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姉の答案を代筆させられた妹、王立学園で本名の首席になります――第二王子だけは筆跡を知っている  作者: 小春日こよみ


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第4話 お父様への、最初の返事

 父からの手紙は、二日後の朝に届いた。


 寮の小部屋の扉の下に差し込まれていて、起きたときには足元にあった。封蝋はヴァレンティ家のもの。剣と天秤。中身は短かった。


 ――学園での振る舞いについて報告があった。付き人の分を超えている。速やかに辞して屋敷へ戻れ。


 わたしは三度読んで、それから紙のほうを見た。本文は執事のロベールの字だった。父の口述を書き取ったものだ。父は昔からそうする。書簡は口で言い、執事が書き、最後の署名だけを自分で入れる。


 署名の「ジェラール・ヴァレンティ」は、震えていた。


 「ジ」の一画目に、ためらいの点がある。ペンを紙に置いてから動かすまでに、間が空いた跡だ。「ル」の終わりは失速して、線がほどけている。


 わたしはこの署名を、十年見ている。震えは十年前からあった。父は書けない。


 厳密に言えば、書けるけれど、書きたくない。自分の字が下手だと知っていて、それを人に見せるのが耐えられない。だから家の文書は全部、母が書いた。母が亡くなってからは、姉が書くことになっていて、実際には、わたしが書いた。


 わたしは机の上の母の万年筆を取った。母は、書く人だった。


 覚えているのはそれくらいだ。顔よりも、書いている背中のほうをよく覚えている。夜、書斎の燭台の下で、父の代わりに何かを書いていた。わたしが扉から覗くと、振り返らずに「おいで」と言った。膝に乗せて、同じ紙に線を引かせてくれた。


 母の字は、わたしの字に似ていた。右上がりでもないし、跳ねもしない。その母が、なぜあの家で誰にも褒められなかったのか、わたしは考えたことがなかった。考える必要がないくらい、当たり前のことだったからだ。


 はじめて代筆をしたのは、六つのときだった。姉が課題の書き取りを嫌がって泣いていて、家庭教師が困っていた。わたしは隣の部屋で自分の書き取りを終えていて、それを見て、姉の紙にも書いた。手伝ったつもりだった。


 家庭教師は青くなり、母は黙っていた。父だけが、それを見て一度だけ笑った。


 ――なるほど。エルシャに書かせればいい。


 その日から、姉の紙はわたしの机に来るようになった。母は何も言わなかった。ただ、その夜からわたしを膝に乗せなくなった。理由を訊いたことはない。訊けるうちに訊かなかった。


 万年筆のペン先は、まだ割れている。わたしは便箋を一枚出して、その上でペンを構えた。書く言葉は決まっていた。決まっていたのに、一画目が出なかった。


 この十年、わたしが自分の意思で誰かに何かを書いたことは、たぶん一度もない。書いたのは全部、姉の言葉か、父の言葉か、家の言葉だった。


 自分の言葉には、手本がない。線が二重になった。それでも書いた。


 ――お父様。


 ――報告の件、承知いたしました。学園には残ります。


 ――付き人の分を超えたとのご指摘ですが、わたくしは規則に反しておりません。反していたのは、この十年のほうです。


 そこまで書いて、手を止めた。この一行は消すべきだと分かっていた。父を怒らせるだけだし、証拠にもなる。誰かに読まれれば、この家がしてきたことが全部書かれた紙になる。


 わたしは、その一行を消さなかった。


 ――お姉様の課題を、これから先はお引き受けできません。学園の規則第九条にあたります。


 ――エルシャ・ヴァレンティ


 署名を書いた。震えなかった。封をして、寮の受付に出した。受付の老人が封蝋の紋を見て、「ヴァレンティ家へ」と復唱した。復唱されたとき、少し息が詰まった。


 部屋に戻ると、机の上に紙の束があった。鍵は掛けていない。付き人の部屋に鍵は付いていない。


 束は四つに分かれて、それぞれ紐で括られていた。古語の課題、家政記録の演習、数論の週課題、そして講義の書き取り。全部、姉の名前が上に書いてある。


 紙の上に、姉の手袋が片方だけ置かれていた。置いた人が、置いたと分かるように置いていったのだ。わたしはその手袋を取り上げて、しばらく持っていた。柔らかい鹿革で、内側にまだ体温が残っている気がした。


「エルシャ」


 扉のところに姉が立っていた。入ってはこない。この部屋にも、姉は足を踏み入れなかった。


「お姉様」

「明後日までに。数論は少し間違えておいてね。今のわたくしの点だと、急に上がるのは不自然でしょう」

「……お姉様」

「なに」

「わたくし、お父様に手紙を書きました」


 姉の顔から、表情が一段だけ抜けた。


「なんて」

「これから先は、お引き受けできませんと」


 廊下の窓から入る光が、姉の頬の輪郭を白く縁取っていた。姉はしばらく黙って、それから、少し笑った。笑い方が、いつもと違った。上手じゃなかった。


「あなた、勘違いしているわ」

「なにをでしょうか」

「わたくしが困ると思っているでしょう」


 姉は扉の枠から手を離した。


「困るのは、あなたよ。書かなくなったら、あなた、この家でなんなの」


 扉が閉まった。わたしは机の上の束を見た。紐の結び方まで、いつもと同じだった。二重にして、端を内側へ折り込む。これは母の結び方だ。姉が覚えているとは思わなかった。


 紐を解いた。いちばん上は数論の週課題だった。設問を読んで、頭のなかで解が出てしまう。出てしまうものは止められない。第二問は係数を取り違えやすい形になっている。姉なら必ず取り違える。


 わたしはペンを取って、置いた。取って、置いた。書かなかったら、と考えてみる。姉が自分で書く。点が落ちる。落ちた点は掲示に出る。父が知る。家が動く。動いた先に、わたしの居場所はもう無い。


 書いたら、と考えてみる。規則第九条。退学。書いた者を罰する条文で、書かせた者への条文は無い。どちらでも、失うのはわたしのほうだ。姉の言ったことは、意地悪ではなく、ただの事実だった。


 わたしは束を紐で括り直した。母の結び方で。そして机の下の物入れに、それをしまった。解いてはいけないと思ったのではない。ただ、机の上を空けておきたかった。


 空いた机に、便箋をもう一枚出した。今度は誰に出す当てもない。わたしは、そこに自分の名前を書いた。燃やさなかった。

 次話、第二王子がインクの話をします。エルシャは嘘をつきます。

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