皇位継承の亀裂
小広間の壁には、外の音を断つための青白い結界文字が幾重にも刻まれていた。
灯火は絞られ、卓上の酒も手つかずのまま冷えている。祝宴の席ではない。誰もがそれを理解していた。
卓の上座に座るのは、第二皇子セドリック・ヴァルガストだった。
赤みを帯びた金髪を後ろへ流し、軍装に似せた濃紺の礼服を着ている。兄マクシミリアンのような華やかさはないが、その代わりに剥き出しの意志があった。人を従わせることに迷いを持たない目だった。
向かいには第三皇子オスカー。
年若い皇子は痩せた指を膝の上で組み、視線を落としたまま口を閉ざしている。玉座へ向かう野心も、ここで兄へ逆らう胆力も持ち合わせていない顔だった。
その隣には、側妃カサンドラが座っていた。
年齢を感じさせぬ滑らかな微笑を湛えながら、その瞳だけは氷のように乾いている。皇帝ルドルフの寵愛を受け、後宮で静かに勢力を伸ばしてきた女だった。
セドリックは沈黙を裂くように言った。
「皇太子が失格した今、帝国の皇位は我にある」
その言葉は宣言であって、相談ではなかった。
オスカーの肩が小さく揺れる。
だが何も言わない。言えない。兄の失格からまだ一日も経っていないのに、次の争いが始まっている。その現実に呑まれているようだった。
カサンドラだけが、静かに杯を持ち上げもせず応じる。
「早計です、殿下」
セドリックの眉がわずかに動く。
「兄上は落ちた。第一継承権は消えた。なら次は私だ」
「継承順なら」
カサンドラはそこで言葉を切り、薄く笑った。
「ですが今や、継承権そのものを剥がす男が帝都の中央に立っています」
小広間の空気が少し重くなる。
誰もその名を口にしたがらなかった。口にした瞬間、その存在が現実味を増すからだ。
セドリックが鼻で笑う。
「帝冠監察官か」
「ええ」
カサンドラは目を伏せた。
「あの男がいる限り、皇族は血だけで冠へ手を伸ばせません。兄君が失格したのは、兄君が愚かだったからだけではない。帝冠監察官が、本気で権限を振るったからです」
オスカーが恐る恐る口を開いた。
「では……我らも、裁かれるのですか」
「罪があれば」
答えたのはカサンドラだった。
あまりにも当然のように言われて、オスカーの顔色がさらに悪くなる。
セドリックは逆に、口元を吊り上げた。
「ならば単純だ。裁かれる前に、あの男を縛ればいい」
「殺す、と?」
「必要なら」
ためらいのない返答だった。
オスカーが息を呑む。カサンドラは目を細めるだけで、驚きは見せない。
「兄上は血に酔って負けた。だが私は違う」
セドリックは肘を卓へ置き、指を組んだ。
「帝国は強い者が握るべきだ。継承順も法も、最後に国を支える力がなければ意味がない。帝冠監察官は厄介だが、軍がこちらへつけば押し切れる」
その言葉に、カサンドラの瞳が初めてわずかに硬くなった。
「殿下。押し切る、という発想そのものが危ういのです。兄君もまた、自分なら押し切れると信じて失格した」
「私は兄上ほど愚かではない」
「愚かさは、たいていそう言う者から始まります」
場が凍る。
オスカーが視線をさまよわせたが、セドリックは怒らなかった。むしろ、その冷たさを受け止めた上で笑う。
「だからこそ、貴女を呼んだのだよ。母上」
側妃はわずかに睫毛を伏せた。
実子ではない。だが、後宮でセドリックを育て、ここまで押し上げてきたのは確かに彼女だった。
「では、申し上げます」
カサンドラは静かに背を正した。
「帝冠監察官を正面から敵に回してはなりません。少なくとも今は」
「ならどうする」
「混乱を広げるのです」
その一言に、セドリックの笑みが深くなる。
同じ答えへ辿り着いていたのだと、互いに理解した顔だった。
「皇太子失格で帝都は揺れています。元老院は権限縮小を考え、軍は次の継承者を見定め、貴族たちは新しい寄る辺を探している」
カサンドラは指先で卓をなぞった。
「この揺れを大きくする。帝冠監察官が一人で量り切れぬほどに」
「その間に、軍を押さえる」
「ええ。殿下が軍を握れば、次の秩序を名乗れます」
オスカーがかすれた声で言う。
「そんなことをすれば、帝国が割れる」
セドリックは弟を見た。
その視線に温度はなかった。
「割れかけた帝国を掴み直すのが、強者の役目だ」
オスカーは唇を噛み、二度と何も言わなかった。
その夜更け、セドリックは護衛を最小限に絞って小広間を出た。
向かった先は皇宮でも公館でもない。帝都西端、軍需倉庫群の裏手にある古い練兵館跡だった。
石造りの建物は今では半ば放棄されているが、地下だけは別用途で生きていた。
重い扉の内側には、軍靴の音を殺すため厚い絨毯が敷かれ、壁には帝国東部戦線の地図が掛けられている。
待っていたのは三人。
東方方面軍の将官、中央守備軍の補給監、そして軍務省と太い繋がりを持つ老将だった。いずれも、皇太子より「使える次男」を高く買っていた者たちである。
老将が口を開いた。
「この時期に皇子自らお出ましとは、余裕がありませんな」
挑発めいた言い方だったが、セドリックは気にしない。
「余裕がある者など、帝都に一人もいない」
地下室の中央に置かれた卓へ歩み寄り、彼は皇城方面を示す地図の上へ手を置いた。
「兄上が落ちた。次は私だ。だがその前に、帝冠監察官という異物が現れた」
補給監が渋い顔をする。
「異物と切り捨てるには、民衆の受けが良すぎます。兵の間でも、皇太子の禁呪を止めた話が広がっております」
「知っている」
セドリックは頷いた。
「だからこそ、正義ではなく混乱として扱う」
将官の一人が腕を組む。
「どういう意味です」
「皇太子失格は一つの判決にすぎない。だが皇族も貴族も軍も次々と監察されるとなれば、帝都は萎縮する。命令は遅れ、補給は滞り、誰も決裁できなくなる。そうなれば民は正義より安定を求める」
老将の目が細くなった。
「そして、その安定を殿下が与えると?」
「軍を背景にな」
セドリックの返答は明快だった。
「帝国全体が混乱していては、帝冠監察官も対応しきれない。あの男は法を守る。なら、法が追いつかぬ速度で火種を増やせばいい」
将官たちは沈黙した。
危険な策だ。だが、可能性はある。そう計算している沈黙だった。
補給監が低く問う。
「我らに何を求めます」
「まずは様子見の顔をしろ。表向きは病床の皇帝へ忠誠を誓い、裏では兵站と指揮系統の鍵をこちらへ寄せる。皇太子派が崩れた穴へ、私の名で人を差し込め」
「露骨すぎれば元老院が嗅ぎつけます」
「嗅ぎつかせろ。あの老人どもは、帝冠監察官の首が取れるなら私を利用する」
そこで初めて、老将が笑った。
「なるほど。殿下は元老院も駒にするおつもりか」
「駒にならぬ者は盤から落ちるだけだ」
その言葉には、兄とは別種の冷たさがあった。
血統への陶酔ではない。勝つために全員を配置として見る冷酷さ。
将官が最後の確認をする。
「もし帝冠監察官が殿下ご自身を監察対象に据えた場合は」
セドリックは薄く笑った。
「その前に、帝国の方を騒がしくしてやる」
会談が終わるころには、地下の空気は軍靴の革の匂いより、野心の匂いで濁っていた。
だが、その帰路でセドリックを待っていた影がある。
皇城へ戻る途中、人気のない回廊に二人の男が膝をついていた。どちらも皇太子府の色を失った元側近だった。衣は地味に変えていても、染みついた怯えは隠しきれていない。
「第二皇子殿下に、お願いがございます」
セドリックは足を止めたまま、見下ろした。
「名を」
「ユリウス・ベルナール、元皇太子府書記官」
「カイ・ローデン、近習頭でございました」
皇太子派の生き残り。
処分を逃れて潜っていた鼠が、自分から這い出てきたのだとセドリックはすぐ理解した。
「で、何を売りに来た」
ユリウスが顔を上げる。
その目には、忠誠より生存への執着があった。
「帝冠監察官の排除に協力いたします」
カイも続く。
「見返りに、殿下の御即位の暁には、我らの罪を不問に」
セドリックはしばらく黙った。
軽蔑するのは簡単だった。だが、こういう人間ほど使い道があるのも知っている。
「兄上へ最後まで忠義を尽くすという発想はないのか」
ユリウスの喉がひくりと動く。
「あのお方は、もう終わりました」
あまりにも早い見切りに、側近の一人が眉をひそめた。
だがセドリックはむしろ、そこに満足した。
「正直で結構だ」
彼は二人の前へ半歩だけ進んだ。
「帝位を守ろう、と言ったな」
「は、はい」
「なら示せ。何を持っている」
ユリウスは震える手で、封を切った小袋を差し出した。
中には写しの紙片が数枚。皇太子府の裏帳簿の断片、元老院の一部議員名、そして帝冠監察院の古い見取り図に赤い印がある。
「監察院の地下通路です。閉鎖されたはずの経路ですが、まだ一部は生きています」
セドリックの目が細くなる。
それだけで使える情報だった。
「面白い」
カイが顔を上げる。
「我らを、お使いいただけますか」
「使うとも」
セドリックは冷ややかに言った。
「ただし覚えておけ。兄上を切り捨てた者が、次に私を裏切らない保証はない」
二人の背に汗が滲む。
「ですから、最初から信じはしない。役に立て。役に立つ限り、生かしてやる」
それは恩赦ではなく、首輪だった。
だが二人はそれでも深く頭を下げた。生き延びるための紐なら、何でも掴むつもりなのだ。
セドリックが去った後、回廊にはしばらく誰も動けぬような冷たさだけが残った。
同じ夜。
元老院議長グレゴリウス・バルテンは、自邸の書斎で二通の報告書を前にしていた。
一通は、第二皇子が軍閥派と接触したという密告。
もう一通は、皇太子府残党が動き始めたという報せ。
老人は燭台の火を見つめながら、ゆっくりと笑った。
「若い」
その一言に、侍従は意味を測りかねて頭を下げる。
グレゴリウスは報告書を卓へ置いた。
「第二皇子は、自分が火を操る側だと思っている。だが火は、操る者の袖から先に焼くものだ」
「では、止められますか」
「止めぬ」
老人の返答は即座だった。
「育てるのだ」
侍従が息を呑む。
「帝冠監察官を排するには、あれほど分かりやすい野心がちょうどよい。軍を引きつけ、保守貴族を寄せ、若い血を騒がせる。盤面が荒れれば、秩序を求める声は必ず制度の側へ戻る」
グレゴリウスの指先が、卓上の帝都地図を軽く叩いた。
「レオン・クロウヴァイス。あの男は刃としては見事だが、刃だけで帝国は治まらぬ」
その声には、怒りよりも観察者の興味があった。
人を人としてではなく、制度の部品として眺める者の温度だった。
「第二皇子も使う。皇太子残党も使う。必要なら第一皇女すら使う」
老人は目を細める。
「そして最後に残るのは、感情ではなく仕組みだ」
侍従は答えず、ただ一礼した。
主の言葉が誰に向けられたものか、もはや判別できなかったからだ。
一方その頃、第一皇女宮ではアリシアが深夜の報告を受けていた。
兄の失格で動き始めた貴族の名、軍のざわめき、そして第二皇子セドリックが人を集めているという情報。
報告を終えた侍従が下がると、室内は静寂に沈んだ。
窓の外では帝都の灯が、夜の底で散った金のように瞬いている。
ラヴィニアが問いかける。
「殿下。第二皇子が動くなら、こちらも先んじて手を打つべきかと」
アリシアはすぐには答えなかった。
机上の報告書へ視線を落としながら、昨日見た灰色の瞳を思い出していた。
セドリックは力で押す。
元老院は制度で絡め取る。
皇太子派残党は生き延びるために誰へでも縋る。
その全部が一斉に動けば、帝都はさらに濁る。
自分一人の手札では、もう足りない。
「……ええ」
アリシアは静かに言った。
「ただし、焦って選ぶ気はないわ」
ラヴィニアが眉を寄せる。
「では」
「誰が帝国のために動いていて、誰が自分のために帝国を使おうとしているのか」
アリシアは報告書を閉じた。
「そこを見誤れば、私も兄と同じ場所へ落ちる」
レオンならどう量るか。
その問いが自然に浮かんだ瞬間、彼女は自分の内心に気づいて、わずかに目を細めた。
利用するだけでは足りない。
あの男の秤がなければ、この先の皇位争いを正しく渡り切れない。そう考えている自分がいた。
それは依存と呼ぶにはまだ早い。
だが、確かに始まりではあった。
「明日、改革派貴族の名簿を精査するわ」
アリシアは立ち上がる。
「レオン・クロウヴァイスが何を切るのか、見ているだけでは足りない。私も、切るべきものを選ばなくては」
ラヴィニアは深く一礼した。
その眼差しには、主君への敬意と、帝都全体への警戒が同時に宿っている。
夜は静かだった。
だが帝国の中では、もう誰も静かなままではいられない。
皇太子が落ちたことで終わったものもある。
同時に、そこから始まったものの方がずっと多かった。
帝都の高みでは、病床の皇帝が眠ったふりを続けている。
元老院は盤面を撫で、第二皇子は軍靴を鳴らし、第一皇女は秤の意味を学び始めた。
そのすべてを、帝冠監察官レオン・クロウヴァイスはまだ知らない。
あるいは、知っていて沈黙しているだけかもしれない。
いずれにせよ、皇位継承を巡る亀裂は、もう誰にも塞げなかった。




