第二皇子の帰還
帝都北門の上に掲げられた帝国旗は、朝の風を受けて硬く鳴っていた。
皇太子派の処分が終わってから、帝都の門衛たちは人の列に敏感になっている。商隊、巡礼者、地方貴族の馬車。どれも以前より長く止められ、積荷と通行証を確認される。
その朝、北門前の石畳には、商隊ではない隊列が現れた。
先頭に立つのは、白馬ではなく黒毛の軍馬だった。
飾りの少ない鞍、磨かれた鐙、余分な布を省いた軍装。馬上の男は銀に近い淡金の髪を短く整え、灰青の瞳で門を見上げている。顔立ちは皇族らしく整っているが、笑みはない。
第二皇子セドリック・ヴァルガスト。
彼の帰還を知らせる触れは、前日の夕刻に出されていた。
だが、北門へ集まった民衆が期待していたような凱旋ではなかった。楽隊も、花を投げる子供たちも、貴族令嬢の華やかな馬車列もない。セドリックに続くのは、二十名ほどの軍人だけだった。
その少なさが、かえって目を引いた。
兵はすべて同じ間隔で馬を進め、誰一人として無駄に周囲を見ない。槍の穂先は布で覆われているが、戦場の匂いは隠せない。騎乗姿勢、手綱の持ち方、門兵を見る目。帝都の儀仗兵とは別の緊張があった。
門衛長が膝をつく。
「第二皇子殿下。ご帰還をお待ちしておりました」
「通行確認を」
セドリックは淡々と言った。
門衛長が戸惑う。
「殿下のご身分は確認の必要など」
「必要だ」
セドリックの声は低いが、よく通った。
「皇族の隊列だからといって、帝都の門を素通りできるなら、皇太子派の残党処分は何のために行われた」
門衛長の背が伸びた。
周囲の民衆も、ざわめきを潜める。
セドリックは懐から通行証を出した。皇族印だけでなく、軍務省北方視察印、随行兵名簿、武器携行一覧まで揃っている。完璧な書類だった。
「確認しろ。帝国の門は、血統ではなく手続きで開く」
その言葉に、民衆の何人かが感嘆の息を漏らした。
皇太子マクシミリアンなら、門衛を怒鳴りつけて終わっただろう。セドリックは違う。権威を持ちながら、手続きの形を崩さない。
だが、レオン・クロウヴァイスは、帝冠監察院の高所からその報告を読んだ時、別のものを見ていた。
通行証は完璧すぎる。
そして随行兵二十名のうち、半数は北方視察の正式名簿に存在しない経歴を持っていた。帝国軍籍はある。だが配属履歴に空白がある。空白は、誰かが意図して消した跡でもある。
「第二皇子殿下は軍務省へ直行されました」
ミラベルが報告書を置く。
「皇城ではなく」
「ええ。儀礼を断り、軍務省で北方視察報告を行うとのことです」
レオンは通行記録の写しへ視線を落とした。
北門から軍務省までの経路には、貴族街を通らない道が選ばれている。民衆に見せるが、貴族には媚びない。計算された帰還だった。
「アリシア殿下は」
「午後、皇女宮で面会予定です」
「同席します」
ミラベルが頷いた。
「ラヴィニア副団長にも伝えます」
軍務省前広場では、すでに軍人と役人が集まっていた。
セドリックは馬を降り、軍務省の階段を上がる前に一度だけ振り返る。見物人の列の中に、退役兵らしき老人がいた。足を引きずり、古い勲章を胸につけている。
セドリックはその老人へ歩み寄った。
「どの戦役だ」
老人は慌てて背筋を伸ばす。
「西方国境の防衛戦にございます、殿下」
「足はそこで」
「はい」
セドリックは短く頷き、随行兵へ目で合図した。
兵が保存食の小袋ではなく、軍務省発行の医療補助券を差し出す。見物人の間に、また小さなどよめきが起きた。
「帝国のために失ったものを、帝国が忘れてはならない」
その声は広場に届く。
民衆は、その言葉を覚えた。
同じ頃、皇女宮ではアリシアがその報告を受け取っていた。
銀髪を結い上げ、白青の外套を羽織った彼女は、朝からいくつもの署名を終えたばかりだった。旧皇太子府の処分、近衛再編、旧排水区補填。机上には責任の紙が積み上がっている。
「ずいぶん上手ね」
アリシアは報告書を置いた。
「民が何を見たいか分かっている」
侍女が不安げに言う。
「殿下への面会は、お断りになりますか」
「いいえ」
アリシアは窓の外を見る。
弟が帰ってきた。兄とは違う弟が。無能な驕慢ではなく、有能な危険を伴って。
「会うわ。逃げたと思われる方が厄介よ」
午後、皇女宮の謁見室にセドリックが現れた。
軍装から宮廷用の黒い礼服へ着替えている。だが腰の動き、肩の張り、視線の置き方には、軍人の癖が残っていた。
アリシアは玉座ではなく、同じ高さの椅子を用意させた。
対面にはレオン、少し後ろにラヴィニアが控える。セドリックはレオンを見ても、嫌悪を出さない。
「姉上」
セドリックは正式な礼を取った。
「皇帝候補として立たれたこと、心より喜ばしく思います」
「ありがとう、セドリック」
アリシアは穏やかに返した。
「北方視察はどうだったの」
「帝国の端は、帝都より正直です」
「正直」
「飢えれば奪い、弱ければ踏まれる。兵はそれを知っています」
謁見室の空気が、わずかに冷える。
セドリックは言葉を選んでいる。挑発ではない。むしろ礼儀を守りながら、自分の思想を置いている。
「姉上が帝国を正そうとしていることは理解しています」
彼は続けた。
「ですが、帝国は善意では守れません」
アリシアの指が、肘掛けの上で少しだけ止まる。
「私は善意だけで立ったつもりはないわ」
「承知しています」
セドリックは頷いた。
「だからこそ、今のうちに申し上げる。帝国は、弱い統治者を許しません」
ラヴィニアの視線が鋭くなる。
レオンは動かない。
アリシアも怒鳴らなかった。
「それは、私が弱いという意味かしら」
「証明されていない、という意味です」
セドリックの返答は速かった。
兄なら侮辱した。セドリックは審査する。
その違いが、アリシアにはかえって重かった。
レオンが口を開く。
「第二皇子殿下」
「何だ、帝冠監察官」
「帰還随行記録に、軍務省正規報告と一致しない空白があります」
セドリックは少しも動じない。
「北方では、紙より先に人が動くことがあります」
「軍閥貴族との非公式接触も」
「帝国防衛に関わる者と話すことは、皇族の務めです」
「皇位継承を前提とした接触ですか」
その問いに、謁見室の誰もがセドリックを見た。
第二皇子は、初めて薄く笑った。
「兄上は血統を誤解した」
彼はレオンをまっすぐ見る。
「私は力を誤解しない」
アリシアの胸の奥が冷えた。
弟は皇位を望んでいる。ただし、兄のように欲望のためではない。帝国を守れるのは自分だと、本気で信じている。
「強い者が帝国を担うべきです」
セドリックは静かに告げた。
「血ではなく、実力で」
「実力は監察の対象外ではありません」
レオンが返す。
「もちろん」
セドリックは頷いた。
「私も帝国の外に立つつもりはない」
面会は短く終わった。
礼儀の上では何も破綻していない。だが、アリシアは弟が退室した後もしばらく立ち上がれなかった。
ラヴィニアが低く言う。
「殿下」
「大丈夫」
アリシアは答えた。
大丈夫ではない。
だが、そう答えるしかない。
その夕刻、帝冠監察院へ軍務省から追加記録が届いた。
帝都警備計画の一部に、セドリック帰還随行兵の名が臨時顧問として組み込まれている。承認日は、彼が帝都へ入る二日前。
ミラベルが書類を読み、眉を寄せる。
「帰還前から、帝都警備へ手を入れていたことになります」
レオンは黒い監察印を手に取った。
「記録を固定します」
印が押される。
黒い文字が、軍務省の紙面に沈んだ。
セドリック・ヴァルガストは、ただ帰ってきたのではない。
帝都の門が開く前から、すでに盤上へ手を伸ばしていた。




