帝国の二つの派閥
数日後の帝都は、同じ空の下に二つの声を抱えていた。
朝の市場では野菜商がレオンの名を口にし、昼の議場では元老院議長の声明が読み上げられ、夕方の酒場では第一皇女の演説が誇張混じりに語られる。どこへ行っても、誰かが帝冠監察官を正義と呼び、別の誰かが危険と呼んだ。
帝都中央の大通りでは、露天商の女が荷を並べながら言う。
「皇太子を落としたのは正しかったよ。あれだけで十分だろ」
それに、向かいの肉屋が鼻を鳴らす。
「十分なものか。次は誰だって話だ。貴族も役人も、今じゃ帳簿を開く手が震えてる」
「震えるようなことをしてるからだろ」
笑いが起きる。
だが、その笑いの底にも緊張がある。誰もが正義を歓迎しながら、正義の矛先が自分へ向く可能性を同時に恐れているのだ。
同じ頃、帝都西区の軍務省付属訓練場では、まったく別の熱が渦巻いていた。
鉄の匂い、汗、荒い怒号。そこでは第二皇子セドリックが軍閥派の将官たちを前に立ち、演説というより檄を飛ばしている。
「帝冠監察官の権限は、皇帝の権限を侵している」
その声に、鎧を鳴らす将校たちが顔を上げる。
「今日、奴は皇太子を失格にする。明日には将軍を止める。次は軍の決裁にまで口を出すだろう。そんな状態で、帝国軍に名誉が残るか」
年嵩の将が低く問う。
「なら、第二皇子殿下は何をお望みです」
セドリックは笑わなかった。
「軍が本来の役目を思い出すことだ。帝国の秩序を守るのは、契約文字ではない。武力を背負う覚悟のある者だ」
過激な言い方だった。
だが、戦場を知る者ほど、その言葉に一瞬は引かれる。法は国を形作る。だが最後に形を守るのは力だ、と信じてきた者たちにはなおさら。
「帝冠監察官を排除すべきだ」
誰かがそう漏らす。
セドリックは即答しない。ただ、その声を否定もしなかった。
肯定を自分で言わず、他人に言わせて空気を作る。それが彼の狡さだった。
一方、帝都東区の広場では、アリシアが護衛を絞って民衆の中へ出ていた。
皇女の視察という名目だが、実際には民衆の声を自分の耳で確かめに来たのだ。ラヴィニアが半歩後ろにつき、周囲には最小限の騎士だけが散っている。
アリシアが姿を見せると、ざわめきが一斉に寄ってきた。
「第一皇女殿下だ」
「本当に公爵を切らせた方だ」
「殿下、皇太子はもう戻りませんよね」
投げかけられる言葉は粗く、率直で、宮廷の礼法からは程遠い。
だが、アリシアはそれを嫌わなかった。むしろ、宮廷の取り繕いよりずっと本音に近い。
荷運びの青年が帽子を取って叫ぶ。
「皇太子は腐ってた! 俺たちは知ってたんだ!」
別の女が続く。
「帝冠監察官は帝国を救ったよ!」
そして、予想もしなかった方向から声が飛ぶ。
「皇女殿下も清廉だ!」
アリシアの足が一瞬だけ止まる。
自分へ向けられた支持の熱は、先日の大議場とは質が違った。貴族の計算ではなく、民衆の期待だ。飢えたことも、徴税に怯えたこともある者たちの、切実な願いの温度。
「殿下、裏切らないでくださいよ」
年老いた仕立屋の男が、深くは頭を下げずに言う。
「あんたまであいつらと同じなら、もう誰も信じられねえ」
その言葉は歓呼より重かった。
アリシアはゆっくり頷く。
「裏切らないわ」
即興の返答だったが、嘘はなかった。
「ただし、私を信じるなら、私が裁かれることも含めて信じなさい」
民衆はすぐには意味を飲み込めなかった。
だが、皇女が自分も例外ではないと口にした、その響きだけは確かに伝わる。
レオンは少し離れた回廊の影から、その様子を見ていた。
護衛ではない。監察対象の動きと、帝都の空気を見に来ただけだ。
アリシアが人波から戻ってくると、彼は短く告げる。
「支持が増えています」
「見れば分かるわ」
アリシアはかすかに疲れた笑みを浮かべた。
「でも、同じだけ憎悪も増えているのでしょう」
「ええ」
否定しない。
「反レオン派は軍に寄り始めた。元老院はそれを利用し、軍は元老院を信用していない。今は均衡しているだけです」
言葉だけ聞けば、ほとんど内乱前夜の報告だった。
アリシアは広場を振り返る。
民衆はまだ彼女を見ている。希望を見る目で。
その裏で、別の場所では武装が進んでいる。
「この支持は、私を楽にするためのものではないのね」
「もちろんです」
あまりにも当然に返されて、アリシアは小さく息を吐いた。
そして次の言葉で、胸の奥を強く打たれる。
「皇帝になる準備をしろ」
彼女がレオンを見る。
灰色の瞳は、少しも熱を含んでいない。
「皇太子派が全滅する前に」
支持が高まり、敵が明確になり、皇族内部の圧力も強まっている。
今ここで準備を始めなければ、冠はまた別の腐敗へ流れる。そういう意味だと、アリシアには分かった。
分かったからこそ、胸が痛む。
「人が落ちる前提で言うのね」
「既に落ちている者が多い」
正しい。正しすぎて、悲しかった。
アリシアはゆっくり頷く。
民衆の歓声の中で、彼女は初めて、皇帝候補という言葉の現実の重みを自分の骨で受け止めた。
帝都全体は二つに割れた。
だがその裂け目の上を歩く責任は、もう遠くから眺めているだけのものではない。
そしてその日の暮れ、反レオン派の小拠点いくつかが、支持派の若い騎士と自治兵により包囲されたという報せが帝冠監察院へ届く。
まだ本格的な戦闘ではない。だが、政治的な対立がいつでも武力へ転じる距離まで来ていることを、誰の目にも明らかにするには十分だった。




