第15話 筆跡は変えられます。設計は変えられません
問題は三題だった。
古語の格変化、数論の証明、そして論述。制限は一時間。イレーヌ様が言ったとおり、古語には第七格が出た。例外が四つ。イレーヌ様のペンが、いちばん最初に動き出した。
わたしは自分の紙に向かった。粗い紙は、想像より扱いにくかった。縦の線は走りすぎ、横の線は繊維に引っかかって、線の端が毛羽立つ。
入学の日と同じ字を書くには、走りすぎる縦を殺し、引っかかる横を押し出す。左右で力の配分を変える。考えながら書くと遅れる。だから考えないことにした。
考えないで書くと、十年ぶんの手が出る。
――右上がりに寝かせて、「し」を跳ねる手が。
わたしは、その手を押さえて書いた。押さえながら、押さえていることを紙に出さないように書いた。二百人の視線が背中にあった。それは意外なほど気にならなかった。気になったのは、左隣の音だ。
ニナ様のペンが、止まっては動き、止まっては動きしていた。紙が擦れる音がする。傾けている音だ。三十分が過ぎた頃、左の音が変わった。
止まらなくなった。わたしは横を見なかった。見たら、この子が意識してしまう。ただ、音の間隔だけを数えていた。等間隔になっていた。
一時間が終わった。
「筆を置いてください」
教官が言った。五枚が回収され、当日採取した見本と並べて、教官三人が照合を始めた。講堂は静かだった。二百人が黙って待つ音というものがあることを、わたしはこの日はじめて知った。
十五分後、教官が顔を上げた。
「照合の結果を申し上げます」
紙をめくる音。
「ボードワン嬢、マルシャン君、アンベール君、ダゴベール嬢――いずれも本人の筆跡と一致。差異は基準内」
ルカ様が「よし」と言った。ニナ様は自分の膝を見ていた。
「ヴァレンティ嬢」
教官の声が、少し止まった。
「――差異、基準の一・八倍。基準は二倍。よって、基準内」
講堂が、一度、大きく動いた。わたしは背中の力を抜いた。抜いたときに、はじめて自分が固まっていたことに気づいた。
「待ってください」
声が上がった。前列からだった。マリウス様が立っていた。
「一・八倍は、基準内です。それは認めます」
その人は教官席から壇のほうへ出てきた。
「ですが、他の四名の差異は、〇・三から〇・六倍です。ヴァレンティ嬢だけが三倍以上ばらついている。この数字を、皆さんはどう読みますか」
講堂がざわついた。
「僕が知りたいのは、規則の内か外かではありません」
マリウス様は壇の下に立って、こちらを見上げた。
「なぜ、あなたの字だけが揺れるのか。それを説明してください」
わたしは立ち上がった。説明できる。説明したくない。その両方が、同時にあった。説明すれば、この十年が全部出る。わたしは、講堂を見た。
二百人がいて、その真ん中あたりに第七班の四人がいて、前列に濃い青の外套の女性がいた。そして扉の近くに、セドリック殿下が立っていた。座らずに、立って見ていた。
わたしは口を開いた。
「揺れる理由は、三つございます」
自分の声が、思ったより遠くまで届いた。
「ひとつ。本日の見本用紙は、入学時の登録簿と紙が違います。繊維の目が粗く、縦に強く出ております。同じ手で書けば、縦が走り、横が引っかかります」
教官のひとりが、手元の紙を撫でた。撫でて、隣の教官と顔を見合わせた。
「ふたつ。わたくしは今朝、ボードワン嬢のペンを拾って、右手首を押さえました。その直後に自分の見本を書いております。他人の手を押さえたあとの手は、力の配分が変わります」
ざわめきが起きた。
「みっつめは」
わたしは息を吸った。
「オルコット様のおっしゃるとおりです。わたくしの字には、抜いた癖がございます」
講堂が、静まった。
「わたくしは十年、家の書き物を引き受けてまいりました。屋敷の中でのことで、学園の規則の外の話でございます。ですが、その十年で手についた癖は、いまも残っております」
誰も動かなかった。
「オルコット様。ひとつ、お願いがございます」
わたしはマリウス様を見た。
「わたくしの答案の三題目を、いま、お読みいただけますか」
マリウス様は教官から答案を受け取って、目を落とした。読みながら、その人の眉が動いた。
「……これは」
「わたくしの答案です。字はご覧のとおり揺れております。では、うかがいます」
わたしは言った。
「その論の組み立てを、他の誰かが書いたと思われますか」
マリウス様は答えなかった。
「筆跡は変えられます」
「わたくしは十年、それをしてまいりましたから、よく存じております。姉の字も、父の字も、書けます。今日この場で、オルコット様の字も書けるようになるでしょう」
講堂の空気が、はっきりと変わった。
「けれど、設計は変えられません」
わたしは続けた。
「どの順で並べ、どこを削り、何を先に言うか。それは手ではなく、その人の考え方から出ます。真似ようとすれば、真似た跡が必ず出ます。字よりずっと、はっきり出ます」
わたしは、自分の答案を指した。
「ですから、照合すべきは字ではないと、わたくしは思っております。――記されたものによって、記した者を知る。学園の標語です。記されたものとは、字のことではないはずです」
誰かが拍手をした。一人だった拍手が、五人になり、それから止まらなくなった。マリウス様は答案を持ったまま、しばらく動かなかった。
それから、教官のほうへ振り返って、はっきり言った。
「――申し立てを取り下げます。第七班の提出物に、疑義はありません」
講堂を出るまでに、ずいぶん時間がかかった。人が多かったのと、ニナ様が泣き出して止まらなかったからだ。回廊に出たところで、後ろから声がした。
「ヴァレンティ嬢」
振り返ると、セドリック殿下がいた。殿下は、いつもの逃げ道を作る言い方をしなかった。まっすぐ立って、まっすぐ言った。
「君の字を、僕は三年前から知っている」
回廊の柱の影が、床に長く伸びていた。わたしは、今度は否定しなかった。否定する理由が、たったいま、全部無くなったからだ。
「……はい」
「わたくしが書きました」
殿下は、目を閉じた。三年ぶんの何かを、そこで下ろした人の顔だった。
「ありがとう」
殿下は言った。
「返事を書く。宛名を、やっと書ける」
それから、少し言い淀んで、続けた。
「だから、その前にひとつだけ言わせてほしい。――君は、これから面倒なことになる」
わたしは顔を上げた。
「今日の話は、もう学園の外に出た。あそこに座っていた青い外套の人は、王妃付き女官長のドラクロワ様だ」
殿下は回廊の先を見た。その先の扉から、濃い青の外套が出ていくところだった。
「あの人は、代筆をした人間を、探しに来ている」
次話、首席候補の名簿が貼り出されます。エルシャの名前には、印がついています。




