暗殺組織《夜鴉》
帝冠監察院の地下牢は、冷たさの質が地上と違った。
石壁そのものに魔力抑制の紋が刻まれ、湿った空気には血ではなく古いインクと鉄の匂いが混じっている。罪人を怯えさせるための暗さではない。契約と証言を保存するための沈黙が支配する空間だった。
最奥の監察牢で、シェリル・ノクスは壁にもたれず立っていた。
手首には封鎖具、足元には抑制円。だがその姿勢は捕縛された者のものではない。いつでも誰かの喉へ飛びかかれるよう、重心だけは崩していなかった。
牢の鉄扉が開く。
入ってきたのはレオン一人だった。
シェリルの目が細まる。
「護衛も連れずに来るのか」
「お前はここでは動けない」
「試してみるか」
「必要ない」
短い応酬だった。
だが、挑発に乗らないその態度が、シェリルには妙にやりづらい。
レオンは牢の外側に置かれた小卓へ数枚の書面を並べた。
「暗殺依頼の全リストを出せ」
シェリルは鼻で笑おうとして、うまくできなかった。
「できるなら、昨夜のうちにしている」
「契約か」
「そうだ」
彼女は視線を逸らさない。
「依頼主の名、対象、報酬、保留案件。喋ろうとすれば喉が焼ける。裏切れば心臓が止まる。そういう風に作られている」
事実を述べる声には、もはや怒りも誇りも薄かった。
できないことを何度も試した者の響きだ。
レオンは抑制円の外側へ片膝をつき、静かに言う。
「見せろ」
「見せる?」
「契約そのものを」
シェリルは少しだけ黙った。
そんな発想を向けられたことがなかったのだ。普通は命令に従うか、処分するかの二択しか与えられない。
「……好きにしろ」
レオンが右手を翳す。
「帝冠監察」
今度は戦闘時のような荒い起動ではない。
細い黒光が糸のように伸び、シェリルの周囲へ絡みつく契約の層を、一枚ずつ剥がして読むように可視化していく。
複雑だった。
主契約、従契約、保険契約、報復条項、沈黙条項、血統認証、代行署名。人一人の人生に掛けるには、あまりにも多い。
ラヴィニアが後方の影からそれを見て、息を呑む。
彼女は護衛として扉外に控えていたが、可視化された文字の量が異常すぎて、思わず中を覗いていた。
「こんなものを人に……」
シェリルは苦笑に近い歪みを浮かべる。
「人に、か」
その言葉が、自分へ向けられた久しぶりの分類だった。
レオンは契約の中心へ指を止めた。
「元締めは一人だ」
光の層の奥に、黒く塗り潰された核がある。
外側の依頼は複数でも、全てそこを通して縛られていた。
「アルベルト・ノクス」
その名を口にした途端、シェリルの喉がひくりと震えた。
「《夜鴉》の現頭領」
レオンの声は変わらない。
「お前の養父であり、所有者だ」
所有者。
その言い方に、シェリルの目が一瞬だけ鋭くなる。
だがすぐに、怒りすら持てない空白へ戻った。
「そうだ。あいつはそういう男だ」
牢の中へ短い沈黙が落ちる。
レオンは契約のさらに奥、幼少期に刻まれた古い層を追う。
平民登録前の識別紋。売買履歴に近い強制印。孤児売渡しの記録。
「……平民の孤児か」
シェリルはその言葉で、初めて目を伏せた。
思い出したくもないほど昔の記憶だ。
寒い路地、薄い粥、名前も定まらない日々。そこから拾い上げられたと思ったら、実際には商品として整えられただけだった。
「知ってどうする」
声が少し掠れる。
「同情するのか」
「必要ならする」
あまりにも平坦に返されて、シェリルは逆に息を失う。
「だが優先するのは解体だ」
「……何を」
「お前を縛る契約を」
初めて、シェリルの瞳に分かりやすい揺れが走った。
レオンは続ける。
「解放することはできる」
牢の空気が張りつめる。
ラヴィニアでさえ息を潜めた。
「ただし、代償がある」
シェリルの喉が上下する。
「どんな」
「帝国に奉仕することだ」
レオンは立ち上がった。
「《夜鴉》を、帝冠監察院の諜報部隊へ変える」
シェリルはしばらく言葉を失った。
命令ではなく、条件だった。処分ではなく、選択だった。
そんなものを差し出されたことが、人生で一度もない。
「ふざけるな」
反射で出た否定は、いつもの切っ先ほど鋭くない。
「そんな都合のいい話があるか。俺たちは暗殺者だ。帝国の犬になれと?」
「犬ではない」
レオンの返答は即座だった。
「お前に必要なのは、初めて自分で選んだ忠誠先だ」
その言葉が、シェリルの胸のどこへ落ちたのか、自分でも分からなかった。
彼女は壁へ背を預け、笑おうとして失敗する。
「選ぶ、だと」
「できないと思わされてきただけだ」
レオンは書面を一枚、卓へ置いた。
それは昨夜読み取った依頼系統の整理表だった。
皇太子派、商会派、聖務庁外郭、そしてさらに古い王宮側の予約契約。帝国全体が《夜鴉》を都合よく使ってきた証拠。
「お前が道具だったなら、誰がどう使ってきたかを証言する価値がある」
シェリルはその紙を見る。
自分の人生が、他人の依頼一覧としてまとめられている。
吐き気がするほど正確で、だからこそ目を逸らせなかった。
「……少し考えさせろ」
やっと出た言葉だった。
レオンは頷く。
「構わない」
扉へ向かいかけて、そこで足を止める。
「シェリル・ノクス」
彼女が顔を上げる。
「お前を人として扱うなら、待つ時間も必要だ」
それだけ残して、レオンは牢を出た。
扉が閉まった後もしばらく、シェリルは動けなかった。
人として扱う。そんな言葉を受け取った記憶が、自分の人生のどこにも見当たらないからだ。
暗い天井を見上げる。
いままでの自分は命令に従うだけでよかった。考えなければ痛みも少なかった。
だが、選択肢を与えられることは、刃より深く人を切る。
地下牢の冷気の中で、シェリルは初めて、自分の未来というものを恐れていた。




