病床の沈黙
皇帝私庫は、皇城のもっとも古い棟の地下にある。
そこへ下りる階段は狭く、壁には建国時代の紋章が浅く刻まれていた。華やかな宝物庫ではない。金銀や宝石よりも、帝国が忘れたくない記録と、忘れたふりをしたい記録が眠る場所だった。
ミラベルは私庫前の閲覧台に、黒革の台帳を広げていた。
台帳の角は擦れているが、記録欄だけは几帳面に保たれている。誰が、いつ、何を閲覧し、何を封印したか。帝国の秘密は、秘密にされた手続きまで残す。
「ありました」
彼女は指先で一行を押さえた。
レオンが隣へ立つ。
「北方軍務補助報告。属国境界兵站演習。第二皇子随行人脈記録」
「封印指定日は」
「皇太子失格より前です」
石壁の冷気が、少しだけ深くなったように感じられた。
ミラベルは次の欄を読む。
「封印理由、帝国安定上の配慮。封印者、皇帝私印」
皇帝ルドルフは知っていた。
少なくとも、セドリックの軍務人脈と属国境界での演習を、問題になり得る情報として私庫へ沈めていた。
「閲覧申請を」
レオンが言う。
「皇帝私印の封印です。通常手続きでは数日かかります」
「帝冠監察院の照会権を使います」
ミラベルは頷き、申請板へ青白い法務印を押した。
私庫の扉に刻まれた古い文字が淡く光る。だが扉は完全には開かない。封印は皇帝本人の許諾を求めていた。
遠隔謁見室の水晶は、昼でも暗い光を放つ。
病床のルドルフ皇帝は、前より少し痩せて見えた。寝台脇には薬湯の器があり、侍医らしき影が水晶の端に映っている。
「今度は私庫か」
ルドルフの声には、薄い疲労が混じっていた。
「北方軍務補助報告、属国境界兵站演習、第二皇子随行人脈記録の閲覧を申請します」
レオンは余計な挨拶を挟まない。
ルドルフはしばらく黙った。
「セドリックを見ているのか」
「監察対象になり得る動きがあります」
「あれは帝国の剣でもある」
その言葉を、部屋の隅で控えていたアリシアが聞いた。
彼女は同席を望み、レオンは拒まなかった。父と弟の問題は、皇帝候補である彼女の責任範囲でもある。
「剣」
アリシアの声は硬い。
「父上は、セドリックが危険だと知っていたのですか」
水晶の向こうで、ルドルフの目が娘を捉える。
「危険ではない皇族などいない」
「答えになっていません」
「ならば答えよう。セドリックは危険だ」
アリシアの胸が冷える。
ルドルフは続けた。
「だが、危険な剣を捨てるほど帝国は安全ではない」
遠隔謁見室に沈黙が落ちた。
老皇帝は咳をし、侍医が薬湯を差し出しかける。彼は手で制した。
「東方も北方も、属国境界も、帝都の者が思うほど静かではない。セドリックには兵を動かす才がある。兵もあれを見る。お前にないものを、あれは持っている」
アリシアは唇を結んだ。
父の言葉は残酷だ。だが虚偽ではない。
「だから黙認したのですか」
「制御できると思った」
ルドルフの声が低くなる。
「マクシミリアンは欲に溺れた。セドリックは違う。あれは帝国を見ている。だからこそ、手綱を付ければ役に立つと考えた」
「手綱は」
レオンが問う。
「今、誰が握っています」
ルドルフはすぐには答えなかった。
その沈黙そのものが、答えの一部だった。
「閲覧を許可する」
やがて皇帝は言った。
「だが、帝冠監察官。強い剣を折るなら、その後に来る敵も見ることだ」
「折るかどうかは監察結果で判断します」
「そうだったな」
ルドルフの口元がわずかに歪む。
「お前は人を、役割ではなく罪で見る」
水晶の光が落ちる。
私庫の扉が開いたのは、その直後だった。
中は狭く、棚には黒い筒が規則正しく並んでいる。ミラベルが目的の筒を取り出し、封を解く。
金属膜の記録紙に、複数の名が並んでいた。
セドリックに近い軍人、北方軍の若手指揮官、軍需商会、属国境界で補給演習を行った部隊。正式演習ではない。だが完全な私的行動とも言い切れない。曖昧な承認の積み重ねが、そこにあった。
「これは、見逃しではなく保留ですね」
ミラベルが低く言う。
「ええ」
レオンは記録を見た。
「黙認も監察対象です」
アリシアはその言葉を、胸の奥で受け止めた。
父は兄だけを見逃したのではない。弟も見ていた。危険を知りながら、帝国のためという名で使えると思った。
自分が皇帝になれば、同じ誘惑が来る。
危険な者を、危険なまま使いたくなる日が来る。今は裁くべきだと分かるものを、いつか「帝国のため」と言って残したくなるかもしれない。
「レオン」
アリシアは私庫の冷たい空気の中で言った。
「私が同じことをしたら」
「監察します」
答えは即座だった。
彼女は小さく頷く。
その冷たさを、今は必要なものとして受け取れた。
ミラベルが別の紙片を取り出す。
「こちらを」
そこには属国ザクセン方面の地名が書かれていた。
兵站演習の仮想経路。帝都から東方軍へ物資を送る際の迂回路。その途中に、ザクセン総督府の副印が押された補給許可の写しがある。
アリシアは眉を寄せた。
「ザクセン」
「属国です」
レオンが言う。
「農業と牧畜を帝国へ供給している」
「なぜ、セドリックの演習記録に」
レオンは記録を閉じた。
「調べます」
その短い言葉が、私庫の中で重く響いた。
皇族内の争いは、すでに帝都の壁を越えている。まだ誰も全体を見ていないだけで、遠方の土地にも影を落としている。
夕暮れ、皇女宮へ戻ったアリシアは、父へ宛てる私的な書簡を書きかけて破った。
責める言葉はいくらでも浮かぶ。だが、自分もいずれ同じ椅子に座るかもしれない。
彼女は代わりに、軍務資料の閲覧予定表を机へ置いた。
父を責めるだけでは足りない。
父と同じ沈黙をしないために、知らなければならない。
夜、皇帝医療棟の水晶が消えた後、ルドルフは侍医を下がらせた。
暗い部屋で、老皇帝は一人呟く。
「アリシア、セドリック」
二つの名は、祈りではなく、まだ下せない判決のように響いた。




