皇女の秘密会議
第一皇女宮の私室は、外から見れば静かな夜の一室にすぎなかった。
だがその晩、室内には妙に重い緊張があった。灯火は絞られ、侍女たちは早々に下げられている。残されたのはアリシア一人と、彼女を訪ねてきた客だけだった。
カサンドラ。
現皇帝ルドルフの側妃であり、後宮で長く生き残ってきた女。セドリックを育てた政治的母でありながら、アリシアにとってもまた、宮廷の生き方を教えてきた年長者だった。
彼女は深紫の室内衣のまま、応接卓へ優雅に腰を下ろしている。
その姿は柔らかい。だが、その目は訪問の目的が慰めではないと最初から告げていた。
「演説、聞きましたよ」
声は穏やかだった。
「帝都では評判のようですね」
アリシアは向かいへ座る。
「皮肉ですか」
「まさか」
カサンドラは微笑む。
「ただ、光が強くなれば影も濃くなる、と申し上げているのです」
回りくどい言い方だ。だが、彼女は昔からこうして本題へ入る。
「母上は何を警告しにいらしたの」
アリシアが直截に問うと、カサンドラの微笑がほんの少し薄くなった。
「帝冠監察官よ」
やはりそこだ、とアリシアは思う。
「あの男は、帝国全体の敵になろうとしている」
静かな断定だった。
「皇太子を失格させ、改革派貴族を切り、元老院議長へ公然と刃を向けた。次は軍、次は聖務庁、そしていずれ皇帝そのものへ届くでしょう」
アリシアは口を開きかけ、いったん止める。
その危険性を、自分も考えなかったわけではないからだ。レオンの刃は公正だ。だが、公正であることと、帝国全体がそれを受け止められることは別問題だ。
カサンドラはその迷いを見逃さない。
「あなたも分かっているはずです。力が強すぎれば、たとえ善意でも国家を歪める」
「レオンは善意ではなく、契約に従っている」
アリシアの返答は、思ったより早く出た。
カサンドラの目が細まる。
「もうその名で呼ぶのね」
不意打ちのような言い方に、アリシアの眉がわずかに動く。
「議論と関係ありません」
「あるわ」
今度は側妃の方が即答した。
「人は、自分が信じたい相手を制度に見立てるものです」
室内の空気が冷える。
母としての諭しではない。政治家としての圧力だ。
「皇族として考えなさい、アリシア」
カサンドラは卓へ指を置いた。
「皇位の後継者としてのお前の立場を守ること。それが何より先です」
「帝国を守ることよりも?」
「継承が乱れた帝国は、まず内側から崩れます」
その返答には経験が宿っていた。
後宮の争い、皇子たちの牽制、病床の皇帝を囲む沈黙。カサンドラは、秩序がいかに脆い均衡の上にあるかを知っている。
「帝冠監察官の力が強まりすぎれば、皇帝は牧羊犬に成り下がる」
言葉は柔らかいのに、内容は鋭い。
「冠を戴く者が、常に裁かれる側として震えていれば、誰が国家の最終責任を負うのです」
アリシアは黙った。
そこには一理ある。責務を負う者が常に刃の下へ置かれる構図は、たしかに国家運営に別の歪みを生むかもしれない。
だが、それでも。
「母上」
アリシアはゆっくり言う。
「帝冠監察官は、皇帝の道具ではありません」
カサンドラの目がわずかに揺れる。
「帝国を正すためにいるのです。皇帝が道を外れた時に、止めるために」
「その結果、お前も失格にされるかもしれないのに?」
ついに核心が落とされた。
室内が静まり返る。
アリシアの喉がかすかに乾くのを、自分ではっきり感じた。
カサンドラは声を柔らかく戻す。
「脅しているのではありません。現実を言っているのです」
だが、それは十分に脅しだった。
「皇族としての立場を守りたいなら、今のうちに対抗の準備をなさい。第二皇子とまで組めとは言いません。けれど、少なくとも帝冠監察官と距離を取りなさい」
暗黙の要求は明白だった。
反レオン派へ近づけ。元老院側へ寄れ。少なくとも、今のような信任を与えるな。
アリシアは膝の上で指を組み直す。
母の言葉は完全な誤りではない。レオンの力は強い。正しすぎる刃は、ときに国家全体を切り裂く危険も孕む。
それでもなお、信じるに値するものはどちらか。
兄の血統主義。
セドリックの実力主義。
グレゴリウスの制度維持。
それらを見た後では、答えはもう曖昧にできなかった。
「距離は取りません」
はっきり言った。
カサンドラのまなざしが、初めて母ではなく他人のものになる。
「聞き分けのない子ね」
「そうかもしれません」
アリシアは視線を逸らさない。
「でも、皇族であることを理由に、裁きの外へ出る気はありません」
「理想に酔っているのではなくて?」
「いいえ」
今度は迷いなく答えられた。
「理想がなければ、現実は腐敗の言い訳にしかならないと知っただけです」
長い沈黙が二人のあいだに落ちる。
燭台の火が小さく揺れ、その明滅がカサンドラの横顔を年齢より老いて見せた。
やがて彼女は立ち上がる。
「……なら、好きになさい」
声音は静かだった。
だが、諦めとは違う。見切りを含んだ静けさだ。
扉へ向かう直前、カサンドラは振り返らずに言う。
「では、お前も失格にされるかもしれない」
その言葉は呪いのようであり、予言のようでもあった。
「帝冠監察官の監察下にある限り」
扉が閉まる。
アリシアは一人、私室の中央に残された。
広い部屋なのに、急に息苦しいほど狭く感じる。
母の言葉は痛いところを突いていた。
皇位継承権を失う恐れ。皇族としての立場そのものが、秤の上で砕かれる未来。考えないようにしていた恐怖が、今ははっきり形を持って胸の前に座っている。
それでも。
アリシアはゆっくり窓辺へ歩いた。
夜の帝都にはまだ灯りが散っている。民衆、貴族、軍人、役人。誰もがそれぞれの都合で帝国を語る。
その中で、自分が何を選ぶのか。
「……失格にされるなら、それまでの女だったということね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
怖くないわけではない。むしろ怖い。だが、その恐怖から逃げて秩序を曲げた瞬間、自分はきっと兄たちと同じ場所へ落ちる。
レオンの灰色の瞳が脳裏に浮かぶ。
あの男は、自分を皇女だからといって救わないだろう。
だからこそ、信じる価値がある。
アリシアは瞼を閉じ、ひとつ息を整えた。
母の圧力と、皇族としての不安と、その上でなお選ぶ意志。その全部が絡み合いながら、少しずつ芯へ変わっていく。
彼女の試練は、いま始まったばかりだった。




