第5話 インクの匂いを覚えている人
学園の書庫は、東棟の三階にある。
付き人でも入れる。ただし閲覧のみで、持ち出しは主人の名でしかできない。わたしは姉の課題に要る家政記録の写しを探しに、放課後の書庫へ上がった。
結局、書いてしまうのだろうか。束は机の上に置いたままだ。断ると書いて出しておきながら、写しを探しに来ている。自分でも、どちらへ行くつもりなのか分かっていなかった。
書庫は人が少なかった。窓が高いところに一列あるだけで、昼でも薄暗い。紙と埃と、古い糊の匂いがする。三列目の棚の前で、先客がいた。
背の高い生徒が、脚立に乗って上の段を探している。外套は掛けてあって、紋は見えなかった。
「そこの、家政記録の丙をお探しですか」
わたしはつい声をかけた。棚の並びが分かっていない探し方をしていたからだ。
「そうなんだ。どこにあるか分かる?」
「丙は、こちらの列ではありません。三年前に並べ替えがあって、丙と丁だけ隣の列へ移りました」
「……どうして分かるの」
脚立から降りてきた顔を見て、わたしは一歩下がった。セドリック・ヴァルフォード殿下だった。
「失礼いたしました。存じ上げず」
「いや、助かった。並べ替えのことは書庫の目録にも直っていないんだ」
殿下は埃を払いながら、隣の列へ歩いていった。わたしはついていくべきか迷って、結局ついていった。
「どうして並べ替えを知っていたの」
「……当時の目録の訂正紙を、見たことがあります」
「訂正紙」
「はい。目録の裏に貼ってございます。剥がれかけておりますが」
殿下は棚の裏側を覗き込んで、それから小さく笑った。
「本当だ。誰も見ないところに貼ってある」
目当ての巻を見つけて、殿下はそれを抱えた。抱え方が丁寧だった。背表紙の角を潰さないように持っている。その拍子に、わたしの鼻先を匂いが通った。
インクの匂いだ。普通のものではない。学園の売店で売っている鉄胆インクは、もっと金属くさい。これは油の甘さが混ざっている。松脂と、それから何か。
わたしはこの匂いを知っている。三年前の、あの封筒の中身と同じ匂いだった。あの晩、わたしは封を開けて、紙を顔の近くまで持ち上げた。字がうまくなかったので、判読するのに近づける必要があったのだ。そのときに嗅いだ。
殿下が、ふとこちらを見た。
「どうかした」
「いえ」
「いま、匂いを嗅いだよね」
わたしは答えなかった。
「王家の書簡用のインクなんだ。工房が一軒しかなくて、松脂を混ぜる。他所では手に入らない」
殿下は巻を小脇に抱え直した。
「僕はこの匂いが好きで、私用の手紙にもこれを使っている。三年前もそうだった」
「あのとき僕は十四で、兄と比べられるのが嫌で、それを手紙に書いた。相手はほとんど知らない令嬢だった。今思えば、書くべきではなかったんだ」
殿下はわたしを見ていなかった。棚の背表紙を見ていた。そのほうが話しやすいという顔をしていた。
「返事が来た。うまい慰めではなかった。ただ、こう書いてあった。――比べられて薄くなるのは、あなたが薄いからではなく、並べる人の目が二つしかないからです、と」
わたしの指が、袖の内側で丸まった。その一文を、わたしは十三のときに書いた。書いてから何度も考え直して、それでも直さなかった。
「あの返事のおかげで、僕は兄の前で笑えるようになった。だから書いた人に礼を言いたくて、この学園に来たようなものなんだ」
殿下は、そこでようやくこちらを向いた。
「ヴァレンティ嬢は、あなたのお姉さんだ」
「はい」
「昨日の教室の話を聞いた。君は自分の字で書いて、正答より先まで書いたそうだね」
わたしは何も言わなかった。
「僕は人の顔を覚えるのが下手なんだ。代わりに、字は覚える」
殿下は棚に片手をついた。
「兄上に言うと笑われる。王族が覚えるべきは顔であって字ではない、と。たぶん正しい。でも僕は、はじめて会う人でも、署名を先に見てしまう」
わたしは、この人が広間で掛け軸を先に見上げたのを思い出していた。
「三年前の手紙の字は、あの人の字じゃない」
殿下の声は静かだった。責める調子はまるでなかった。それが、かえって逃げ道を塞いだ。
「君だね」
わたしは、そこで一度だけ、目を閉じた。
認めたら、姉が嘘をついたことになる。姉が嘘をついたことになれば、この十年の全部が引き出しから出てくる。答案も、書簡も、契約の写しも。学園規則の第九条は、書いた者を退学にする。書かせた者ではなく。
「いいえ」
わたしは言った。
「わたくしは、そのようなお手紙を存じません」
殿下は、しばらく黙っていた。それから、抱えた巻の背を指で二度叩いた。
「そう」
それだけ言って、殿下は書庫を出ていった。追いかけて言い直すことも、押し通すこともしなかった。わたしは棚のあいだにひとり残された。
嘘をついたのは、これがはじめてではない。姉のかわりに何度も書いてきた。名前も、感情も、詫びも、断りも。ただ、自分のことで嘘をついたのは、はじめてだった。
窓の高いところから、光の帯が斜めに落ちてきていた。埃がその中で回っている。わたしは棚に手をついた。まだ、松脂の匂いが残っていた。
部屋に戻る途中、渡り廊下で姉とすれ違った。
「書庫にいたの」
「はい」
「課題は」
「……手をつけております」
二つ目の嘘だった。一日に二つは、わたしにしては多い。
「そう」
姉は行きかけて、足を止めた。
「殿下と話していたそうね」
誰が見ていたのか、と思ったが、この学園で見ていない場所のほうが少ない。
「書庫の棚の場所を訊かれました」
「それだけ?」
「それだけでございます」
姉は、わたしの顔を少し長く見た。
「あの方は、三年前のお手紙のことを覚えていらっしゃるの」
わたしは答えなかった。
「答えなくていいわ」
姉は自分の指を見ていた。手袋をしていない指だった。
「わたくし、あの封を開けなかったの。あなたに渡したとき」
それは知っている。
「開けていたら、なんて書いてあったのかしら」
姉はそう言って、行ってしまった。わたしは渡り廊下に残った。あの手紙の中身を、この世でいちばん知らないのは、書いたと名乗った人だった。
次話、研究班の割り振りが貼り出されます。エルシャの名前は、いちばん下の欄にあります。




