない。教務室に呼ばれて、若い教官が困った顔で書類をめくった。
「ヴァレンティ嬢の在籍区分ですが……付き人としての編入なので、規定上は、主人の休学とともに」
「退学、ということでしょうか」
「そうなるはずなのですが」
教官は書類の二枚目を出した。
「先週、あなたの区分が変更されています。正規生への編入。手続きは済んでいます」
「どなたが」
「学園長の決裁です。申請したのは……ここには、王家からの推挙とだけ」
わたしは書類を見た。推挙の欄に、署名がある。セドリック・ヴァルフォード。癖のない、少し丸い字だった。三年前の手紙よりは、ずいぶんうまくなっている。
教務室を出て、書類の写しを二度読んだ。推挙という言葉には、断る余地が残されていない。ありがたいと思うより先に、誰かの手のひらの上に移されたような気がして、それを恥じるだけの余裕もなかった。
午後、わたしは中庭の東屋で殿下を待った。待たせてもらうと伝えたら、驚くほど早く来た。
「編入の件をお礼に来たなら、要らないよ」
殿下は座る前にそう言った。
「規定の穴を突いただけだ。正規生への編入は、入学試験の成績で判断される。君は試験を受けていないが、抜き打ちの筆記で満点を取っている。学園長は数字に弱いんだ」
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
殿下は座って、少し考えた。
「借りがあるから、と言ったら怒る?」
「……借り、でございますか」
「三年前の手紙の話だ」
わたしは黙った。
「君は違うと言った。それはそれでいい。でも僕のほうは、返さないと落ち着かない。返す相手を間違えていても、返さないよりましだと思っている」
その言い方は、逃げ道を残す言い方だった。わたしが認めなくても成立するように作ってある。この人はいつもそうだ。
「殿下」
わたしは訊いた。訊いてはいけないと分かっていて、訊いた。
「三年前のお手紙には、なんと書いてあったのですか」
殿下は東屋の柱に背を預けた。
「僕が書いたほう? それとも返事のほう?」
「……お返事のほうを」
殿下は少し笑った。
「覚えているよ。全部」
そして、暗唱した。
「――お手紙、拝読いたしました。比べられて薄くなるとお書きでしたが、それはあなたが薄いからではなく、並べる人の目が二つしかないからです。二つの目は、二つのものしか見ません。三つ目を置く方法はひとつだけで、ご自分で、ご自分を数える。誰かの隣に置かれた自分ではなく、一人で立っている自分を、一度でいいから紙に書いてみてください。書いたものは消えません。並べ替えられもしません」
東屋の屋根を、風が撫でた。木の葉が擦れて、それきり止んだ。自分の書いた文章を、三年経って他人の声で聞くというのは、思っていたのとまるで違う経験だった。書いたときの燭台の高さも、指の冷たさも、全部戻ってくる。
「ここから先が、いちばん効いた」
殿下は続けた。
「――わたくしは、自分の名前を紙に書いたことがほとんどありません。ですから、これは自分に宛てて書いております」
わたしは、両手を膝の上で握っていた。書いたのは十三のときだ。書いてから何度も消そうとして、結局そのまま封をした。届いた先が王家だということも、半分忘れていた。
「僕はその一文で、ああ、この人は自分のことを書いているんだと思った」
殿下は柱から背を離した。
「同時に、これはヴァレンティ家の令嬢が書く文章じゃない、とも思った。あの家の長女は、社交でいちばん名前が売れている。自分の名前を書いたことがない人ではない」
わたしは顔を上げられなかった。
「三年、考えていた」
殿下の声が、少し落ちた。
「あの家の誰かが、自分の名前を書けないでいる。それが誰なのか知りたくて、学園に来た」
中庭を、生徒が二人横切っていった。話し声が遠ざかる。
「ヴァレンティ嬢」
殿下が言った。
「僕はまだ、返事を書いていない」
わたしは、そこでようやく顔を上げた。
「三年前にもらった手紙に、僕は一度も返していないんだ。書こうとして、何度も破った。相手が分からないうちは、宛名が書けないから」
殿下は東屋の欄干に手を置いた。
「だから、これは頼みごとになる」
その人は、はじめてまっすぐこちらを見た。
「君が違うと言うなら、それでいい。でも、もしいつか、あれを書いたのが自分だと言ってもいい日が来たら、そのときは教えてほしい。宛名を書きたいんだ」
わたしは、返事をしなかった。しなかったのは、嘘をつきたくなかったからだ。殿下は、それを分かった顔で頷いた。その日の夜、わたしは寮の机に紙を出した。
姉の途中書きの解答が、机の端に置いてある。捨ててくれと言われた束から、その一枚だけ抜いてあった。わたしは自分の紙に、線を一本引いた。
ルカ様が直したペンは、まっすぐな線を引く。
――一人で立っている自分を、一度でいいから紙に書いてみてください。
十三のわたしは、他人にそう書いた。書いておいて、自分は十六になるまで一度もやらなかった。わたしはペンを取り直して、紙の真ん中に、大きく書いた。
エルシャ・ヴァレンティ。線は二重にならなかった。その紙を、燭台にかざさなかった。机の抽斗に入れて、閉めた。
次話、監督生が第七班に条件を突きつけます。条件を決めるのは、彼です。




