皇女は秤に立つ
即位式の翌日、帝都は朝から騒がしかった。
鐘楼の鐘が時を告げるたび、広場では同じ話題が繰り返される。皇太子失格。帝冠監察官の出現。玉座の前で起きた、あまりにも鮮烈な権力逆転。
市場通りでは、野菜籠を抱えた女たちが声を潜め、職人たちは手を止め、荷車を引く男たちまで振り返っていた。
「腐った皇太子を止めたんだろう」
「止めただけじゃない。継承権そのものを叩き落としたらしい」
「なら、次は誰が皇帝になる」
その問いだけは、誰も軽々しく答えられなかった。
帝国は皇太子を失ったが、玉座が空になったわけではない。病床の皇帝はまだ生きており、残る皇族たちの思惑は、むしろ昨日より濁っている。
商人の一人が小声で言う。
「第一皇女殿下が立つんじゃないか」
別の男がすぐに眉をひそめた。
「だが、あの監察官は味方も裁くらしいぞ」
民衆の声は、賞賛と不安を同時に孕んでいた。
帝都全体が、正義を見た興奮と、自分も秤に載せられるかもしれない恐れのあいだで揺れている。
その揺れは宮殿の中でも同じだった。
第一皇女アリシア・ヴァルガストは、窓辺に立ったまま帝都の遠景を見下ろしていた。
白い指先が窓枠へ静かに触れている。昨夜から何度目か分からない沈黙だった。
背後では、侍女たちが気配を殺して支度を整えている。
銀糸を織り込んだ淡青のドレス。皇女としての威厳を損なわず、だが喪の空気をわずかに含ませる色だった。兄が失格した翌日に、祝祭のような装いはできない。
ラヴィニアが入室し、膝をついた。
「馬車の準備が整いました、殿下」
アリシアは振り返る。
近衛騎士団の副団長は、いつも通り背筋を伸ばしていたが、その立ち方は昨日までと微妙に違って見えた。命令を待つ剣ではなく、自分で立つための剣へ変わりかけている。
「随行は最低限でよいわ」
「承知しました」
ラヴィニアは即答した後、ほんの一拍だけ間を置いた。
「帝冠監察院を訪ねられること、すでに幾人かの貴族が把握しております」
「止めろと言いたいのかしら」
「いいえ」
ラヴィニアは顔を上げた。
「ですが、殿下がどちらへ立つかを、皆が見ています」
アリシアは小さく息をついた。
その通りだった。兄の失格で生じた空白へ、誰もが自分の解釈を流し込もうとしている。レオンを敵と見なすのか、利用するのか、排除するのか。それはすべて、次に誰が帝国を担うかという話と繋がっていた。
「なら尚更、行くしかないわ」
アリシアは視線を窓の外から引き戻した。
「あの男が何を見て、何を優先しているのか。直接確かめなければ、誰かの言葉で決められてしまう」
ラヴィニアは一礼した。
「護衛いたします」
帝冠監察院は、宮殿の華美から切り離されたような建物だった。
白でも金でもなく、黒灰色の石で組まれた古い庁舎。装飾は少ないが、粗末ではない。必要なものだけを残した刃物のような印象があった。
門前に並ぶ衛兵たちは礼を崩さず、しかし過剰に媚びることもなかった。
アリシアの馬車が止まると、正面扉が静かに開く。
出迎えた文官は初老の男だった。
黒い法衣の胸元に、冠を囲む細剣の徽章が刻まれている。
「第一皇女殿下。帝冠監察院へようこそ」
「院長に取り次ぎなさい」
「すでにお待ちです」
その一言で、アリシアは目を細めた。
来訪の予測は当然として、時刻まで読んでいたのだろうか。あるいは、こちらの動きがもっと前から監察されていたのか。
案内された謁見室は、宮殿の応接間とはまるで違っていた。
高い天井と長い窓はある。だが、豪奢な絵画も大理石の裸像もない。あるのは古い法典、封印箱、記録棚、そして中央に置かれた簡素な卓だけだった。
権力を誇るための部屋ではなく、権力を量るための部屋。
それがひと目で分かる。
室内の奥で、レオン・クロウヴァイスは書類から顔を上げた。
黒い礼装は昨日と変わらない。だが即位式の場よりもさらに冷えて見えるのは、この部屋の空気が彼に似ているからかもしれなかった。
「第一皇女殿下」
立ち上がったのは、礼を示すためではなく、対面の形式を整えるための所作に見えた。
そこには皇族への緊張も、女への気後れもない。
アリシアは卓の前まで進んだ。
「時間を取らせるわ」
「帝国の中枢に関わる話でしたら、最優先です」
余計な前置きがない。
アリシアは、その点だけは好ましいと思った。
ラヴィニアが一歩後ろで控える。
部屋の壁際には、監察院の法務官らしき女官が一人だけ立っていた。若いが、目元は冷静だった。記録役だろう。
アリシアは椅子に座らず、先に問いを投げた。
「皇太子の罪をご存知でしたか」
「承知していました」
迷いのない返答だった。
アリシアの胸中で、昨夜から抑えていた苛立ちがわずかに動く。
「では、なぜ昨日まで動かなかったの」
レオンは視線を逸らさない。
「皇帝が決まるまで待つ必要がありました」
「兄が冠を戴いた後なら、もっと大きな被害が出たかもしれないわ」
「昨日より前であれば、別の被害が出ます」
レオンは卓上の一枚の書面へ指を置いた。
「皇太子を式前に失格させれば、継承権争いは地下へ潜ります。暗殺は表から裏へ移り、誰が次に立つかが決まる前に帝都は割れる。帝国は空位を作れません」
その言葉は、言い逃れではなかった。
彼は兄を泳がせたことを正当化しているのではなく、帝国全体の損耗として計算している。どちらがより多く死ぬか、どちらがより深く国を壊すか。その秤で昨日を選んだのだ。
アリシアは沈黙した。
感情の上では納得しきれない。兄が動いた結果、自分もオスカーも殺されかけた。だが、感情だけで否定できない理屈が、目の前にあった。
「個人の恨みで兄を裁いたわけではないのね」
「私情や気まぐれで冠を落とすことはできません」
その言い回しが妙に耳に残った。飾らないのではなく、飾る必要がないのだろう。
アリシアは椅子へ腰を下ろした。
この男に対しては、立ったまま威圧するより、対話の席についた方が得るものが多い。
「なら訊くわ。次は誰を裁くつもり?」
「罪を負った者です」
「皇族でも」
「皇族だからこそです」
アリシアの睫毛がわずかに揺れる。
「私でも?」
レオンはそこで初めて一拍置いた。
拒まない沈黙だった。
「殿下が帝国から不当に得たものを持ち、責務を捨て、地位を私物化しているのであれば、私は裁きます」
ラヴィニアの気配が後方で硬くなる。
第一皇女へ向けるにはあまりにも容赦のない言葉だった。だが、アリシアは不思議と怒れなかった。
それを言えるからこそ、この男は兄を落とせたのだ。
「ずいぶんと正直ね」
「婉曲に申し上げる必要がありません」
「必要はあるわ。少なくとも宮廷では」
「ここは宮廷ではありません」
その返答に、アリシアは喉の奥で小さく笑いそうになった。
不敬だ。だが、それ以上に本物だった。
帝冠監察院での監察中に限り、皇族への宮中礼法は監察権の後に置かれる。知識としては知っていたが、こうして真正面から向けられると、やはり胸に刺さった。
この男は皇族の機嫌で法を曲げない。
ならば、味方にした時の価値も大きい。
アリシアの頭の中で、感情とは別の計算が静かに組み上がる。
レオンを排除しようとする勢力は、いずれ自分にも牙を向く。反対に、この男が公正であり続けるなら、その秤は皇位の正統性そのものを支える力になる。
皇帝候補として立つなら、必要なのは追従者ではない。
帝国全体へ「この女は裁かれる側にも立てる」と示す証明だ。
その証明として、帝冠監察官ほど強い札はない。
「あなたを利用したい、と言ったら」
ラヴィニアが息を呑んだ。
記録役の女官も、羽根筆を止めかけて、すぐに動きを戻す。
レオンの表情だけは変わらない。
「殿下の利益と帝国の利益が一致する限り、ご随意になさればよろしい」
「一致しなければ?」
「その時は切ります」
淡々と告げられた一言に、アリシアの胸の奥が奇妙に熱を持った。
脅しではない。約束だ。自分に対しても、兄に対しても、同じ刃を向けるという宣言。
だからこそ、この男を信じることはできる。
同時に、決して安らげない。
「本当に危険な男ね」
「帝国にとって必要な危険です」
アリシアはしばらく彼を見つめた。
玉座を欲しがらない。皇族に媚びない。だが、帝国そのものには徹底して忠実だ。その在り方は、これまで知ってきたどの権力者とも違っていた。
「兄を落としたことで、帝都は割れ始めているわ」
「承知しています」
「元老院はあなたを恐れる」
「恐れられる理由があります」
「他の皇族も黙ってはいない」
「黙る必要はありません。動けば見えます」
答えがいちいち短いのに、会話が途切れない。
それは、彼の言葉が常に核だけを残しているからだった。
アリシアは卓の上に置かれた一冊の法典へ視線を落とした。
革表紙は古く、何度も開かれた跡がある。宮殿の飾り棚に眠る蔵書とは違い、ここでは本が使われていた。
「あなたは、皇帝を守るためにいるのではないのね」
「違います」
「では、何を守るの」
レオンの灰色の瞳が、ほんのわずかに冷えを深めた。
「皇帝が座るに値する帝国です」
その一言で、アリシアはようやく理解した。
この男の視線は、玉座の上の個人ではなく、玉座の下に広がる全体へ向いている。民、法、軍、貴族、聖務庁、属国。そのすべてが壊れれば、どんな名君が座っても帝国は保たない。
兄は血を見ていた。
この男は構造を見ている。
だから強いのだ。
「……なら、私が皇帝候補として立つことを、どう見るのかしら」
「殿下次第です」
「曖昧ね」
「まだ結果を出しておられません」
厳しい。だが公平だった。
アリシアはその評価を、不快より先に欲しいと思った。
認められたい、という感情が胸の底で小さく顔を出し、彼女はそれをすぐに押し込める。
いま必要なのは感傷ではない。
「なら結果を出すわ」
アリシアは立ち上がった。
「兄の失格で生じた混乱を、私は利用する。帝都の支持も、改革派貴族も、必要なら取りに行く。その過程で私が間違えたなら、あなたは裁くのでしょう」
「ええ」
「なら、見ていなさい」
レオンは短く頷いた。
激励でも賞賛でもない。ただ、監察対象からの宣言を受理したという頷きだった。
その反応に物足りなさを覚えた自分へ、アリシアは内心で苦笑する。
この男に普通の男のような返答を期待する方が間違っている。
踵を返しかけた時、彼女の足が止まった。
視界の端で、卓上の数枚の書面に見覚えのある紋章が映ったからだ。
銀の百合に、皇女宮の封印。自分の私印だった。
アリシアの心臓が一拍だけ強く打つ。
「それは……」
レオンは書面を隠そうともしなかった。
「第一皇女宮の会計記録、贈与目録、侍従名簿の写しです」
空気が、すっと冷える。
ラヴィニアが即座に一歩前へ出ようとして、アリシアが手で制した。
「なぜ、それをここに」
「監察中だからです」
あまりにも当然のように言われて、言葉が続かなかった。
アリシアは自分の喉が、兄へ禁呪を向けられた時とは違う意味で乾くのを感じた。
私も監察対象なのか。皇女である自分も。兄を失格させた直後から、もう例外ではないのか。
屈辱にも似た熱と、奇妙な安堵が同時に押し寄せる。
もし自分だけが秤の外に置かれるなら、この男の公正は偽物になる。だが、実際には違う。彼は本当に、誰であっても量るつもりなのだ。
「……そう」
それだけ言うのが精一杯だった。
レオンの視線は変わらない。
「何か不正があればお伝えします。弁明の機会は設けます」
アリシアは唇を引き結んだ。
腹立たしいほど、筋が通っている。
「ずいぶん優しいのね」
「法です」
その返答に、アリシアはとうとう小さく笑った。
負けた気がした。言い負かされたのではなく、この男の秤を認めてしまった意味で。
「いいわ。好きに監察しなさい、レオン・クロウヴァイス」
皇女は真っ直ぐに顎を上げる。
「ただし、私がその秤の上で立ち続けられる女だと証明してみせる」
レオンは答えない。
それでも、その沈黙は拒絶ではなかった。
アリシアは背を向け、謁見室の扉へ向かった。
ラヴィニアが付き従う。記録役の女官が静かに一礼する。
扉が閉まる直前、アリシアは一度だけ振り返った。
黒い礼装の男は、もう次の書面へ視線を落としている。皇女が去った余韻に浸ることも、勝利を誇ることもなく、ただ帝国のどこが腐っているかを追っていた。
胸の奥が、わずかに熱い。
警戒か、敬意か、それとも別の何かの芽か。まだ名前はつけられない。
だが一つだけは確かだった。
あの男がいる限り、皇帝の座は飾りではいられない。
そして、自分がその座を目指すなら、いつか必ず彼の秤の中央へ立つ。
帝冠監察院の石廊下を進みながら、アリシアは静かに思った。
それでもいい。
いや、そうでなければならない。
その頃、帝都の別の場所では、防音結界の張られた小広間に数人の影が集まり始めていた。
皇太子派の生き残り、保守貴族、そして別の皇族筋へ連なる使者。
帝冠監察官をこのまま野放しにはできない。
その思惑だけが、部屋の空気を濁らせていた。




