皇女の揺らぎ
朝議の間には、いつもより多くの軍務官僚がいた。
皇太子派の処分後、帝国の主要庁舎では人員の入れ替えが続いている。法務、財務、近衛、軍務。どの部署も表向きはアリシアの皇帝候補化を認めていたが、目の奥では別の計算が動いていた。
その日、議題に上がったのは北方補給路の再点検だった。
東方征伐軍の兵站記録に不自然な点が見つかり、軍務省は北方方面も含めた全体調査を求めていた。書類の上では、ただの行政案件に見える。
だが、質問はすぐにアリシアへ向いた。
「殿下は、戦時補給における即時徴発権の発動条件をどのようにお考えですか」
発言したのは、軍務省の若い参事官だった。
礼儀は正しい。だが、周囲の軍人たちの視線が彼の背に揃っている。
アリシアは文書へ目を落とす。
即時徴発権。敵襲や大規模反乱時、軍が民間物資を一時徴発できる権限。法的制限は知っている。だが、実際の前線でどの速度で判断すべきかまでは、彼女の経験の外だった。
「法務上は、地方長官と軍司令官の連署を要します」
「敵襲がすでに始まっている場合は」
別の軍務官が続ける。
「連署を待って兵が飢えれば、責任はどなたが負われるのでしょう」
朝議の間が静まる。
アリシアは答えようとして、言葉を選んだ。
「例外規定は存在します」
「例外の行使判断を、殿下は現場で下せますか」
その問いは法ではなく、経験を刺していた。
アリシアの喉がわずかに詰まる。
戦場を知らない。飢えた兵の顔を知らない。地図上の補給線は読めても、泥道で馬車が沈む速度を知らない。
彼女が沈黙した瞬間、軍務官僚たちの空気がほんの少し変わった。
露骨な嘲笑ではない。もっと厄介な、確認の気配だった。
セドリックなら答える。
誰かが口にしなくても、その考えが場に広がる。
朝議後、皇女宮に戻る廊下で、アリシアは歩調を崩さなかった。
侍女も側近も、何かを言いたげにしている。慰めも、反論も、どちらも今は聞きたくなかった。
執務室に入ると、机上に民間瓦版が置かれていた。
誰かが報告資料として集めたものだ。見出しには、第二皇子の名がいくつも並んでいる。
帝国に必要なのは軍を動かせる皇族か。
第二皇子、退役兵へ補助券を与える。
皇女殿下の理想と第二皇子の実務。
アリシアは一枚を手に取り、すぐに置いた。
怒りより先に、冷たいものが胸へ落ちる。
否定できない部分がある。
それが苦しかった。
昼過ぎ、彼女は帝冠監察院へ向かった。
供は最小限にした。ラヴィニアだけが少し離れて付き従う。皇女宮から監察院までの道には、掲示柱がいくつもある。皇太子派の失格者名簿はまだ残り、その横にセドリック帰還を讃える小さな張り紙が貼られていた。
帝冠監察院の記録室には、紙と金属と古い石の匂いがあった。
レオンは長卓で軍務記録を照合していた。黒髪はいつも通り整えられているが、机上の紙束はひどい量だ。
「殿下」
「少し、時間をちょうだい」
「承知しました」
レオンは椅子を勧めなかった。
アリシアも座らなかった。
「朝議で詰まったわ」
言葉にすると、屈辱が形を持つ。
「軍務官僚に、即時徴発権の運用を問われた。法なら答えられる。でも、戦場の速度までは答えられなかった」
レオンは黙って聞いている。
「セドリックなら、答えたでしょうね」
「おそらく」
即答だった。
アリシアは小さく笑った。
慰められないと分かって来たのに、実際に慰めがないと胸が痛む。
「私は、皇帝の資格があるのかしら」
記録室の空気が止まった。
ラヴィニアが入口でわずかに動く。だがレオンは、視線を逸らさない。
「資格は固定されたものではありません」
「答えになっていないわ」
「皇帝であることは、血統や経験の所有ではなく、責任を引き受け続ける状態です」
アリシアは唇を結ぶ。
「私は今、慰めを求めたのね」
「その可能性はあります」
「本当に容赦がない」
「慰めで継承権は支えられません」
胸に刺さる。
だが、その痛みは朝議の屈辱とは違った。朝議では自分が足りないことを突きつけられた。今は、足りないまま立つ方法を問われている。
「セドリックは有能です」
レオンは言った。
「軍務の知識、兵への理解、民衆へ見せる姿勢。皇太子よりはるかに危険です」
「分かっているわ」
「ですが、有能であることは免責ではありません」
その言葉に、アリシアは顔を上げた。
「有能であるからこそ、誤った時に被害は大きくなります」
レオンは机上の軍務記録を一枚取る。
「第二皇子殿下の帰還随行兵、帝都警備計画への臨時顧問組み込み、軍閥貴族との非公式接触。どれも単独では失格事由になりません」
「けれど、線になる」
「ええ」
レオンは頷いた。
「私は強さではなく、権限の使い方を監察します」
アリシアはしばらく黙った。
弟より強くないかもしれない。戦場の判断では劣るかもしれない。民衆の一部は、力のある皇族を求めるかもしれない。
それでも、弟が権限を私物化するなら止める。
自分が弱さを理由に責任から逃げるなら、自分も裁かれる。
それが、レオンの秤だった。
「私が足りない部分は、学ぶわ」
アリシアは言った。
「軍務も、兵站も、現場の判断も。分からないまま署名しない」
「それが必要です」
「でも」
彼女は一度息を吸う。
「私がセドリックを認めた上で、それでも止める日が来るなら」
レオンは待つ。
「その時、私は迷うかもしれない」
「迷うことは、監察対象ではありません」
レオンの返答は短い。
「逃げることは、対象になります」
アリシアは小さく頷いた。
記録室を出る頃、彼女はレオンに支えられたいと思っている自分をはっきり自覚していた。
だが、肩を借りなかった。ラヴィニアが扉を開ける。アリシアは自分の足で廊下へ出た。
皇女宮へ戻る馬車の中で、ラヴィニアが静かに言う。
「殿下」
「何」
「弱さを認めて戻られる方は、弱いだけの方ではありません」
アリシアは窓の外を見た。
帝都の街路では、今日もセドリックの噂が流れている。
「ありがとう」
短く答える。
その声は、まだ少しだけ震えていた。
だが、皇女宮に戻った時、彼女は最初に軍務省へ資料請求を出した。
即時徴発権の実例、過去二十年の前線判断、補給遅延による死傷記録。逃げずに知るための文書だった。
夕方、軍務省の廊下で、セドリックはその請求写しを見た。
側近が低く問う。
「姉君は学ぶつもりのようです」
セドリックは紙から目を離さない。
「それでいい」
「よろしいのですか」
「無知なまま立たれるより、よほど厄介だ」
彼は請求写しを折りたたみ、軍服の内へしまった。
「だが、戦場は紙より早い」
その声には、姉への敬意と、退く気のなさが同時にあった。




