第3話 では、ここで書いてごらんなさい
その日の午前の講義は、教室に入る前から静かだった。
わたしが扉を開けると、話し声が止んだ。三十人ぶんの視線が一度こちらへ来て、それから散っていく。散り方が、揃っていなかった。数人は最後までこちらを見ていた。
姉は最前列にいた。わたしは後ろの壁際に立つ。付き人の席というものは無いので、立っているのが正しい。教壇の老教官が出席を取り終えて、講義の題を黒板に書きはじめた。文字の癖が強い人だ。「る」の輪が閉じきらない。
その背中に向かって、姉が立ち上がった。
「先生。申し上げたいことがございます」
老教官が眼鏡を上げて振り返った。
「なんでしょう、ヴァレンティ嬢」
「昨日の筆記の結果について、疑義がございます」
前のほうで、椅子の脚が床を擦った。
「わたくしの妹は、入学試験を受けておりません。付き人として編入した者です。その者が、正規の入学者を差し置いて満点というのは……いかがなものかと」
誰も何も言わなかった。言えることがないからではなく、面白いからだ。わたしは壁際で、抱えていた姉の外套を椅子の背に掛けた。掛けるあいだに考えをまとめようとしたが、まとまらなかった。
「お姉様」
わたしは言った。声が思ったより小さくて、言い直した。
「わたくしは、規則に反したことはしておりません」
「していないと言うのは簡単ですわ」
姉が振り返った。教室の全員に聞かせる角度で。
「エルシャ。あなたが書けるはずないでしょう。あなたは、わたくしの筆記具なのだから」
言い終わってから、姉の唇がわずかに動いた。言いすぎたと思ったのかもしれない。けれど取り消しはしなかった。取り消せば、いま言ったことが本当だと認めることになる。
わたしは、そのとき何を感じたのか、あとで思い出そうとしてうまくいかなかった。怒りではなかったと思う。十年言われ続けたことを、はじめて人前で言われた。それだけだ。
ただ、指の先が急に軽くなった。
「先生」
わたしは前へ出た。
「では、ここで書きます。何をお書きすればよろしいですか」
老教官が、眼鏡の奥でわたしを見た。値踏みではなかった。もっと単純に、面白がっている目だった。
「では、昨日の四題目をもう一度」
「はい」
「ただし、条件を変えます。――記録が三年ぶん同じ筆跡だった。ここまでは同じ。ですが今度は、インクの濃さも三年ぶん揃っていました。さて、何が言えますか」
教室のどこかで、息を呑む音がした。昨日の答案を読んだ人にしか、この意地の悪さは分からない。わたしが昨日書いた答えを、そのまま封じる条件だった。
わたしは教壇の脇の机につき、ペンを取った。学園規格の、教官が使っているものだ。母の万年筆は寮に置いてある。書き出しの一画で、また癖が寄ってきた。右上がりに寝かせようとする、十年ぶんの手。
力を抜く。線が、まっすぐに寝た。
――インクが揃っているなら、後からまとめて書いた見込みが上がる。ただし断定はできない。同じ工房の同じ調合を三年使い続けた場合も揃うからだ。だから見るべきは濃さではない。
わたしはペンを紙から離さずに書き続けた。
――紙のほうを見る。三年ぶん同じ帳面なら、綴じの糸の弛みが年ごとに違う。まとめて書いたなら、弛みの位置と筆圧の位置がずれる。書いた順を、紙が覚えている。
書きながら、頭のどこかで別のことを考えていた。この答えを、わたしはどこで覚えたのだったか。誰にも教わっていない。三年ぶんの帳面を一晩でまとめて書かされた夜に、糸の弛みが邪魔で、ページの押さえ方を工夫した。それだけだ。
知識ではなく、覚えのある手の話をしている。最後の一行を書いて、名前を書いた。エルシャ・ヴァレンティ。顔を上げると、老教官がすぐ横に立っていた。答案を取り上げて、二度読んだ。一度目より二度目のほうが、読むのに時間がかかっていた。
それから、教室に向かって読み上げた。
「エルシャ・ヴァレンティ嬢。――正答です。いや、正答より先まで書いている」
名前を、他人の声で聞いた。紙の上ではなく、教室の空気の中で。わたしはうまく息が吸えなくて、机の縁を持った。誰かが小さく拍手をして、すぐやめた。やめたのは、姉が座っていたからだと思う。
姉は前を向いたまま、微動もしなかった。
「ヴァレンティ嬢」
老教官が姉のほうを見た。
「疑義があるとおっしゃった。同じ問いをお書きになりますか」
姉は答えない。その沈黙が、たぶん、教室の全員にとっていちばん分かりやすい答えだった。講義が終わって人が出ていったあと、わたしは廊下の窓のところで少し立ち止まった。息を整えたかった。
窓の桟に指を置くと、指先がまだ震えていた。書き終えたときには止まっていたのに、いまになって来ている。中庭を、生徒がひとり横切っていた。
外套の裾に、王家の紋。その人は歩きながら、手に紙を二枚持っていた。並べて、見比べていた。距離があって顔は見えなかったけれど、紙の白さだけがはっきり見えた。
二枚とも、答案の形をしていた。昨日の筆記のわたしの答案と、それから、もう一枚。もう一枚のほうは、紙の色が違った。新しくない。何年か前のもののように見えた。
彼が足を止めた。二枚を目の高さまで上げて、また下ろした。そして、誰にも聞かせるつもりのない声で、何かを短く言った。わたしには聞こえなかった。
次話、家から手紙が届きます。エルシャは初めて、自分の字で返事を書きます。




