第14話 震える右手を、誰かが押さえた
三日は、思っていたより短かった。
初日、わたしたちは教室に机を五つ並べて、時間を計って書いた。ニナ様は最初の十分で二行しか進まなかった。二日目、講堂を借りて同じことをした。空の講堂でも、ニナ様の手は震えた。
「人がいなくても震えます」
ニナ様は自分の右手を左手で押さえていた。
「広いところだと、だめみたいです」
二日目の夜、講堂の鍵を返しに行く途中で、ニナ様が小さい声で言った。書けなかったらごめんなさい、と。わたしは、謝らなくていいと答えた。答えてから、それでは何の役にも立たないと気づいたが、代わりの言葉は出てこなかった。
三日目の朝、わたしは早くに目が覚めた。窓の外がまだ暗い。机の抽斗を開けて、自分の名前を書いた紙を出した。三日前の夜に書いたものだ。
これを人前で書けるだろうか、と考えて、考えるのをやめた。考えても震えは止まらない。止まらないものについて考えるのは、時間の使い方として悪い。
わたしは着替えて、講堂へ向かった。開場の一時間前に着いたのに、講堂の前には既に人がいた。テオ様とルカ様とイレーヌ様が、扉の前に立っていた。
「早いですね」
「あんたのほうが早いだろ」
ルカ様が言った。手に紙包みを持っている。
「これ。ペン、五本ぶん調整してきた。全員の筆圧に合わせた」
「昨夜、寮の裏で削ってた」
テオ様が補足した。
「ずっと音がしてて眠れなかった」
「起きてただろお前、いつも寝てるくせに」
イレーヌ様が本を閉じて、口を開いた。
「古語の第七格変化」
脈絡がなかった。
「今日の問題に出る。三日前の告示の問題例に、古語が入っていた。第七格は例外が四つある。全部言える」
この人が四文以上続けて話したのは、はじめてだった。話し終えると、また本を開いて、そのまま黙った。伝えるべきことだけを伝えて、余りを一切つけない話し方だった。
「ニナは」
わたしは訊いた。
「まだ来てない」
ニナ様が来たのは、開場十分前だった。顔が白かった。歩き方が、ぎこちなかった。
「すみません、遅くなりました」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないです」
正直な子だ。
「でも来ました。来たので、たぶん大丈夫です」
わたしは、その言い方を覚えておこうと思った。講堂に入って、五つの机が壇上に並べられているのを見た。二百人ぶんの椅子は、既に半分埋まっていた。開場前なのに、である。
教官が机の割り振りを読み上げた。わたしは中央。左にニナ様、右にルカ様。
「では、これより見本の採取を行います」
教務の教官が、登録簿と見本用の紙を持って上がってきた。
「五名は、この紙にお名前をお書きください。これを本日の照合基準といたします」
紙が配られた。わたしはその紙を受け取って、指の腹で表面を撫でた。
――違う。
紙の目が違う。入学の日に書いた登録簿の紙は、繊維の細かい厚紙だった。指を滑らせるとほとんど抵抗がない。この紙は、粗い。繊維の向きが縦に強く出ている。
この紙にペンを走らせれば、縦の線は滑り、横の線は引っかかる。癖を抜いた字は、力の入れ方で保っている。引っかかる紙では、力の抜き方が変わる。
差異は、必ず出る。紙を替えるという手は、規則のどこにも触れていない。見本用の紙の質については、告示にも条件の紙にも一行も書かれていなかった。書かれていないものは、破れない。
わたしは顔を上げて、講堂を見た。マリウス様は前列の教官席にいた。書類を膝に置いて、こちらを見ていない。その隣に、見たことのない女性が座っていた。
濃い青の外套。学園の関係者ではない。年は四十を過ぎたくらいで、姿勢が異様にきれいだった。姉の所作を教えた教師が、あれの半分でも動けたら褒められただろうと思うくらいに。
その人が、わたしを見ていた。目が合っても、逸らさなかった。
「ヴァレンティ嬢。お書きください」
教官が促した。わたしはペンを持った。左で、音がした。ニナ様のペンが、机から落ちた音だった。拾おうとした手が、震えて、二度目も掴めなかった。講堂のどこかで、小さな笑い声がした。
わたしは自分のペンを置いて、身を屈めた。ニナ様のペンを拾って、その手に持たせた。持たせてから、その右手首を、自分の手で上から押さえた。
「ボードワン様」
小さい声で言った。
「傾けてください」
ニナ様の目が、わたしを見た。
「紙です。左の端を二寸。それだけしてください。あとは、いつもと同じです」
「でも、震えて」
「震えたままお書きください」
わたしは言った。
「震えた字も、あなたの字です」
ニナ様の唇が、少し開いた。それから、頷いた。わたしは手を離して、自分の机に戻った。紙を引き寄せる。粗い紙。縦に走る繊維。わたしはペンを持ち直した。
この紙で、入学の日と同じ字を書かなければならない。力の入れ方を、紙のほうに合わせて変えなければならない。
――変えて、同じにする。
それは、十年やってきたことだ。姉の手癖で、姉の思考の速さで、日によって違う紙に、同じ字を書く。わたしは、それだけをやってきた。
ペン先が紙に触れた。繊維が、指に伝わってきた。
次話、公開筆記試験。二百人が見ています。




