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皇帝失格 〜帝国最強の監察官、腐った皇族を廃位する〜  作者: セルヴォア


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18/30

元老院議長の反撃

帝国法廷の鐘は、朝の三つ目を打つ前から鳴らされていた。

通常なら元老院の緊急審議は午後に開かれる。だが、この日だけは別だった。夜会会場が丸ごと監察対象に指定され、貴族、商会仲介人、旧皇太子府の書記官たちが拘束されたことで、帝都中枢の血管が一晩で凍りついた。


法廷へ入る者は、全員が名札を確認された。

元老院議員、法官、軍務省の観察官、聖務庁の記録司祭、諸侯の代理人。誰もが喪服に近い黒を纏っていたが、喪に服している者などほとんどいない。彼らが悼んでいるのは、皇太子ではなく、自分たちの秘密が安全だった時代だった。


アリシアは皇族席に座り、向かいの元老院席を見ていた。

グレゴリウス・バルテンは、すでにそこにいる。老いた顔に疲労は見えず、指先で銀縁の書類を整えている姿は、夜会の摘発すら予定された議題の一つでしかなかったように見えた。


レオンは法廷中央の黒石円へ進む。

その周囲には帝冠監察院の執行吏が立ち、ミラベルは証拠箱の封印を確認していた。ラヴィニアは皇族席の下段で控え、広間の出口とアリシアの位置を同時に見られる場所を選んでいる。


開廷の槌が鳴る。


グレゴリウスが立ち上がった。


「元老院議長グレゴリウス・バルテンとして、帝冠監察院の権限停止、および監察執行の一時凍結を提案する」


言葉が落ちた瞬間、広間の気配が変わった。

逃げ道を潰された者たちの反撃にしては、あまりに整っている。アリシアは膝上で指を組み、爪が手袋越しに掌へ食い込むのを感じた。


グレゴリウスは声を荒げない。

それがかえって、彼の攻撃を鋭くしていた。


「昨夜の監察は、私人の社交領域に対する過剰介入である。追悼の名で集まった場を、一個人の判断によって丸ごと監察対象とし、会話、書簡、資産目録まで可視化した。これを認めれば、帝国臣民の私的領域はすべて監察官の掌に落ちる」


保守派議員の一人が頷く。


「帝冠監察官が正しいか否かを問うているのではない。制度として危険だと言っている」


別の法官が追随した。


「監察権の行使には、元老院または帝国法廷の事前承認を必要とすべきではないか」


「少なくとも、皇族関連事件に限定するべきだ」


「帝冠監察院は、いつから帝国全土の秘密警察になった」


声は散発的に見えて、妙に方向が揃っている。

夜会で逃げ延びた者たちの処分を争うのではない。監察院の根そのものを切りに来ている。


グレゴリウスは、最後にレオンへ視線を向けた。


「レオン・クロウヴァイス。お前は皇太子を失格にし、近衛の権限を止め、皇女の私財にまで監察を入れた。結果だけを見れば、たしかに多くの腐敗が露呈した」


老人はわずかに間を置く。


「だが、正しい結果が危険な権限を正当化するとは限らぬ。帝国は、一人の男の正義で運用されるほど軽くない」


アリシアは、思わずレオンの横顔を見た。

挑発ではなく、罠だ。怒れば感情的な執行者に見える。黙れば、限界を示せない権力者に見える。


レオンは、静かに答えた。


「帝冠監察官は、無制限ではありません」


「ならば示せ」


グレゴリウスの返答は速かった。

待っていた言葉だったのだ。


「お前を縛るものは何だ。皇帝か。元老院か。法廷か。それとも、お前自身の良心か」


場内に低いざわめきが起きる。

良心という言葉が出た瞬間、何人かの貴族が薄く笑った。制度の場で良心を根拠にすれば、それは攻撃材料になる。


レオンは、執行吏へ目を向けた。

黒革の筒が運ばれてくる。筒の封蝋には、現在の皇帝印ではなく、建国時代の古い帝冠紋が押されていた。


法官席がざわつく。


「それは」


「帝冠契約の根本写本です」


レオンが筒を開くと、羊皮紙ではなく、薄い金属膜のような巻物が現れた。

文字は黒く沈んでいる。古すぎるのに、擦り切れていない。紙ではなく、契約そのものが形を取ったものに見えた。


グレゴリウスの眉が、初めてわずかに動いた。


「持ち出しを許された記録ではない」


「許可は不要です」


「ほう」


「帝冠監察院が監察対象になった時、監察院自身の根拠を提示する義務が発生します」


レオンは巻物を法廷中央の黒石円へ置いた。


「帝冠監察、根源条項開示」


黒石円から、黄金の鎖が走った。

最初は細い線だった。だがそれは床の溝へ入り、法官席の下を通り、元老院席、皇族席、軍務官席、聖務庁観察席へと伸びていく。鎖は人を縛るためではなく、座席そのものの土台へ絡みついた。


アリシアは息を呑んだ。

皇族席の足元にも、同じ鎖があった。自分の座る場所が、ただ血統で浮かんでいるのではなく、古い責務の鎖に支えられていることを見せつけられる。


鎖の根は、さらに深く沈んでいった。

床の下に、法廷の下に、帝都の石畳の下に、古い帝国の基礎がある。そこへ刻まれた文字が浮かぶ。


皇位。


元老院。


軍権。


聖務権。


それぞれの文字が黄金の鎖で結ばれ、最後に、より深い層から別の文字が浮かび上がった。


帝冠監察官。


法廷全体が、音を失った。


レオンは言った。


「帝冠監察官は、皇位の上に立つ権限ではありません。元老院の上に座る権限でもありません」


鎖が静かに鳴る。


「帝国の主要権限は、建国契約によって成立しています。その成立条件に、監察を受ける義務が含まれている」


若い法官が、震える声で呟いた。


「皇帝が法を生んだのではない……」


レオンが、その言葉を継いだ。


「法が皇帝を支える。元老院を許し、軍権を縛り、聖務を制限する」


グレゴリウスは立ったまま、鎖を見下ろしていた。

彼の表情は崩れない。だが、アリシアには分かった。老人は今、怒っている。怒声ではなく、計算の内側が一瞬だけ凍る種類の怒りだった。


「では、監察官を監察するものは何だ」


グレゴリウスは問うた。


それは鋭い。

場内の視線が再びレオンへ集まる。


「帝冠契約そのものです」


レオンは即答した。


「監察官が帝国の権限を私物化した場合、帝冠監察は起動しません。失格宣告は、私の意思だけでは成立しない」


「証明できるのか」


「できます」


レオンは自分の右手を鎖の中心へ差し出した。


「帝冠監察官レオン・クロウヴァイス。自己監察を申請する」


ミラベルが目を見開く。

ラヴィニアの手が剣柄へ触れかけ、すぐに止まった。アリシアは椅子の肘掛けを掴む。


黒石円から、黒い文字が立ち上がった。

それはレオンの周囲を回り、肩、腕、胸元をなぞるように走る。法廷の全員が見ている前で、監察官自身の権限が秤に掛けられている。


表示された文字は短かった。


私益なし。

皇位請求なし。

権限保持目的なし。

監察継続。


レオンは右手を下ろす。


「これが限界です」


誰もすぐには口を開けなかった。

自分自身を秤に掛ける権力者を、彼らは見たことがなかったからだ。


グレゴリウスだけが、ゆっくりと拍手を一つ打った。


「見事だ」


賞賛の形をしていたが、そこに温度はない。


「帝冠監察官の権限が、建国契約に基づくことは認めよう。少なくとも、この場では否定できぬ」


「議長」


保守派議員の一人が焦った声を出す。


グレゴリウスは手で制した。


「提案を撤回する」


ざわめきが広がる。

勝った、とは誰も口にしない。グレゴリウスが引いたのは、負けを認めたからではない。今の戦場で戦う価値がなくなったからだ。


散会の槌が鳴る。

人々が立ち上がる中、グレゴリウスはレオンへ近づいた。二人のあいだには、まだ黄金鎖の名残が床に薄く光っている。


「お前は帝国を救うかもしれぬ」


老人は穏やかに言った。


「同時に、帝国最大の危険人物でもある」


レオンは目を逸らさない。


「危険かどうかは、監察結果で判断されます」


「そういうところだ」


グレゴリウスは、初めて薄く笑った。


「人は正しさだけで動かぬ。恐怖、嫉妬、疲労、孤独。制度の外側にあるものが、最後には制度を動かす」


老人はそれだけ残し、退廷していった。


アリシアは、彼の背を見ながら悟った。

正面から監察院を折ることはできなかった。ならば、次は人の側を攻めてくる。レオンへの信頼を削り、監察院の周囲を孤立させ、帝国臣民に「正しすぎる者は怖い」と思わせる。


法廷の窓から差す朝日は明るい。

それなのに、広間に残った空気は夜より重かった。

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