皇帝候補の決断
三日後、皇女宮では朝から人の出入りが絶えなかった。
侍女は衣装箱を運び、法務官は文案を抱え、近衛は門前の警備線を二重に張っている。外から見れば、第一皇女がまた何か政治的な布告を出す準備に見えただろう。
だが、アリシアが本当に決めたことは、まだ誰にも告げていない。
彼女は執務卓の上に三つの文書を並べていた。
一つは皇帝候補として立つ宣言。
一つは皇太子派残党への最終裁判協力命令。
一つは、自派貴族の特権整理案。
どれも署名すれば、自分の逃げ道を一つずつ塞ぐ。
特に三つ目は、改革派貴族の一部から必ず反発を招く。彼らはアリシアを担ぐが、彼女に裁かれることまでは望んでいない。
ラヴィニアが部屋の入口で控えていた。
彼女は余計な励ましを言わない。ただ、必要があれば剣を抜ける位置にいる。今のアリシアには、それで十分だった。
「帝冠監察官は」
「高楼回廊に」
ラヴィニアが答える。
「先にお待ちです」
アリシアは最後の文書へ視線を落とした。
自分の署名欄はまだ空白だ。
「待たせるつもりはないわ」
彼女は立ち上がり、外套を羽織った。
帝冠監察院の高楼回廊は、帝都を見下ろすために作られた場所ではない。
もともとは火災や暴動の監視台で、石壁には古い矢傷が残り、風除けの柱も実務的で飾りがない。そこから見る帝都は、宮廷の窓から見る帝都よりもずっと生々しかった。
市場の煙、職人街の炉、貧民区の細い路地、貴族街の白い屋根。
同じ朝の光を浴びているのに、暮らしの厚みはまるで違う。
レオンは欄干の側に立っていた。
黒い外套が風に揺れている。彼は皇女を待つために身なりを整えたわけではないだろう。それなのに、その姿は奇妙なほど場に合っていた。
アリシアは隣へ並んだ。
「帝都は広いわね」
「帝国はもっと広い」
「知っているわ」
彼女は少し笑った。
以前なら、その短さを冷たさと受け取ったかもしれない。今は、その余白に自分の答えを置ける。
「私は皇帝になります」
言葉は、思っていたより静かに出た。
だが口にした瞬間、胸の奥で何かがはっきりと音を立てて閉じる。逃げ道が消えた音だった。
レオンは振り向く。
「承知しました」
それだけだった。
驚きも、祝福も、感傷もない。彼は決断を、決断として受け取った。
アリシアは欄干に手を置く。
「あなたは、もう少し人を喜ばせる返事を覚えた方がいいわ」
「必要なら検討します」
「検討で終わるでしょうね」
そのやり取りで、少しだけ呼吸が楽になる。
だが、本題はここからだった。
「私は皇帝になります。でも、父上の後をそのまま継ぐつもりはない」
アリシアは三つの文書を差し出した。
「皇太子派を裁く。改革派も例外にしない。私を支える者が不正で得た特権を持つなら、それも削る」
レオンは文書を受け取らず、内容だけを見た。
「それは自派を弱めます」
「分かっている」
「セドリック派は喜ぶ」
「ええ」
「グレゴリウスは、皇女は味方を切る冷血な女だと広める」
「そうでしょうね」
風が吹き、アリシアの銀髪が肩からこぼれた。
「でも、私が自分の側だけを守ったら、兄上と何が違うの」
レオンは答えない。
答えは、彼女がすでに持っている。
「皇帝になるということは、誰かに担がれて高い場所へ行くことではないわ。担いだ者たちにも、必要なら退けと言うことよ」
アリシアは、そこで初めてレオンを真正面から見た。
「その時、あなたは私を監察するの」
「します」
答えは即座に返った。
「皇帝になっても」
「皇帝になっても」
「私があなたを必要としていても」
「必要としていることは、監察の除外理由になりません」
胸に痛みが走る。
だが、それは拒絶の痛みではない。むしろ、欲しかった答えがあまりにも正確に来たせいで、逃げられなくなった痛みだった。
「そう」
アリシアは一度だけ目を伏せた。
「なら、私も言っておくわ」
彼女は再び顔を上げる。
「あなたが誤ったら、私が裁く」
風の音が止まったように感じた。
「皇女としてではなく」
彼女は続ける。
「その時の皇帝として」
レオンの灰色の瞳が、わずかに細くなる。
感情ではなく、重さを測っている目だった。
「受理します」
その一言で、二人の関係は変わった。
アリシアはもう、レオンに認められたいだけの皇女ではない。レオンもまた、彼女を守るべき皇族としてだけ見ているのではない。互いを帝国の秤に掛ける者として、同じ線上に立った。
それが甘い関係でないことは分かっている。
だが、胸の奥に生まれた熱は確かに甘さを含んでいた。認められたからではない。並び立てると、初めて思えたからだ。
「一つだけ、私情を言ってもいいかしら」
「内容によります」
「本当に便利な返事ね」
アリシアは小さく息を吐いた。
「あなたに裁かれるかもしれない未来が怖い」
レオンは黙っている。
「でも、あなたが裁かないと言ったら、もっと怖かった」
その言葉だけで十分だった。
レオンは、彼女の恐れを慰めなかった。恐れたまま立つことを、責務として認めた。
高楼を降りる頃、アリシアは三つの文書すべてに署名していた。
翌朝、帝都中央広場、元老院掲示門、軍務省前、聖務庁外壁、そして主要市場の掲示柱へ、同じ布告が張り出される。
第一皇女アリシア・ヴァルガスト、皇帝候補として立つ。
皇太子派残党の最終裁判に全面協力する。
皇女派貴族の特権と不正利得も、帝冠監察院の監察対象とする。
民衆は歓声を上げた。
貴族は顔色を変えた。
軍務省では、セドリック配下の将校が無言で地図を閉じた。
元老院議長邸で布告を読んだグレゴリウスは、蝋燭の火に紙の端を近づけ、燃やさずに止めた。
「自分の支持者まで削るか」
老人は静かに呟く。
「厄介な皇女になった」
帝国の盤面は、大きく動いた。
そしてその動きに耐えられない者たちが、地下へ潜り始めていた。




