現皇帝との対話
その夜、帝冠監察院の遠隔謁見室は、いつもより暗く整えられていた。
壁際の燭台は半分だけ灯され、中央の水晶板には黒布が掛けられている。皇帝との遠隔謁見に使う部屋でありながら、そこには玉座も、膝をつくための段差もなかった。
レオンは一人で入室した。
扉の外には執行吏が二名。さらに廊下の角にはラヴィニアが立っている。アリシアは同席を求めなかった。父と監察官が初めて言葉を交わす場に、自分が入るべきではないと理解していたからだ。
水晶板の黒布が、内側から吹かれたように揺れた。
淡い光が走り、病床のルドルフ・ヴァルガストが映る。
寝台の背を起こした老皇帝は、思ったより痩せていた。
白髪は整えられているが、頬は落ち、寝衣の肩は骨ばって見える。それでも青灰色の瞳だけは衰えていない。宮廷で見せる威厳ではなく、長く帝国を見続けた者の鈍い光がそこにあった。
「人払いをした」
ルドルフの声は低い。
「そちらも同じか」
「同じです」
「アリシアは」
「外にいます」
老皇帝は短く息を吐いた。
笑ったようにも、咳をこらえたようにも見えた。
「あれも、待つことを覚えたか」
レオンは答えない。
父親の言葉に、家族の温度を乗せるつもりはなかった。ここにいるのは、皇帝と帝冠監察官だ。
ルドルフはそれを見抜いたように、目を細める。
「よくやった」
最初の言葉は賞賛だった。
「皇太子派は大きく削れた。元老院も、お前の権限を正面から折ることはできぬと知った。帝国にとって必要な痛みだ」
「必要なら、もっと早く行うべきでした」
水晶板の向こうで、老皇帝の指が寝台の布を押さえた。
「容赦がない」
「監察ですので」
「それで済むなら皇帝はいらぬ」
ルドルフの声は、そこで少しだけ重くなる。
「帝国は、正しい命令だけで保つものではない。飢えた属州、誇りだけで生きる貴族、血に酔った軍、奇跡を売る聖職者、法の穴で金を増やす商人。どれも切れば血が出る。全部を一度に裁けば、帝国そのものが倒れる」
「倒れないために腐らせたのですか」
レオンの問いは、刃のように短かった。
ルドルフは沈黙した。
その沈黙は否定ではない。むしろ、答えを選ぶ時間に見えた。
「腐ったものを、いつか削ればよいと思っていた」
やがて皇帝は言った。
「軍には勝利が必要だった。元老院には妥協が必要だった。聖務庁には民の信仰を乱さぬための沈黙が必要だった。属国には、反乱を起こさせぬための恐怖が必要だと、臣下たちは言った」
老皇帝の目が、水晶越しにレオンを捉える。
「俺は全部を知っていたわけではない。だが、知らなかったと言えるほど愚かでもなかった」
遠隔謁見室の空気が、さらに冷える。
「止める権力を持ちながら、止めなかった」
ルドルフは自分で言った。
「それが俺の罪だ」
レオンの表情は動かない。
だが、その灰色の瞳の奥で、何かが確定したように見えた。
「ならば、貴殿は失格ではないのか」
問いは真正面から投げられた。
皇帝に対する言葉としては不敬どころではない。だが、この部屋には不敬を裁く廷臣はいない。
ルドルフは逃げなかった。
「今、俺を落とせばどうなる」
「帝国は混乱します」
「では落とさぬのか」
「必要な順序があります」
老皇帝の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「お前は冷たい」
「秩序を保つためです」
「それは俺と同じ言葉だ」
初めて、レオンの眉がわずかに動いた。
ルドルフは続ける。
「俺もそう言って、多くを先送りした。帝国のため。民のため。今はまだ早い。時機を待て。そうやって、止めるべきものを止めなかった」
老皇帝は咳き込み、寝台脇の侍医らしき影が動きかける。
ルドルフは手を上げて制した。
「帝冠監察官よ。お前の正しさにも、同じ穴がある」
「穴」
「順序という言葉は便利だ。いつかという言葉も便利だ。人はそれで、自分の臆病を責務に見せかける」
レオンは黙った。
ルドルフは、そこを見逃さない。
「俺を裁くなら、逃げるな。俺をまだ裁かぬなら、その理由を毎日自分に問え。帝国のためという言葉で、自分を許すな」
遠隔水晶の光が揺れる。
病床の皇帝は、敵ではない。味方でもない。彼は、未来に置かれた巨大な監察対象であり、同時に、レオンが同じ誤りへ落ちないかを見ている証人でもあった。
「お前はまず、皇太子派を終わらせる」
ルドルフは言った。
「次に、帝国の各部に巣食う権力を正す。軍、信仰、元老院、属国、財政。どれも、俺が完全には止められなかったものだ」
「その後」
レオンが言う。
ルドルフは頷いた。
「俺の番だ」
免責ではない。
猶予でもない。
その言葉は、皇帝自身が自分の首に見えない縄を掛けるような響きを持っていた。
レオンは、深く頭を下げなかった。
ただ、監察記録を受理する時と同じ角度で頷く。
「承知しました」
「怖い若者だ」
ルドルフは言った。
「だが、怖い者が必要な時代にしたのは、俺たちだ」
水晶板の光が薄くなる。
接続が切れる直前、老皇帝は小さく付け加えた。
「アリシアを甘やかすな」
「皇族として監察します」
「それでいい」
光が消えた。
部屋には、燭台の火だけが残る。
レオンはしばらく動かなかった。皇帝の罪は確定した。だが、失格宣告はまだ下りない。その事実が、いつもより重い形で胸の底へ沈む。
扉を開けると、廊下の先にアリシアが立っていた。
銀髪を結い上げ、皇女の外套を羽織っている。待っているあいだ、何度も歩きかけては止まったのだろう。足元の絨毯に、微かな乱れがある。
「父上は」
「罪を認めました」
アリシアの顔から、わずかに血の気が引く。
「何の」
「止める権力を持ちながら、止めなかったことです」
父を弁護する言葉はいくつも浮かんだ。
病だった。帝国は広すぎた。臣下が隠した。時代が悪かった。だが、どれも口にすれば、いま自分が何を守ろうとしているのかが濁る。
「あなたは、父上も裁くのね」
「必要な時に」
「必要な時」
アリシアはその言葉を噛みしめる。
父と同じ危険な言葉だと、今は分かる。だが、レオンの声には逃げがなかった。先送りではなく、順序として受け止めている。
「私が皇帝になったら」
彼女は言いかけ、止めた。
まだ口にしていない決断が、胸の内で形を持ち始めている。
レオンは待った。
急かさない。その沈黙が、かえって彼女に逃げ道をなくす。
「いいえ」
アリシアは小さく首を振った。
「今はまだ、言葉にする前に整えるべきものがある」
「承知しました」
レオンはそれ以上を問わない。
その冷静さが、今夜は優しさよりも深く刺さった。
この男を信じるとは、父も、自分も、誰も例外にしない秤の前へ立つことだ。その怖さを知ったうえで、アリシアはまだ、その隣へ進みたいと思っていた。




