第2話 掲示板のいちばん上
王立アルデン学園の入学初日は、字を書くところから始まった。
大講堂に長机が並べられ、新入生が順に呼ばれる。机の上には登録簿と、学園規格のペンが一本。教官が短い文章を読み上げ、それを書き取る。それだけの手続きだ。
「これがあなたがたの筆跡見本になります。以後、提出物はすべてこれと照合されます」
教官の声が高い天井に反射した。二百人ぶんの緊張が、床から立ちのぼっている。
「代筆、写し、他人名義の提出。これらは学園規則の第九条にあたります。退学です」
誰かが小さく咳をした。わたしは列の後ろのほうで、自分の指を見ていた。この十年、この手が書いてきたもののほとんどが、たったいま読み上げられた条文に触れている。
規則が変わったのではない。照合が始まっただけだ。今までもずっと退学に値することをしていて、ただ誰も確かめなかっただけ。そう考えると、足の裏が少し浮くような気がした。
姉が先に呼ばれた。ロザリー・ヴァレンティ。姉は背筋を伸ばして机につき、ペンを取り、ゆっくりと書いた。姉が自分の字を人前で書くところを、わたしはこの日はじめて見た。
遠くて手元は見えない。ただ、姉の肩に力が入っていた。肘が浮いて、下がって、また浮いた。
「ヴァレンティ嬢。もう少しはっきり」
「……申し訳ありません」
姉は二度書き直して席を立った。戻ってくるとき、わたしの横を通ったが、目は合わなかった。すれ違いざま、外套の裾がわたしの膝に当たった。
次に呼ばれたのがわたしだった。机につく。ペンを取る。教官が読み上げる。
――「われらは、記されたものによって、記した者を知る」
学園の標語だと、あとで知った。わたしの手は、書き出しの一画で止まった。姉の癖が出そうになったのだ。右上がりに寝かせて、「し」を跳ねる。十年ぶん積み重なった手の記憶が、勝手にそちらへ行こうとする。
わたしは指の力を抜いた。癖を抜くには、力を抜くしかない。力を入れて直そうとすると、力の入れ方のほうが癖になる。それは十三のときに一度試して、うまくいかなかった。
線が、まっすぐに寝た。跳ねない「し」。少し右下がりの、小さな字。書き終えて顔を上げると、教官が登録簿を覗き込んでいた。
「……ヴァレンティ嬢。あなた、下のお嬢さんでしたね」
「はい」
「けっこうです。次」
それだけだった。それだけのことだった。わたしは自分の席に戻って、両手を膝の上に置いた。手が少し震えていて、止めるのに時間がかかった。
付き人には寮の個室が与えられない。与えられるのは、主人の部屋の隣にある納戸のような小部屋で、寝台と洗面台と、机がひとつある。机があるだけありがたい、と案内の使用人は言った。悪気はなかったと思う。
わたしは荷を解いて、母の万年筆を机の端に置いた。この部屋には、姉の課題も、父の書簡も、まだ届いていない。届くまでのあいだ、この机はわたしのものだ。
午後は最初の抜き打ち筆記だった。新入生の実力を見るためのもので、成績には入らないと説明があった。四題。数論と、古語と、家政記録の読み取りと、論述。
付き人も受けさせられた。人数の都合で、席が余ると格好がつかないのだそうだ。わたしは三題目まで手が動いた。四題目の論述で、手が遅くなった。
問いはこうだった。――ある領地の収穫記録が、三年ぶん、同じ筆跡で書かれている。この記録から何が言えるか。言えることは、たぶん出題者が想定しているより多い。
同じ筆跡で三年ぶんということは、書き手が三年変わっていないということだ。それはいい。けれど記録というのは普通、その年の担当者が書く。三年変わっていないなら、担当者が三年据え置かれたか、あるいは――誰かが後からまとめて書いたか。
わたしはあとのほうを書いた。まとめて書いた場合、筆記具のインクが三年ぶん同じになる。年ごとに揃えるのは難しい。だから、記録そのものより、インクの濃さを見るべきだと。
こういう問いに答えられるのは、わたしが賢いからではない。まとめて書いたことがあるからだ。書き終えて、名前を書く欄で、ペンを持ったまま少し考えた。
エルシャ・ヴァレンティ。紙の上のその名を、わたしはしばらく見ていた。灰にしなくていい名前を見たのは、はじめてだった。提出のとき、後ろの席の生徒が答案を覗いてきて、それから慌てて目を逸らした。
掲示は翌朝だった。中庭の掲示板に人だかりができていて、わたしは近づけなかった。付き人が新入生の輪に入るものではない。姉の外套を抱えて、少し離れた並木の下で待っていた。
朝の空気が冷たくて、抱えた外套から姉の香油の匂いがした。人だかりが、ざわっと形を変えた。誰かがこちらを見た。二人になり、五人になった。
「あれが下のヴァレンティ?」
「付き人だって聞いたけど」
「付き人って、受けてよかったの」
姉が人をかき分けて出てきた。頬が白かった。歩き方が速すぎて、所作が崩れていた。姉の所作が崩れるところも、わたしははじめて見た。
「エルシャ」
「はい、お姉様」
「あなた、なにをしたの」
わたしは掲示板を見に行った。人が割れた。割れてくれたのが、かえって怖かった。一枚目の紙の、いちばん上に、わたしの名前があった。
エルシャ・ヴァレンティ。四題、満点。その三行下に、ロザリー・ヴァレンティの名前があった。わたしの字ではない、姉自身の字で書かれた答案の点が、そこに並んでいた。
わたしは、その二つの名前の間にある三行を、順に読んでいった。知らない人の名前が三つ。この三人は、たぶん今日のことを一生忘れない。
背中で、姉の声がした。
「……この結果、明日には訂正されますからね」
次話、姉が人前で言います。「あなたが書けるはずないでしょう」と。




