皇太子派の最後の抵抗
帝都南端の旧排水区は、昼でも薄暗い。
古い水路の上に商人長屋が建ち、さらにその上へ安宿と倉庫が継ぎ足されている。地図には道があるのに、実際に歩くと壁へ突き当たる場所も多い。逃げる者、隠れる者、消したい荷を運ぶ者には都合のいい区画だった。
シェリルは、濡れた屋根の上に片膝をつき、下の路地を見ていた。
雨は降っていない。だが旧排水区の石はいつも湿っている。匂いも悪い。貴族街の香水に慣れた者なら、半刻もいられないだろう。
「よくこんな場所を選ぶ」
ラヴィニアが低く言う。
シェリルは肩をすくめた。
「追い詰められた連中は、綺麗な場所より狭い場所を好む」
屋根の下、朽ちた染物屋の地下に、皇太子派最後の司令部がある。
《夜鴉》が三晩かけて見つけた場所だった。出入りした者は旧皇太子府の護衛、商会派の運び屋、元近衛の脱走者。持ち込まれた箱には武器と毒、そして儀式用の禁呪具が含まれている。
標的は二つ。
アリシアの布告式。
帝冠監察院の護送路。
皇女と監察官を同日に殺す計画だった。
復権ではない。秩序を壊し、誰が勝ったか分からない混乱を作るための最後の反乱だ。
地上の裏路地に、レオンが到着した。
執行吏、近衛、法務官補佐、そしてシェリル配下の影が、すでに水路の入口を囲んでいる。派手な軍勢ではない。狭い場所を制圧するために選ばれた少数だった。
レオンは地図を見た。
「入口は」
「正面が一つ。荷揚げ穴が二つ。水路への落とし口が一つ」
シェリルが答える。
「正面は罠。荷揚げ穴は逃走用。落とし口は、毒を流すためにも使える」
ラヴィニアが顔をしかめた。
「民家の下を通っているのか」
「旧排水区全体へ流せる」
沈黙が落ちる。
追い詰められた残党は、自分たちが逃げられなければ周囲の民ごと巻き込むつもりなのだ。
レオンは迷わない。
「水路を先に封じます」
「私が行く」
シェリルが言った。
「毒と逃走路は、こっちの仕事だ」
ラヴィニアは、短く頷いた。
「正面は私が受ける」
以前なら、その役割分担に刺があったかもしれない。
近衛騎士と暗殺者。光と影。だが今、二人のあいだにあるのは職能の違いだけだった。
レオンは降伏勧告の文書を執行吏へ渡す。
「読み上げ後、三十数えます。投降がなければ突入」
「殺害許可は」
若い執行吏が問う。
「最小限です」
レオンの声は冷たい。
「裁判に掛けるべき者を、怒りで減らすな」
その言葉に、ラヴィニアの背筋がわずかに伸びた。
戦うためではなく、裁くために制圧する。それが、ここ数日で彼女が学んだ新しい剣の使い方だった。
勧告が地下へ響く。
「帝冠監察院だ。武装解除し、地上へ出よ。抵抗を続ける場合、帝国秩序への武装反乱として制圧する」
返ってきたのは、矢だった。
錆びた鉄矢が壁に刺さり、油が弾ける。次いで地下の奥から笑い声が響いた。
「皇太子殿下は死んでいない!」
誰かが叫ぶ。
「血統は滅びない! 監察官と売女皇女を殺せ!」
ラヴィニアの目が冷える。
「突入」
レオンの声と同時に、正面扉が破られた。
狭い階段を、ラヴィニアは先頭で降りる。
盾役の騎士が二人、その後ろに続く。地下から放たれる矢を盾で受け、踏み込む。一段ごとに、湿った石と血の匂いが濃くなっていく。
最初の敵は、元近衛だった。
かつて同じ訓練場にいた男。ラヴィニアは顔を知っている。相手も彼女を見て、一瞬だけ唇を歪めた。
「裏切り者」
「違う」
ラヴィニアは剣を振るう。
刃ではなく柄で手首を砕き、膝を蹴って床へ沈める。
「私が遅すぎただけです」
そのまま踏み越えた。
情を掛けることと、手を緩めることは違う。彼女はようやく、それを身体で理解していた。
水路側では、シェリルが影のように動いていた。
荷揚げ穴から逃げようとした運び屋を、足首の腱を切らずに転ばせる。毒壺に火を付けようとした男の指を短剣の柄で潰す。殺す方が簡単だ。だが、今は証言が要る。
「殺すな」
彼女は配下へ短く命じる。
「喋る口は残せ」
水路の落とし口では、黒い壺が三つ並んでいた。
封蝋には皇太子府の古い印。中身は、水に溶ければ熱を持って広がる毒だった。流せば旧排水区の井戸が死ぬ。
シェリルは舌打ちした。
「貴族の最後が井戸毒か」
彼女は壺の封を逆に固定し、落とし口へ鉄鎖を掛ける。
その瞬間、背後から細い針が飛んだ。シェリルは首を傾けて避ける。針は石壁に刺さり、淡い煙を上げた。
「夜鴉の恥さらしが」
暗がりに、かつての部下がいた。
皇太子派へ買われた暗殺者。シェリルの顔を知り、彼女の過去を知っている男だ。
「飼い主を替えただけで、自由になったつもりか」
シェリルは短剣を構えた。
「違う」
彼女は低く言う。
「飼い主を持たないことにした」
刃が交わる。
暗殺者同士の戦いは、派手な音を立てない。足音、息、布の擦れ、短い金属音。最後に、シェリルの柄が相手の顎を打ち抜いた。
男が倒れる。
「縛れ」
配下が動く。
シェリルは水路の向こうへ目を向けた。かつてなら自分も、命令があれば同じ毒を流していただろう。その事実が胸を冷やす。だが、その冷たさはもう彼女を支配しない。
中枢室では、皇太子派の指導格バイロン伯が禁呪具の前に立っていた。
銀の冠を模した輪と、赤い宝石を埋め込んだ短剣。皇太子の血統を象徴する粗悪な祭具だ。
「近づくな!」
バイロン伯の声はひび割れている。
「血統は消えぬ。帝国は血で立つ。皇太子殿下が失格になろうと、血があれば戻せる!」
レオンが部屋へ入る。
ラヴィニアはすでに数人を制圧し、剣先を床へ向けていた。
「マクシミリアン・ヴァルガストは、皇太子権限を失っています」
レオンは言った。
「血統は、失われた権限を自動回復しません」
「黙れ!」
バイロン伯が短剣を自分の腕へ突き立てようとする。
血を禁呪具へ注ぎ、何かを起動するつもりだ。
ラヴィニアが動いた。
床を蹴り、間合いを潰し、短剣を弾く。刃は石床へ転がり、赤い宝石が砕けた。
「終わりです」
バイロン伯は床に倒れ、なお叫ぼうとした。
だがレオンが右手を上げる。
「帝冠監察、起動」
黒い文字が中枢室を満たす。
壁に隠された資金台帳、床下の連絡簿、毒壺の発注書、暗殺計画の標的名簿。すべてが浮かび上がる。
そして、別の封筒が現れた。
元老院議長邸の保護区画を示す略図。署名はない。だが仲介人の印が、夜会で逃げた資金管理役のものと一致している。
ミラベルが息を呑んだ。
「これなら、裁判で繋げられます」
レオンは頷く。
「皇太子派の武力線は、ここで終わりです」
ラヴィニアは床に膝をつく元近衛たちを見た。
彼らの中には、自分と同じように誓いを間違えた者もいる。だが、間違えた後に何を選ぶかで、人は別の場所へ行く。
剣を鞘へ戻す音が、地下室に鋭く響いた。
地上へ出ると、旧排水区の空は灰色だった。
民家の窓から、人々が恐る恐るこちらを見ている。誰も歓声を上げない。だが、井戸毒が止められたことを知った老女が、胸の前で小さく手を組んだ。
シェリルはそれを横目で見て、すぐに視線を逸らす。
レオンは押収書類を閉じた。
「最後の裁判を開きます」
その言葉に、ラヴィニアもシェリルも頷いた。
剣と影の仕事は終わった。次は、法の場で息の根を止める番だった。




