第1話 わたしの字は、わたしのものではありません
姉の答案を、十年書いてきました。
今年から、学園は筆跡を照合します。
わたしの字は、わたしのものではありません。
燭台をひとつだけ灯した書斎で、わたしは姉の答案を書いていた。姉の筆跡は右上がりで、「し」の終わりをわずかに跳ね上げる。十年も真似ていれば、考えなくても手が勝手にそう動く。
「まだ終わりませんの」
扉の向こうから姉の声がした。返事をする前に、扉は開いている。
「あと二枚です、お姉様」
「三枚に増やして。設問を読み違えたことにしておきたいの。満点だと、かえって疑われるでしょう」
わたしはペンを持ち替えた。わざと間違える、というのがいちばん難しい。正解を知ったうえで、姉が間違えそうな形に外す。姉の手癖で、姉の思考の速さで。
ロザリー・ヴァレンティなら、第三問の条件式を最後まで読まない。読まないまま、いちばんそれらしい形に飛びつく。だから最後の一行だけを落とす。惜しい形で。
「お姉様。第三問は、途中まで合っている形にしておきます」
「好きになさい。あなたの得意でしょう」
姉は扉の枠に寄りかかったまま、部屋には入ってこなかった。この書斎に姉が足を踏み入れるところを、わたしは見たことがない。インクの匂いが嫌いなのだと、幼い頃に一度だけ聞いた。
「エルシャ。ひとつ言っておきますけれど」
「はい」
「あなたのそれは、才能ではありませんからね。真似が上手なだけ。筆記具が上等だからといって、筆記具が偉いわけではないでしょう」
扉が閉まった。廊下を遠ざかる靴音を数えて、十を過ぎたあたりで、わたしは息を吐いた。
机の上には二本のペンがある。姉の答案を書くときに使う学園規格のものと、母の万年筆。母のほうは先端がわずかに割れていて、力を入れると線が二重になる。修理に出せば直ると思う。出したことはない。父に願い出れば、なぜそんなものが要るのかと訊かれる。
三枚を揃えて、末尾に署名した。ロザリー・ヴァレンティ。右上がりの、跳ねる「し」。それから机の隅の反故紙を引き寄せて、母の万年筆に持ち替えた。癖を全部抜いた字で、自分の名を書いた。
エルシャ・ヴァレンティ。線が二重になった。それでも、これがわたしの字だ。右上がりでもないし、跳ねもしない。十六年生きて、この名を紙に書いたのは、たぶん二十回もない。
わたしはその紙を燭台の火にかざして、灰になるまで見ていた。
灰が皿の上で崩れたところで、扉がまた開いた。
「まだ何を燃やしていますの。煙たいこと」
姉は鼻先だけを顰めて、それ以上は書斎に踏み込んでこなかった。わたしは灰皿を袖の内側へ隠して、答案の束だけを差し出した。
「三枚、確かに」
「よろしい」
合格の報せは、四日後に届いた。
王立アルデン学園。貴族の子女が十五から十八まで通う、この国でいちばん名前の重い学園だ。玄関広間で父が封を開け、ロザリーの名を読み上げると、使用人たちが一斉に拍手をした。
「よくやった、ロザリー」
「わたくし、少し不安でしたの。第三問を読み違えてしまって」
姉が頬に手を当てる。所作は本物だ。あれは真似できない。指の角度、首の傾き、間の取り方。十八年ぶんの教育がそこに全部入っている。わたしが持っていないものを、姉は持っている。
わたしは階段の下で盆を持って立っていた。誰も振り返らない。それでいい。振り返られると困る話のほうが、この家には多い。
「エルシャ」
父が呼んだ。名前を呼ばれたのが久しぶりで、返事が一拍遅れた。
「はい」
「お前も行く。ロザリーの付き人としてだ。願書は出しておいた」
盆の上で、グラスの脚が小さく鳴った。
「……わたくしが、学園に」
「勘違いするな。あの子の身の回りを見る者が要る。それだけだ」
それだけだ、と父は繰り返した。念を押すときの言い方だった。父は封筒をもう一通、指ではさんで振ってみせた。
「それと、今年から学園は筆跡を照合するそうだ。入学の日に本人の字を登録簿に取って、以後の提出物と突き合わせる。不正が多いのだと」
使用人の拍手が、揃わないまま途切れた。誰も意味が分からずに、続きを探している。父は封筒を執事に渡し、もう別のことを考えている顔をしていた。
姉は微笑んだままだった。目だけがこちらを見ていた。その夜、屋敷に第二王子が来た。
祝いの席というほどのものではない。学園に上がる公爵家の娘へ、王家から形ばかりの挨拶があるというだけの話だ。セドリック・ヴァルフォード殿下は十七で、姉のひとつ下になる。
わたしは壁際で、飲み物の盆を持っていた。給仕は本来わたしの仕事ではないけれど、こういう夜は人手が足りない。壁際に立っていると、部屋の全部が見える。誰が誰の話を聞いていないかまで見える。
殿下は、変わった人だった。広間に入って最初にしたのが、祝辞の書かれた掛け軸を見上げることだったのだ。人ではなく、紙を先に見た。それから思い出したように父へ挨拶をした。
姉と二言三言かわしたあと、殿下は少し声を落とした。
「ヴァレンティ嬢。三年前、僕が兄のことで手紙を書いたのを、覚えていますか」
姉の睫毛が一度だけ動いた。
「……ええ。もちろん」
「返事をくださったでしょう。あれを書いたのは、あなたですか」
わたしの指の先が冷たくなった。三年前。わたしは十三で、姉宛ての書簡はもう全部わたしが引き受けていた。王家からの一通は特別扱いになるはずだったのに、姉は封も切らずにわたしの机に置いていった。適当に返しておいて、と言って。
封の中には、十四の少年が書いた、うまくない字が並んでいた。兄と比べられる、という話だった。比べられるたびに、自分がだんだん薄くなっていく気がする、と。
あの晩、わたしは適当に返さなかった。理由は今でもうまく言えない。ただ、薄くなっていく気がするという言い方に、覚えがあった。
「わたくしですわ」
姉は言った。迷いのない声だった。嘘をつくときの姉は、いつもより少しだけ発音が丁寧になる。
「そうですか」
殿下は言って、それきり黙った。納得した人の黙り方ではなかった。姉の顔を見て、それから広間をゆっくり見渡した。壁際を、順に。
わたしは盆を持ち直した。
「あの返事に、僕は一度だけ助けられました」
殿下の視線が、わたしのところで止まった。
「だから、書いた方に、もう一度お会いしたいと思っていたんです」
次話、学園の初日。エルシャは十年ぶりに、自分の字で紙に書きます。




