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皇帝失格 〜帝国最強の監察官、腐った皇族を廃位する〜  作者: セルヴォア


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20/30

皇帝候補の決断

三日後、皇女宮では朝から人の出入りが絶えなかった。

侍女は衣装箱を運び、法務官は文案を抱え、近衛は門前の警備線を二重に張っている。外から見れば、第一皇女がまた何か政治的な布告を出す準備に見えただろう。


だが、アリシアが本当に決めたことは、まだ誰にも告げていない。


彼女は執務卓の上に三つの文書を並べていた。

一つは皇帝候補として立つ宣言。

一つは皇太子派残党への最終裁判協力命令。

一つは、自派貴族の特権整理案。


どれも署名すれば、自分の逃げ道を一つずつ塞ぐ。

特に三つ目は、改革派貴族の一部から必ず反発を招く。彼らはアリシアを担ぐが、彼女に裁かれることまでは望んでいない。


ラヴィニアが部屋の入口で控えていた。

彼女は余計な励ましを言わない。ただ、必要があれば剣を抜ける位置にいる。今のアリシアには、それで十分だった。


「帝冠監察官は」


「高楼回廊に」


ラヴィニアが答える。


「先にお待ちです」


アリシアは最後の文書へ視線を落とした。

自分の署名欄はまだ空白だ。


「待たせるつもりはないわ」


彼女は立ち上がり、外套を羽織った。


帝冠監察院の高楼回廊は、帝都を見下ろすために作られた場所ではない。

もともとは火災や暴動の監視台で、石壁には古い矢傷が残り、風除けの柱も実務的で飾りがない。そこから見る帝都は、宮廷の窓から見る帝都よりもずっと生々しかった。


市場の煙、職人街の炉、貧民区の細い路地、貴族街の白い屋根。

同じ朝の光を浴びているのに、暮らしの厚みはまるで違う。


レオンは欄干の側に立っていた。

黒い外套が風に揺れている。彼は皇女を待つために身なりを整えたわけではないだろう。それなのに、その姿は奇妙なほど場に合っていた。


アリシアは隣へ並んだ。


「帝都は広いわね」


「帝国はもっと広い」


「知っているわ」


彼女は少し笑った。

以前なら、その短さを冷たさと受け取ったかもしれない。今は、その余白に自分の答えを置ける。


「私は皇帝になります」


言葉は、思っていたより静かに出た。

だが口にした瞬間、胸の奥で何かがはっきりと音を立てて閉じる。逃げ道が消えた音だった。


レオンは振り向く。


「承知しました」


それだけだった。

驚きも、祝福も、感傷もない。彼は決断を、決断として受け取った。


アリシアは欄干に手を置く。


「あなたは、もう少し人を喜ばせる返事を覚えた方がいいわ」


「必要なら検討します」


「検討で終わるでしょうね」


そのやり取りで、少しだけ呼吸が楽になる。

だが、本題はここからだった。


「私は皇帝になります。でも、父上の後をそのまま継ぐつもりはない」


アリシアは三つの文書を差し出した。


「皇太子派を裁く。改革派も例外にしない。私を支える者が不正で得た特権を持つなら、それも削る」


レオンは文書を受け取らず、内容だけを見た。


「それは自派を弱めます」


「分かっている」


「セドリック派は喜ぶ」


「ええ」


「グレゴリウスは、皇女は味方を切る冷血な女だと広める」


「そうでしょうね」


風が吹き、アリシアの銀髪が肩からこぼれた。


「でも、私が自分の側だけを守ったら、兄上と何が違うの」


レオンは答えない。

答えは、彼女がすでに持っている。


「皇帝になるということは、誰かに担がれて高い場所へ行くことではないわ。担いだ者たちにも、必要なら退けと言うことよ」


アリシアは、そこで初めてレオンを真正面から見た。


「その時、あなたは私を監察するの」


「します」


答えは即座に返った。


「皇帝になっても」


「皇帝になっても」


「私があなたを必要としていても」


「必要としていることは、監察の除外理由になりません」


胸に痛みが走る。

だが、それは拒絶の痛みではない。むしろ、欲しかった答えがあまりにも正確に来たせいで、逃げられなくなった痛みだった。


「そう」


アリシアは一度だけ目を伏せた。


「なら、私も言っておくわ」


彼女は再び顔を上げる。


「あなたが誤ったら、私が裁く」


風の音が止まったように感じた。


「皇女としてではなく」


彼女は続ける。


「その時の皇帝として」


レオンの灰色の瞳が、わずかに細くなる。

感情ではなく、重さを測っている目だった。


「受理します」


その一言で、二人の関係は変わった。

アリシアはもう、レオンに認められたいだけの皇女ではない。レオンもまた、彼女を守るべき皇族としてだけ見ているのではない。互いを帝国の秤に掛ける者として、同じ線上に立った。


それが甘い関係でないことは分かっている。

だが、胸の奥に生まれた熱は確かに甘さを含んでいた。認められたからではない。並び立てると、初めて思えたからだ。


「一つだけ、私情を言ってもいいかしら」


「内容によります」


「本当に便利な返事ね」


アリシアは小さく息を吐いた。


「あなたに裁かれるかもしれない未来が怖い」


レオンは黙っている。


「でも、あなたが裁かないと言ったら、もっと怖かった」


その言葉だけで十分だった。

レオンは、彼女の恐れを慰めなかった。恐れたまま立つことを、責務として認めた。


高楼を降りる頃、アリシアは三つの文書すべてに署名していた。


翌朝、帝都中央広場、元老院掲示門、軍務省前、聖務庁外壁、そして主要市場の掲示柱へ、同じ布告が張り出される。


第一皇女アリシア・ヴァルガスト、皇帝候補として立つ。

皇太子派残党の最終裁判に全面協力する。

皇女派貴族の特権と不正利得も、帝冠監察院の監察対象とする。


民衆は歓声を上げた。

貴族は顔色を変えた。

軍務省では、セドリック配下の将校が無言で地図を閉じた。


元老院議長邸で布告を読んだグレゴリウスは、蝋燭の火に紙の端を近づけ、燃やさずに止めた。


「自分の支持者まで削るか」


老人は静かに呟く。


「厄介な皇女になった」


帝国の盤面は、大きく動いた。

そしてその動きに耐えられない者たちが、地下へ潜り始めていた。

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