忠誠を失った騎士
近衛騎士団本部の訓練場は、朝から妙な静けさに包まれていた。
剣戟の音は響いている。号令も飛んでいる。だが、そのどれもが以前よりわずかに硬い。誰もが同じ動きをしながら、心だけ別々の場所を向いているような気配だった。
ラヴィニア・カルステンは訓練場の端に立ち、部下たちの組手を見ていた。
副団長として指示を出し、乱れを正し、誓約違反の疑いがある者を記録する。やるべきことは山ほどある。だが、それでも胸の奥には抜けない棘が残っていた。
自分は長く皇太子へ忠誠を誓ってきた。
その主君が、帝国に寄生した犯罪者だった。
ならば、あの忠誠は何だったのか。
組手の最中、若い騎士二人が言い争いを始める。
「副団長は帝冠監察官寄りだ」
「違法命令に従わなかっただけだ」
「皇族を敵に回して騎士団が保つか」
「なら、また禁呪を見逃せと?」
ラヴィニアが一喝するより先に、二人は互いへ拳を振り上げた。
次の瞬間、訓練用剣の柄がその間へ割って入る。
「やめろ」
レオンだった。
どちらの騎士も、反射的に動きを止める。
本部へ帝冠監察官が来るとは聞いていなかった。だが彼は平然と訓練場の中央に立ち、まるで最初からここにいるべきだったかのように周囲を見渡した。
ラヴィニアはすぐに前へ出て敬礼する。
「監察官殿」
「団内の空気が悪い」
「承知しています」
その返答の硬さに、自分でも驚く。
ラヴィニアは疲れていた。部下の分裂、上層部の政治的圧力、そして自分自身の迷いに。
レオンは彼女の顔を一瞥し、訓練場の脇へ歩く。
「来い」
命令口調だったが、妙に拒めなかった。
二人は本部裏手の回廊へ移る。
石壁に囲まれた半屋外の細道で、朝の風だけが訓練場の熱気を冷ましていた。
しばらく沈黙が続いた後、レオンが言う。
「お前は今、誰に仕えている」
ラヴィニアは答えられなかった。
即答できると思っていたのに、喉が閉じる。
皇族か。第一皇女か。近衛騎士団か。帝冠監察官か。
どれも違う気がして、どれも少しずつ正しい気もする。
「……分かりません」
悔しいほど小さな声になった。
レオンはそれを責めない。
「だろうな」
肯定とも慰めともつかない言い方だった。
「お前は長く、皇族個人への忠誠を騎士道だと思わされてきた」
ラヴィニアの拳が震える。
思わされてきた。まるで自分の意思まで否定されたようで、胸が痛む。
「違うのですか」
思わず問い返していた。
「違う」
今度は即答だった。
「近衛騎士団の誓約は、玉座と帝国臣民を守るためにある。皇族個人の私欲に捧げるためではない」
ラヴィニアは目を伏せる。
訓練の夜、入団の誓いで復唱した文言が脳裏によみがえる。あの時たしかに、誓った先は一人の主君ではなかったはずだ。
「では、私は」
喉が熱くなる。
「私は、何を取り戻せば」
言葉の途中で、涙がにじんだ。
騎士として泣くつもりはなかった。だが、自分が何を失っていたのかを言葉にされた瞬間、抑えきれなくなった。
「俺に仕えるな」
レオンの声は変わらない。
「帝国に仕えろ」
ラヴィニアは顔を上げる。
涙が頬を伝っているのに、拭うことも忘れていた。
「帝国、そのものに……」
「忠誠を個人へ預けるな。秩序へ戻せ」
回廊を風が抜ける。
その一言は、剣より深く、まっすぐラヴィニアの中心へ入ってきた。
「どうやって」
絞り出すように問う。
「どうやって、その忠誠を」
レオンは少しだけ考え、それから告げた。
「帝冠監察官の護衛になれ」
ラヴィニアの目が見開かれる。
「護衛……兼、監視だ」
「監視?」
「俺が帝国から逸れたら、お前が見ろ」
あまりにも予想外の言葉だった。
忠誠を要求するのではなく、自分を監視しろと言う。そんな権力者を、ラヴィニアは一人も知らない。
「俺を守るのは、俺個人のためじゃない」
レオンは静かに言う。
「帝国の正義が途中で折れないようにするためだ」
ラヴィニアはそこでようやく理解する。
この男のそばに立つことは、誰か一人へ従うことではない。帝国の秩序がどこへ向かうのかを、自分の目で見続けることなのだ。
「……承ります」
声は震えていた。
だが、その震えは迷いからではない。
「近衛騎士団副団長ラヴィニア・カルステン」
彼女は涙を拭いもせず、真っ直ぐに背を伸ばす。
「帝冠監察官レオン・クロウヴァイスの護衛兼監視役として、帝国に奉仕します」
レオンは短く頷いた。
儀礼的でも感動的でもない、ただ受理の頷き。
それが逆に、ラヴィニアにはありがたかった。
回廊の先で、数名の近衛騎士たちがその光景を見ていた。
副団長へ従って前へ出る者もいる。逆に顔をしかめて去る者もいる。騎士団の分裂は、これでさらに明確になるだろう。
だがラヴィニアはもう、昨日までほどそれを恐れていなかった。
失う忠誠があるのではない。取り戻す忠誠があるのだと知ったから。
同じ日の夕刻、帝都南区の貴族街では、皇太子派の生き残りが密かに集まり始めていた。
表向きは喪失した継承権を悼む小規模な夜会。だが実際は、証拠隠滅と逃走経路の相談である。
その招待名簿の一角に、グレゴリウス・バルテンの名もある。
証拠を燃やす者、売り渡す者、次の主へ差し出す者。
帝都の夜は、まだこれからさらに濁っていく。




