皇帝になれない男
黒霧が迫る寸前、アリシアは剣の抜ける音を聞いた。
金属音は短い。だが、その一音だけで玉座の間の空気が変わった。
レオンの手にあったのは、光を吸うような黒剣だった。
飾りはない。見栄えのための意匠もない。斬るためだけに存在していると分かる刃だった。
剣が横一文字に走る。
黒霧は弾け飛ばず、断ち切られた先から刃へ吸い込まれていった。兄が放った禁呪が、熱も唸りも失って消えていく。
誰かが、断冠剣、と呟いた。
その名を知っていたらしい司祭の声は、祈りの途中で喉を絞られたように掠れていた。
兄は砕けた宝珠を見つめたまま後ずさる。
「なぜだ……皇族の血が、禁呪に負けるはずが」
「負けたのは血ではありません」
レオンは剣を下ろした。
「責務です。皇族の権限は、帝国を守る責務と対で与えられている。その責務を踏み砕いた時点で、権限はもう貴殿を守りません」
貴族席から震えた声が上がる。
「皇帝に逆らう、それほどの権限を誰が許した」
レオンはその声の主を見た。
「皇帝ではありません」
それだけで、場の緊張がさらに深く沈む。
「帝冠監察院は、初代皇帝の戴冠より前に置かれました。玉座を作る前に、玉座を裁く法が定められたのです。帝冠監察官は皇帝の道具ではありません。帝国の道具です」
足元の契約文字が形を変えた。
剣と冠を囲む古い紋章が、石床の中央に浮かぶ。司祭たちは次々に膝をつき、祈りではなく確認の沈黙を捧げた。
アリシアは呼吸を整えながら、その男を見つめた。
皇太子を止め、禁呪を断ち、それでいて玉座への渇きが見えない。その無欲さが、権力欲よりもはるかに危険だった。
兄が吐き捨てる。
「そこまで言うなら、お前が座ればいい。監察官なら、帝国を治めることもできるだろう」
「できません」
レオンは即答した。
「帝冠監察官は皇位継承権を持ちません。冠を裁く者が冠を欲した瞬間、この制度は私欲に堕ちます。私は皇帝になれない。だからこそ皇帝を裁けるのです」
アリシアは目を細めた。
利用できるなら利用したい。だが、その前提として、自分もまたこの男の秤に乗る。そこから逃れられないことが、かえって言葉の重さを本物にしていた。
兄はなおも声を張る。
「血統が帝国を支えてきた! 選ばれた家が支配するから秩序が保たれる!」
「訂正しろ」
レオンの声が硬く落ちる。
「帝冠監察官は帝国の外にいる者ではありません。帝国から逸れたのは貴殿らです」
契約文字が兄の足元へ鎖のように絡みついた。
再び血統魔法を起動しようとした赤金の光が、発動の前に反転し、黒い火花を散らして砕ける。
兄の顔から余裕が消える。
それでもなお、彼は自分が否定された事実を受け入れきれず、玉座の階にしがみついていた。
遠く離れた病床の間では、水晶板がこの光景を映していた。
侍医が控え、侍従が息を潜める中、ルドルフ皇帝は薄く目を開けたまま動かない。
水晶の光が揺れた時だけ、老皇帝の瞳がわずかに細まった。
怒りなのか、驚きなのか、それとも別の感情なのか。侍従たちには読み取れない眼差しだった。




