皇太子失格
アリシアは膝をついたまま、喉へ迫る黒い棘を見ていた。
息を吸うたび肺へ泥が流れ込むように重い。視界の端でラヴィニアの白手袋が震えているのが分かった。
棘が届く前に、黒い刃が横切った。
甲高い音とともに呪いが断ち切られ、裂けた先から黒い泥のような魔力が断冠剣へ吸い込まれていく。
レオンは皇族席の前に立っていた。
助けに来た、という顔ではない。ただ、帝国の中枢を侵す違法を切り落としに来た者の顔だった。
マクシミリアンが王笏へなおも力を注ぐ。
「血統を持たぬ者に、皇族の決断は分からない! 弱い者を切れぬ皇帝が何を守れる! アリシアもオスカーも不要だから消す! 私が残れば帝国は割れない!」
兄の声は荒れていたが、迷いはなかった。
本気でそう信じている。その確信こそが、アリシアには最も恐ろしかった。
レオンが壇上へ歩みを進める。
「マクシミリアン・ヴァルガスト」
名を呼ばれた瞬間、契約文字が玉座の間全体へ広がった。
柱、天蓋、玉座、列席者の足元。すべてを繋ぐ古い文字が中央に大きな円環を描き、その中心へ兄を閉じ込める。
「帝冠契約に基づき、最終弁明を許可する」
兄は息を乱しながら笑った。
「異論ならある。帝国は選ばれた血で支えられる。民は従うためにいる。強い者が決め、弱い者が従う。それが秩序だ」
その言葉に、貴族席が静まり返る。
兄を支持していた者たちですら、いま口にされたものが皇位の理屈ではなく所有の理屈だと理解したのだろう。
レオンの灰色の瞳は揺れなかった。
「弁明を確認した」
断冠剣の切っ先が兄の額を指す。
「血統を帝国の上へ置き、継承権を私刑に用い、皇族暗殺を企図し、禁呪を起動し、帝都中枢へ呪詛を仕込んだ責を認定する」
黒い刻印が兄の額に浮かんだ。
冠を模した紋章へ一本の亀裂が走り、そこから赤金の光が漏れ出す。
「その権力、帝国に返してもらう」
剣が振り下ろされた。
肉は裂けない。代わりに、目に見えない何かが砕ける音が玉座の間に響いた。
兄の周囲を巡っていた血統光が崩れ、肩に浮かぶ継承権の紋章が割れる。
胸元の皇族章から色が抜け、天蓋の下で待っていた黄金の王冠は高く跳ね上がったまま、誰の頭上にも降りなくなった。
マクシミリアンが膝から崩れ落ちる。
顔から傲慢が剥がれ、何も掴めない者の空白だけが残った。
「なぜだ……私は、選ばれたはずだ……」
「選ばれたのは血ではない」
レオンは見下ろしたまま告げる。
「責任だ」
そして、最後の判定を下した。
「お前は皇帝ではない。帝国に寄生した犯罪者だ」
その言葉で、兄を包んでいたものが完全に終わった。
次代の皇帝として扱われていた男は、玉座の前でただの失格者になる。
ラヴィニアが支える腕に、ようやく力が戻る。
アリシアはその腕を借りて立ち上がり、黒い礼装の背を見た。
危険な男だ、とあらためて思う。
皇女である自分にも、例外なく同じ秤を向けるだろう。それでも、その秤を持つ者がいなければ帝国はもっと早く壊れていた。
上空で静止していた王冠の光が、ゆっくりと消えていく。
即位の儀は終わった。
遠く離れた病床の間でも、水晶板の明かりが落ちた。
ルドルフ皇帝の唇がわずかに動いたが、その言葉を聞き取れた者は一人もいなかった。




